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悪役令嬢 玉藻前  作者: ニカオ


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第二話 疑念

玉藻が最初にしたことは、都へ戻ることではなかった。

自分を川へ落とした男を探すことだった。

顔は覚えている。太い眉。日に焼けた肌。右手の小指が少し曲がっていた。そして何より、橋の上で自分の腕を掴んだときの顔。

玉藻は川沿いの宿場を一つずつ回った。最初は正直に尋ねたが、誰もまともに答えてくれない。

三日目。玉藻はやり方を変えた。

「兄を探しているのです。随分前に家を出たきりで……」

嘘だった。

藻女だった頃なら、こんな嘘はつかなかった。けれど正直に尋ねた三日間では何も分からなかった。

嘘をついた途端、人は親切になった。

胸の奥で、川から生還した日に生まれた何かが、ほんの少し動いた気がした。

*

十日後。男の名が分かった。

貞成。元は下級の官人で、流刑人の護送にも携わっていた。玉藻が川へ落とされた少し後、突然役目を辞め、急に羽振りがよくなったという。

その夜、玉藻は貞成の家を訪ねた。

懐には小さな刃物。握る手が震える。

人を刺したことなどない。殺したことも、もちろんない。

帰ろうか。一瞬そう思った。

父の顔。母の顔。処刑場。落ちる刃。

玉藻は戸を叩いた。

「誰だ」

戸が開く。

間違いない。橋にいた男。

貞成は玉藻を見る。最初は分からなかった。やがて目が大きくなる。

「お前……」

「お久しぶりです」

「死んだ……お前は死んだはずだ!」

「残念でしたね」

「来るな! 化け物!」

昔なら怒ったかもしれない。今は、なぜか笑えた。

「そうかもしれませんね」

玉藻は戸を閉めた。

「私を川へ落とすよう、誰に頼まれたの?」

「知らん!」

玉藻は刃を見せた。

「では、あなたを殺して次の人に聞きます」

言った自分が一番驚いた。本当に殺せるかは分からない。だが、貞成には分からない。

「待て! 俺は頼まれただけだ!」

「誰に?」

「知らん! 男だ!」

「顔は?」

「左の頬に大きな傷があった!」

それ以上、貞成は何も知らなかった。

左頬に傷のある男から銀を受け取った。藻女を流刑地へ到着させるな。事故に見せろ。それだけ。

それでも、初めて一本の糸を掴んだ。

玉藻は刃をしまった。

「……助けてくれるのか」

「ええ。今夜は」

「……え?」

「二度と私の前に現れないでください」

玉藻が戸へ向かう。

「待て。お前……本当に藻女なのか?」

足を止め、振り返る。

「藻女は死にました」

*

玉藻は一つだけ計算を間違えた。貞成の恐怖を甘く見ていた。

三日後。酒場で貞成は叫んだ。

「見たんだ! 死んだ女だ! 藻女だ!」

「死人が? なんでお前のところへ?」

「……俺を恨んでいるからだ」

「なんで?」

「俺じゃない! 頼まれただけだ!」

酒場が静まり返った。

噂は真実より速く走った。

――死んだ藻女が現れた。

――自分を護送した男のところへ現れた。

――男は藻女を川へ落としたらしい。

――誰かに頼まれたと言っていた。

そして数日後、貞成は死んだ。

玉藻と会ってから酒量が増え、夜になると誰もいない場所へ向かって「来るな」「俺じゃない」「頼まれただけだ」「藻女」と叫ぶようになったという。

ある雨の夜、家を飛び出し、橋から川へ落ちた。翌朝、川下で遺体が見つかった。

噂はまた姿を変えた。

死んだ藻女が、自分を殺した男を迎えに来た。

狐の祟り。

玉藻がその話を聞いたのは、働いていた旅籠だった。

「……私、まだ何もしていないのだけれど」

貞成を殺してはいない。脅しただけ。

なのに自分が殺したことになっている。しかも死人として。

玉藻は少しだけ笑った。

「まあ、いいわ。せっかく死者にしてくださったのですもの。しばらく死んだままでいましょう」

*

その頃、都にも噂は届いていた。

「姫様。妙な噂がございます」

明子の女房が声を落とした。

「藻女様が……生きている、と」

明子の手が止まる。

「まあ。死人が生き返ったの?」

「噂では」

「馬鹿馬鹿しい」

「ですが、遺体は見つかっておりません」

明子の指が、ほんの一瞬だけ止まった。

「……そう」

同じ頃、雅仁もその噂を聞いていた。

「藻女が?」

「はい。もちろん、ただの怪談かと」

「……遺体は見つかったのか」

「いえ」

雅仁は目を閉じた。

――私より噂を信じるのなら、もう好きになさい!

