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悪役令嬢 玉藻前  作者: ニカオ


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3/6

第三話 友達

あれから数日。

玉藻は、千代と二人きりになることを避けていた。

露骨にならないように。

呼ばれれば返事をする。

頼まれれば仕事もする。

笑うべきところでは笑う。

ただ。

以前のように、自分から千代のそばへ行くことはなくなった。

「玉藻」

文を整理していた手が止まる。

「はい」

「お茶にしましょう」

「申し訳ありません。これを先に終わらせますので」

「昨日もそう言ってなかった?」

「昨日とは別の仕事です」

「そう」

千代は少し困ったように笑った。

「じゃあ、終わったら来てね」

「……はい」

千代が去っていく。

玉藻は、その背中を見なかった。

紙へ視線を落とす。

――しくじりました。

――まさか、バレてない?

――考えてもいないでしょう。

――そういうところは昔から変わらないわね。

忘れようとするたび、あの会話が戻ってくる。

千代は何を知っている。

小夜は何を知っている。

そして。

自分のことを。

どこまで知っている。

「…………」

筆先から墨が落ちた。

「あ」

紙に黒い染みが広がる。

「玉藻?」

いつの間にか千代が戻っていた。

「どうしたの?」

「何でもありません」

「何でもない人が、そんな顔する?」

千代が近づく。

玉藻はわずかに身を引いた。

千代の足が止まった。

「……まだ、怖い?」

「え?」

「あの日のこと」

玉藻は答えなかった。

千代は宗次のことを知らない。

玉藻が人を刺したことも。

千代が知っているのは、夜遅く。

衣を破り。

髪を乱し。

首に指の跡を残して帰ってきた玉藻だけ。

だから。

千代は勘違いしている。

「無理に元気にならなくていいのよ」

「…………」

「でもね」

千代が少しだけ声を柔らかくする。

「忘れなさい」

玉藻の指が止まった。

「……忘れる?」

「そう」

千代は笑った。

「あの日のことなんて、全部」

全部。

「あなたは何も悪くないんだから」

玉藻は千代を見る。

千代の顔には。

いつもの笑顔。

――忘れなさい。

藻女だったことを?

――誰かに今日のあなたのことを聞かれても、何も答えなくていい。

何も話すな?

玉藻として。

何も知らないふりをして。

ここで生きていろ。

そういう意味?

「……玉藻?」

「はい」

玉藻は視線を戻した。

「ありがとうございます、千代様」

それ以上は。

何も言わなかった。

*

冬の寒さが、少しずつ緩み始めていた。

朝にはまだ指先が冷えたが、昼になると庭へ差す陽に柔らかさが混じる。

橘家で暮らすうちに。

玉藻にも、季節が動いていることが分かるようになった。

そんなある日。

使いから戻る途中だった。

「知ってる?」

女たちの声が聞こえた。

玉藻は気にも留めず、通り過ぎようとした。

「橘家、最近ずいぶん雅仁様に近づいているんですって」

足が止まった。

「まあ。千代様?」

「そう。橘家も必死なのよ」

「どうして?」

女が声を落とす。

「ほら。例の……怪談になっている娘のお家」

玉藻の指先が冷たくなる。

「謀反で取り潰された?」

「そうそう」

「それが橘家と何の関係が?」

「あのお家があった頃は、橘家と何かと競うこともあったそうよ」

「じゃあ……」

「ええ」

小さな笑い声。

「今は好機ですものね」

玉藻は歩き出した。

聞かなかったことにする。

噂。

ただの噂だ。

自分が一番よく知っている。

噂が。

どれほど簡単に形を変えるのか。

――狐なんじゃない?

――雅仁様は化かされている。

――あの女は国を乱す。

何度も。

何度も。

聞いた。

「……噂よ」

自分へ言い聞かせる。

誰かの家が没落すれば。

別の家が相対的に力を増す。

それだけ。

橘家が得をしたからといって。

橘家が自分の家を潰したことにはならない。

そんなことくらい。

分かっている。

それでも。

一度生まれた疑念というものは。

都合よく。

次の材料を拾ってしまう。

*

春の気配が少しずつ近づく頃。

玉藻は橘家の文書を清書していた。

朝廷へ提出する文だった。

隣では千代が、いつもの綴じ本に何かを書いている。

最近。

よく見る。

千代が一人で筆を走らせている姿を。

何を書いているのか。

玉藻は知らない。

以前なら、軽い気持ちで聞けただろう。

今は。

聞くことすら躊躇われた。

玉藻は自分の文へ目を戻す。

そして。

ある一文で筆を止めた。

「……あの」

元の文を書いた家人が顔を上げる。

「何だ?」

「こちらですが」

「間違いでもあったか?」

「文字ではなく……」

言うべきか迷う。

自分は使用人だ。

頼まれたのは清書。

内容に口を出す立場ではない。

「何だ。言ってみろ」

「このままでは、橘家が先方へ要求しているように読めます」

家人の眉が寄る。

「要求しているのだから当然だろう」

「はい。ただ、その前で一度こちらが譲歩しております」

玉藻は該当する箇所を指した。

「ですから、ここは橘家から求めるのではなく、先方から申し出ていただいた形にした方がよいのではないでしょうか」

「どう違う?」

「結果は同じです」

玉藻は答える。

「ですが、先方の面目が保たれます」

「何をしている」

声がした。

玉藻が振り返る。

橘家当主が立っていた。

「申し訳ございません」

すぐに頭を下げる。

「私が余計なことを――」

「何を話していた」

家人が説明する。

当主は玉藻を見る。

「続けなさい」

「ですが」

「よい」

玉藻は少し迷ってから説明した。

当主は黙って聞いていた。

「……なるほど」

文を見る。

「玉藻の言う形へ直せ」

「はい」

玉藻は顔を上げた。

「よろしいのですか?」

「何がだ」

「私などの意見を」

「使える意見なら、誰のものでも使う」

「父上」

横から千代の声。

「玉藻は使えるでしょう?」

「千代様」

当主が眉を寄せる。

「人を道具のように言うな」

「褒めてるのに」

「言い方の問題だ」

「細かいわね」

「お前が雑なのだ」

「父上は私にだけ細かいのです」

「当然だ」

「どうして?」

「娘だからだ」

千代が呆れた顔をする。

当主は気にも留めない。

「それより」

千代の机を見る。

「また書いていたのか」

千代は綴じ本を手元へ寄せた。

「いいでしょう、別に」

「目を悪くするぞ」

「昼間です」

「姿勢も悪い」

「父上」

「何だ」

「うるさいです」

「千代」

玉藻は。

思わず口元を緩めた。

千代が気づく。

「あ。今笑った」

玉藻の笑みが止まる。

「……何のことでしょう」

「最近、全然笑わなかったでしょう?」

「そんなことは」

「ある」

千代は少し嬉しそうだった。

その顔を見て。

玉藻はまた視線を逸らした。

数日後。

先方から返事が届いた。

橘家の望んだ通りだった。

当主はそれ以降。

以前より少しだけ、玉藻へ仕事を任せるようになった。

「玉藻」

ある日。

当主に呼び止められた。

「はい」

「この文も見ておけ」

「私が、ですか?」

「何かおかしいか」

「いいえ」

「なら頼む」

それだけだった。

だが。

使用人の一人があとで教えてくれた。

「旦那様がああいう頼み方するの、珍しいよ」

玉藻は。

少しだけ。

嬉しかった。

橘家で。

自分の居場所が。

少しずつできていた。

*

だからこそ。

聞くのが怖かった。

「千代様」

庭に薄い春の色が混じり始めた頃。

二人で文を整理していた。

「何?」

「雅仁様との……お話があると聞きました」

千代の手が止まる。

「ああ」

否定しない。

「本当なのですか?」

「話があるのは本当よ」

「…………」

「まだ何も決まってないけど」

玉藻は紙へ目を落とした。

「もし」

声が。

少し硬くなった。

「決まったら?」

千代は少し考えた。

「そうね」

やがて。

「受けると思う」

胸の奥が痛んだ。

何の痛みなのか。

考えたくなかった。

「……そうですか」

「玉藻?」

「お似合いだと思います」

千代が玉藻を見る。

「本当に?」

「はい」

「…………」

千代は何か言おうとして。

やめた。

「そう」

それだけだった。

玉藻も。

それ以上は聞かなかった。

なぜ。

雅仁との婚姻を受けるのか。

聞けばよかった。

でも。

聞けなかった。

聞いて。

自分が恐れている答えが返ってきたら。

もう。

今までのようには。

いられない気がした。

*

その頃。

橘家では。

別のことで忙しくなり始めていた。

千代の誕生日が近い。

当主が。

落ち着かない。

「料理は?」

「手配しております」

「本当に足りるか?」

「十分でございます」

「菓子は?」

「昨日確認されました」

「花は?」

「一昨日確認されました」

「そうか」

「旦那様」

「何だ」

「まだ十日ございます」

「もう十日しかない」

家人が小さくため息をついた。

玉藻は。

少し離れたところで聞いていた。

千代が隣で額を押さえる。

「恥ずかしい」

「愛されていらっしゃるのですね」

玉藻が言う。

「笑わないで」

「笑っておりません」

「口元」

玉藻は口元を押さえた。

「……失礼しました」

「もう」

千代は困ったように笑った。

その笑顔を見ると。

やはり。

分からなくなる。

この人が。

自分を害そうとしているようには。

どうしても見えない。

だが。

人は。

笑顔で嘘をつける。

それも。

玉藻自身が。

よく知っていた。

*

誕生日が近づくにつれ。

橘家には人の出入りが増えた。

贈り物。

祝いの文。

仕立て物。

菓子。

花。

玉藻も準備に追われた。

その間も。

千代は相変わらず玉藻を気にかけた。

「今日はもう休みなさい」

「まだ終わっておりません」

「明日でいいでしょう」

「千代様のお祝いの準備ですよ」

「私のために倒れられたら困るの」

「倒れません」

「この前もそう言ってた」

玉藻の手が止まる。

「……この前?」

「ほら」

千代が少し困った顔をする。

「あの日のこと」

玉藻は黙った。

千代が声を落とす。

「忘れなさいって言ったでしょう?」

また。

その言葉。

「いつまでも抱えていても、苦しいだけよ」

「…………」

「もう終わったことなんだから」

終わった。

玉藻は。

千代を見る。

藻女は。

終わった。

玉藻として。

黙って生きろ。

また。

そう聞こえた。

「……承知しております」

「玉藻」

「仕事へ戻ります」

千代が何か言う前に。

玉藻はその場を離れた。

*

そして。

誕生日当日。

朝から橘家は賑やかだった。

玉藻も早くから動いていた。

花を整え。

膳を確認し。

届いた祝いの品を書き留める。

当主は朝から三度。

同じことを確認した。

「千代の好きな菓子は入っているか?」

「入っております」

「本当に?」

「旦那様」

「何だ」

「先ほども確認されました」

「そうだったか」

玉藻は。

思わず笑いそうになった。

そのとき。

ふと。

手が止まった。

今日。

自分も。

誕生日だった。

「…………」

忘れていたわけではない。

ただ。

考えないようにしていた。

去年は。

父がいた。

母がいた。

藻女という名前で。

祝ってもらった。

今年は。

誰も知らない。

玉藻という女の誕生日など。

誰にも。

「玉藻!」

声が飛ぶ。

「はい!」

「そっちお願い!」

「今参ります」

玉藻は。

考えるのをやめた。

今日は。

千代の誕生日。

それでいい。

*

祝いの席。

「千代」

当主が笑う。

「十八の誕生日、おめでとう」

「ありがとうございます、父上」

「十八か」

「はい」

「早いものだ」

「毎年言っていますよ」

「毎年思うのだから仕方ない」

周囲から笑いが起きた。

祝いの言葉が続く。

玉藻は少し離れたところで。

それを見ていた。

千代が。

幸せそうに笑っている。

玉藻も。

小さく笑った。

疑っている。

それでも。

今日くらいは。

そう思った。

そのとき。

千代が玉藻を見つけた。

「あ」

嫌な予感がした。

「玉藻」

「はい?」

「こっち来て」

「私はここで――」

「いいから」

「千代様」

「今日は私の言うことを聞きなさい」

「横暴です」

「姫ですから」

以前なら。

もっと自然に笑えた。

今日は。

少し遅れて。

玉藻は笑った。

千代が玉藻を皆の前へ連れてくる。

そして。

何でもないことのように。

言った。

「玉藻も」

笑う。

「お誕生日、おめでとう」

音が。

消えた気がした。

「…………え?」

「おめでとう」

「…………」

周囲がざわめく。

「なんだ、玉藻も今日なのか」

「それはめでたい」

「一緒に祝えばいい」

声が。

遠い。

玉藻は。

千代だけを見ていた。

「千代……様」

「何?」

「どうして」

喉が。

乾く。

「どうして……私の誕生日を?」

千代の笑顔が。

一瞬。

止まった。

本当に。

一瞬。

「あ……」

玉藻は見逃さなかった。

千代はすぐ笑う。

「前に聞いたでしょう?」

「…………」

言ってない。

一度も。

玉藻として。

誕生日を。

誰にも。

言っていない。

なのに。

千代は知っている。

今日が。

自分の誕生日だと。

藻女の。

誕生日だと。

頭の中で。

すべてが繋がった。

川下。

読み書きのできる若い娘。

千代が探していた。

初めて会った日。

長い間。

自分の顔を見つめた。

――笑い方。さっきまでのは綺麗だけど、なんか違う。

宗次を刺した夜。

井戸で白粉も紅も洗い落とした。

藻女だった頃と、ほとんど変わらない顔。

それでも千代は。

一瞬も迷わず。

――玉藻!

そして。

――そういうところは昔から変わらないわね。

「…………」

違う。

もう。

偶然ではない。

玉藻の中で。

ずっと形を持たなかった疑念が。

静かに。

一つの答えへ変わった。

知っている。

千代は。

自分が藻女だと。

知っている。

知っていて。

探した。

知っていて。

橘家へ入れた。

知っていて。

何も言わない。

――忘れなさい。

あの言葉が。

また聞こえた。

藻女だったことは忘れろ。

何も話すな。

玉藻として生きていろ。

黙っていれば。

このまま生かしておいてやる。

そういうことなのだろうか。

それとも。

必要な時が来れば。

自分も――。

「玉藻?」

千代の声で我に返った。

「顔色が悪いわ」

「……大丈夫です」

「でも」

「大丈夫です」

少し強く言ってしまった。

千代が黙る。

「……そう」

玉藻は目を伏せた。

もう。

どうでもいい。

一度死んだ人間だ。

藻女はもういない。

玉藻だって。

いつまで生きていられるか分からない。

そのとき。

「玉藻」

千代が言った。

「いつもありがとうね」

玉藻は顔を上げた。

「……え?」

「急に何です?」

「今日くらい言ってもいいでしょう?」

千代が笑う。

「あなたには、助けられてばかりだから」

意味が分からない。

自分が。

千代を?

いつ。

何から。

「千代様」

「何?」

「何のお話を……」

千代は答えなかった。

代わりに。

少しだけ。

真面目な顔になった。

「今度は、私が助けるわ」

心臓が。

大きく鳴った。

「…………」

何を。

知っている。

何をするつもりなの。

「どういう意味です?」

「今はまだ言えない」

「なぜです」

「もう少しだけ必要なの」

「何が?」

「玉藻」

千代は困ったように笑った。

「そんな怖い顔しないで」

怖い顔をしているのは。

あなたが。

怖いから。

でも。

言えなかった。

千代は少し考えてから言った。

「明日の夕方」

「……明日?」

「うん」

千代は頷いた。

「明日の夕方まで、待って」

「…………」

「そのとき、ちゃんと話すから」

ちゃんと。

何を?

自分が藻女だと知っていること?

川下で探していた理由?

小夜とのこと?

雅仁との婚姻?

それとも。

もっと別の何か。

「分かりました」

玉藻は答えた。

逃げることも考えた。

だが。

もう。

逃げたくなかった。

明日。

全部。

確かめる。

*

翌日。

朝から玉藻は落ち着かなかった。

千代とはほとんど顔を合わせなかった。

一度。

廊下の向こうに姿を見つけた。

声をかけようとして。

やめた。

千代も玉藻に気づいた。

笑った。

それだけ。

昨日と。

何も変わらない笑顔だった。

夕方が近づく。

春を待つ空は。

まだ日が落ちるのが早い。

玉藻は仕事を終えた。

手を洗う。

衣を整える。

そして。

千代の部屋へ向かった。

一歩。

一歩。

近づくたび。

胸が鳴る。

――明日の夕方まで待って。

「…………」

何を言われても。

驚かない。

そう決めた。

角を曲がる。

千代の部屋は。

もうすぐ。

そのときだった。

「きゃああああああっ!!」

悲鳴。

玉藻の足が止まった。

「……え?」

聞き覚えのある声。

小夜。

「千代様!」

玉藻は走った。

廊下を駆ける。

「千代様!」

部屋の前。

襖が開いている。

小夜が。

立っていた。

顔から。

血の気が失せている。

その視線の先。

「…………」

玉藻の足が。

止まった。

昨日まで。

笑っていた。

昨日。

十八になったばかりの。

千代が。

そこにいた。

動かない。

「……千代、様?」

返事はない。

「…………」

玉藻は。

一歩だけ。

部屋へ入った。

もう一度。

呼んだ。

「千代様」

返事は。

なかった。

昨日。

――今度は、私が助けるわ。

――明日の夕方まで待って。

何を。

言おうとしていたの?

玉藻の視線が。

部屋の中を彷徨う。

そして。

机の上で止まった。

見覚えのある。

一冊の。

綴じ本。

小夜が、震える声を絞り出した。

「わ、私……」

玉藻は綴じ本から目を離した。

「来たときには……もう……」

小夜の手が震えている。

「私じゃありません」

「…………」

「信じてください。私、本当に……何も……」

玉藻は小夜を見る。

宗次との待ち合わせ場所にいた女。

その翌日。

千代と密談していた女。

――しくじりました。

――まさか、バレてない?

そして今。

千代の亡骸のそばにいる。

あまりにも。

出来すぎている。

「小夜」

「はい……」

「どうして、ここに?」

「それは……」

小夜が言い淀む。

そのとき。

廊下の向こうから声がした。

「今の悲鳴は何だ!」

「千代様のお部屋だ!」

足音。

何人も来る。

小夜の顔から、さらに血の気が引いた。

「どうしよう……」

玉藻は考えた。

小夜が捕まる。

そうなれば。

聞けなくなる。

宗次のこと。

千代とのこと。

藤原家のこと。

何より。

千代が昨日、自分に何を伝えようとしていたのか。

小夜なら。

何か知っているかもしれない。

「小夜」

「……はい」

「逃げて」

「え?」

「早く」

「でも……」

「あなたを信じたわけではありません」

小夜の顔が強張る。

玉藻はまっすぐ見た。

「聞きたいことがあります」

足音が近づく。

「だから」

玉藻は廊下の反対側を指した。

「今は逃げて」

「玉藻様……」

「早く!」

小夜が走った。

玉藻はその背中を見送る。

そして。

千代を見る。

「…………」

ごめんなさい。

今だけ。

待っていて。

人が駆け込んできた。

*

それから。

橘家は。

昨日とはまるで別の家になった。

祝いのために飾られた花が、まだ残っている。

片づけられていない祝いの品。

昨日まで響いていた笑い声。

そのすべてが。

ひどく場違いに見えた。

「千代!」

当主の声が響いた。

玉藻は。

顔を上げられなかった。

「千代……」

もう一度。

今度は。

父親の声だった。

玉藻は目を閉じた。

昨日。

十八になった娘を。

誰より嬉しそうに祝っていた人。

その声を。

聞いていられなかった。

玉藻は。

そっとその場を離れた。

*

夜になっても。

橘家の騒ぎは収まらなかった。

小夜がいない。

千代を最初に見つけたのは。

藤原家の女房。

そして。

その女房は消えた。

家中が。

小夜を探している。

玉藻は。

自室にいた。

膝の上には。

一冊の綴じ本。

千代の部屋から。

持ってきた。

何度も見た。

千代が。

いつも何かを書いていたもの。

勝手に読むべきではない。

分かっている。

生きていたなら。

絶対に。

開かなかった。

でも。

もう。

本人には聞けない。

――明日の夕方まで待って。

その答えが。

ここにあるかもしれない。

玉藻は。

綴じ本へ手を置いた。

「……ごめんなさい」

そして。

開いた。

*

最初は。

何でもないことばかりだった。

天気。

食事。

父親への愚痴。

新しい衣。

読んだ文。

会った人。

幼い頃から。

千代はずっと。

日々の出来事を書き残していたらしい。

玉藻は頁をめくる。

そして。

手が止まった。

まだ。

幼い字だった。

『今日、犬に追いかけられた。』

玉藻の指が止まる。

『とても怖かった。』

『足が動かなかった。』

『もう駄目だと思った。』

『そのとき、藻女が来た。』

「…………」

『私より小さいのに。』

『私の前に立った。』

『犬に向かって石を投げた。』

『腕を噛まれた。』

『それでも逃げなかった。』

『最後には犬の方が逃げていった。』

玉藻の頭に。

ぼんやりと。

古い景色が浮かんだ。

泣いている女の子。

大きな犬。

石。

痛かった腕。

でも。

それだけ。

昔の。

小さな出来事。

玉藻にとっては。

それだけだった。

頁には。

続きがある。

『どうして助けたの、と聞いた。』

『藻女は変な顔をした。』

『そして言った。』

――だって千代が襲われていたでしょう?

玉藻の目が。

大きくなる。

「……千代?」

袖口。

一瞬だけ見えた。

千代の腕の。

小さな傷。

「…………」

頁をめくる。

『藻女は、たぶん忘れると思う。』

『あの子はそういう子だから。』

『困っている人を見ると、すぐ助ける。』

『自分が怪我をしたことなんて、すぐ忘れる。』

『でも私は忘れない。』

一行。

少し間が空いていた。

『いつか私も、藻女を助けたい。』

玉藻の指が。

震えた。

*

頁をめくる。

年月が進む。

そして。

ある日を境に。

文字が変わった。

『藻女の家が取り潰された。』

息が止まる。

『謀反だという。』

『信じられない。』

『あの家の方々が、そんなことをするとは思えない。』

『父上にも聞いた。』

『でも、橘家だけではどうにもできないと言われた。』

次の頁。

『藻女のお父上とお母上が死罪になった。』

『最初は流刑だったはずなのに。』

『おかしい。』

『どうして急に変わったの?』

玉藻は。

頁を持つ手に力を入れた。

『藻女も流刑になった。』

『会えなかった。』

『何もできなかった。』

その下。

墨が。

少し滲んでいた。

『昔、助けてもらったのに。』

『私は何もできなかった。』

玉藻は。

唇を噛んだ。

*

次の頁。

『藻女が死んだと聞いた。』

『川へ落ちたらしい。』

玉藻は。

息をすることを忘れた。

『でも遺体は見つかっていない。』

次の文字は。

少し強かった。

『なら、生きているかもしれない。』

さらに。

『探す。』

たった二文字。

『今度は私が探す。』

玉藻の目から。

一滴。

涙が落ちた。

*

日記には。

その後のことも書かれていた。

川下へ向かう商人。

宿場を回る者。

何人にも。

頼んでいた。

年頃の女。

読み書きができる。

身元を詳しく話したがらない。

そんな娘がいたら。

知らせてほしい。

『藻女なら、字が書ける。』

『家へ戻れないなら、身元も隠すと思う。』

『どうか。』

『生きていて。』

「…………」

玉藻は。

日記を胸から離せなくなった。

自分を。

探していた。

監視するためではない。

殺すためでもない。

ただ。

生きているかもしれない。

そう信じて。

探していた。

*

そして。

玉藻が橘家へ来た日。

『今日、商人が娘を連れてきた。』

『玉藻というらしい。』

『顔を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。』

玉藻は。

文字を追う。

『藻女だと思った。』

『でも違うかもしれない。』

『白粉も濃い。』

『髪も違う。』

『何より。』

『笑い方が違った。』

玉藻の口元が震えた。

――今の方がいい。

――何がでしょう。

――笑い方。

『だから笑わせてみた。』

「…………」

『笑った。』

『あの頃と同じだった。』

玉藻は。

口元を押さえた。

『たぶん。』

『藻女だ。』

『でも聞かない。』

『本人が玉藻と名乗るなら。』

『今は玉藻でいい。』

涙が。

また。

落ちた。

*

頁をめくる。

宗次の夜。

『今日、分かった。』

『玉藻は藻女だ。』

視界が滲む。

『夜遅く帰ってきた。』

『衣は破れていた。』

『首に跡があった。』

『化粧もしていなかった。』

『藻女だった。』

『でも。』

『玉藻と呼んだ。』

『あの子が玉藻として生きているのなら。』

『私が勝手に藻女へ戻してはいけない。』

玉藻の喉から。

小さな音が漏れた。

『いつか。』

『自分から話してくれるまで。』

『私は知らないふりをする。』

――玉藻!

あの夜。

千代は。

迷わなかった。

違う。

迷わなかったのではない。

知っていた。

知っていて。

玉藻と呼んだ。

「……なんで」

声が。

震える。

「なんで……」

*

さらに頁をめくる。

雅仁の名。

玉藻の手が止まった。

『雅仁様との縁談の話が出ている。』

胸が痛む。

『受けようと思う。』

玉藻は。

目を閉じかけた。

だが。

続きがあった。

『橘家だけでは足りない。』

『藻女家の裁定を調べ直してもらうには、もっと力が必要。』

『雅仁様のお力を借りられれば。』

『あの家が謀反などしていないと証明できるかもしれない。』

玉藻は。

動けなかった。

『藻女は嫌がるかもしれない。』

一行。

『でも。』

そして。

『必ず、藻女の家を取り戻す。』

「…………」

玉藻の中で。

何かが。

崩れた。

千代は。

雅仁を奪おうとしていたんじゃない。

自分のために。

結婚しようとしていた。

自分の家を。

取り戻すために。

*

頁は。

昨日へ近づいていく。

玉藻の手が。

震え続けている。

そして。

誕生日の日。

『今日は十八になった。』

『父上は朝から大騒ぎだった。』

『恥ずかしかった。』

『でも嬉しかった。』

玉藻の涙の中に。

昨日の光景が戻る。

『玉藻も誕生日だった。』

「…………」

『本人は言うつもりがなかったらしい。』

『どうして知っているのかと聞かれた。』

『前に聞いた、とごまかした。』

玉藻は。

日記を握った。

『ごめんなさい。』

『だって。』

『忘れるわけがない。』

次の行。

『私たちは、同じ日に生まれたのだから。』

「……千代様……」

『玉藻は最近、私を避けている。』

『きっと、あの夜のことがまだ怖いのだと思う。』

『忘れなさいと言ったけれど。』

『簡単に忘れられるものではないのかもしれない。』

玉藻は。

息を詰まらせた。

違う。

違った。

全部。

自分が。

勝手に。

『でも今日。』

『少し笑ってくれた。』

『昔の藻女と同じ笑い方だった。』

『嬉しかった。』

涙で。

文字が見えなくなる。

玉藻は袖で目を拭った。

その下に。

まだ。

続いていた。

『玉藻には助けられてばかり。』

『本人は覚えていないだろうけれど。』

『昔、私を助けてくれた。』

『だから。』

玉藻は。

次の一行を読んだ。

『今度は私が助ける番。』

昨日。

千代が。

同じことを言った。

――今度は、私が助けるわ。

「…………」

最後の頁。

今日の日付だった。

朝に書いたのだろう。

短かった。

『今日、玉藻に全部話す。』

玉藻の呼吸が。

止まる。

『藻女だと知っていたこと。』

『ずっと探していたこと。』

『家のことを調べていたこと。』

『雅仁様とのこと。』

そして。

『もう少しで、父上にも話せる。』

『きっと力を貸してくださる。』

最後。

『藻女の家を、必ず取り戻してみせる。』

その下に。

もう一行。

『来年も、玉藻と一緒に誕生日を祝いたい。』

そこで。

日記は終わっていた。

*

玉藻は。

長い間。

動かなかった。

日記を。

膝の上に置いたまま。

何も。

考えられなかった。

千代を疑った。

怖がった。

避けた。

言葉を。

全部。

悪い方へ受け取った。

忘れなさい。

――玉藻が苦しまないように。

玉藻。

――藻女だと知っていて、それでも玉藻として扱ってくれた。

雅仁との婚姻。

――自分の家を取り戻すため。

川下で探していた。

――生きていてほしかったから。

誕生日。

――覚えていてくれた。

そして。

明日の夕方まで待って。

――全部。

話してくれるはずだった。

「…………」

玉藻は。

日記を抱きしめた。

「ごめん……」

声が。

出なかった。

もう一度。

「ごめんなさい……」

涙が。

止まらない。

「千代様……」

返事はない。

「私……」

疑った。

友だちだと言ってくれた人を。

自分を。

ずっと。

助けようとしてくれていた人を。

「私……」

その先が。

言えなかった。

胸の奥で。

何かが。

脈を打った。

ドクン。

「…………」

ドクン。

ドクン。

川から生還した日に。

生まれたもの。

小さく。

黒く。

冷たかった。

化け物。

それが。

今。

身体の奥で。

大きく。

身を起こす。

玉藻は。

胸を押さえた。

「……違う」

何が違うのか。

自分でも分からない。

ドクン。

また。

脈を打つ。

止められない。

押し込められない。

悲しい。

悔しい。

許せない。

誰を?

まだ。

分からない。

ただ。

一つだけ。

分かった。

千代は。

何も悪くなかった。

なら。

千代を殺した者がいる。

自分の父と母を奪った者がいる。

自分を川へ落とした者がいる。

宗次を使った者がいる。

どこかに。

いる。

玉藻は。

涙を拭った。

千代の日記を。

強く抱く。

「……見つける」

声は。

震えていた。

でも。

今度は。

消えなかった。

「必ず」

胸の奥で。

何かが。

ゆっくりと。

尾を広げたような気がした。

第三話 友達 了

第三話もお読みいただき、ありがとうございます。

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