追わなかった。そして二度と会えなかった。

「その話は、もういい」

*

玉藻は旅籠で働き続けた。

水を汲み、床を拭き、料理を運び、衣を洗う。金を貯めながら、人の話を聞いた。

人は笑顔の相手にはよく喋る。

それから、もう一つ覚えた。

女は顔そのものを変えなくても、別人のように見せられる。

「動かないで。目に入るよ」

女将が白粉を乗せる。

「紅は?」

「……お願いします」

唇に赤。眉を整え、髪を結う。

鏡を見る。

「……これが私?」

女将が笑った。

「元がいいんだ。化けるねえ、あんた」

「化ける……」

昔の声が蘇った。

――女は装うことで、もっと美しくなれるのです。

明子。

「……本当だったのね」

玉藻は鏡を見ながら笑った。

「今度会ったら、謝らないと」

その言葉に、まだ何の嘘もなかった。

*

転機は、一人の薬種商だった。

「娘。字が書けるな」

頼まれて文を書いた玉藻の字を見て、薬種商が眉を上げた。

「随分、達者だな」

「田舎で習いました」

「都で働く気はないか」

「都?」

「橘家で、読み書きのできる若い娘を探している」

玉藻の表情がほんの少し止まった。

橘。

幼い頃、その家の娘と何度か遊んだことがある。

「……千代」

「ん?」

「いえ」

「橘家のお姫様から頼まれていてな。川下の宿場を回るなら、若くて読み書きのできる娘を探してほしいと」

「川下で?」

「ああ」

「なぜ?」

「さあな。わしは頼まれただけだ」

妙な条件だとは思った。だが、都へ戻るにはこれ以上ない機会だった。

「お願いいたします」

都へ戻る前、玉藻はいつもより丁寧に化粧をした。

千代とは幼い頃に顔を合わせている。今の自分を見て分かるとは思わない。それでも用心するに越したことはない。

*

「あなたが玉藻?」

「はい」

橘千代。十七歳。

記憶にある少女より、当然ずっと大人びている。

千代は玉藻の顔をしばらく見た。

「……何でしょう」

「綺麗ね。でも、白粉少し濃くない?」

「そうでしょうか」

「うん。せっかく綺麗なのに」

千代は笑った。

「ごめんなさい。私、思ったことをすぐ言ってしまうの」

「……そういうところ、嫌われますよ」

「よく言われる」

玉藻は思わず笑った。

「今の方がいい」

「何がでしょう」

「笑い方。さっきまでのは綺麗だけど、なんか違う」

千代が立ち上がる。その拍子に袖が少しずれ、腕に小さな傷痕が見えた。

千代は何気なく袖口を直した。

「これからよろしくね、玉藻」

「はい。千代様」

橘家での仕事は文書の整理だった。

そして千代は、よく玉藻へ話しかけた。

「玉藻。お茶にしましょう」

「仕事中です」

「休憩も仕事よ」

「初めて聞きました」

「今、私が決めたの」

「横暴です」

「姫ですから」

「便利ですね、その身分」

「でしょう?」

玉藻は笑った。

不思議と、千代と話していると楽だった。

*

都へ戻って二月ほど経った日。

「今日はお客様よ」

「どなたです?」

「雅仁様」

玉藻の手から筆が落ちた。

逃げることはできた。でも残った。

「橘殿。久しいな」

忘れるはずのない声。

玉藻は廊下の端で頭を下げた。

雅仁が通り過ぎる。

胸が痛んだ。

そう思った瞬間、足音が止まった。

「……そなた」

玉藻は顔を上げる。

雅仁は長く玉藻を見つめた。

「どこかで……」

心臓が鳴る。

「いや。すまない」

雅仁は笑った。

「見たことがないほど美しいので、見惚れてしまった」

玉藻の中で何かが静かに冷えた。

「……ありがとうございます」

「名は?」

「玉藻と申します」

「玉藻……」

かつて藻女を呼んだ声で、その名を呼んだ。

少し離れたところでは、千代が二人を見ていた。

*

数日後。

藤原家から客が来た。

「藤原明子様がお見えです」

玉藻は動けなくなった。

会いたかった。生きていると言いたかった。

でも、まだ言えない。

誰が自分を殺そうとしたのか分からない。自分の生存を知られれば、明子まで危険に巻き込むかもしれない。

明子が廊下を歩いてくる。

その少し後ろには、一人の女房。

小夜。

明子が幼い頃から側に置いている女で、藻女も何度か顔を合わせたことがあった。

玉藻は頭を下げる。

明子が通り過ぎ、その足音が止まった。

「……あなた」

顔を上げる。

「何でしょう、明子様」

「どこかで……お会いしたこと、あります?」

一瞬。

――明子。私よ。

そう言いそうになった。

でも止めた。

「いいえ。初めまして、明子様」

生まれて初めて、親友に嘘をついた。

明子はしばらく玉藻を見つめ、やがていつもの笑顔に戻った。

「……そう。失礼しました」

明子が千代のもとへ向かう。

その後ろを歩いていた小夜が、ふと千代へ近づいた。

「千代様」

「何?」

小夜が耳元で声を落とす。

「例のモノは、見つかりました?」

「ああ」

千代は笑った。

「ええ。案外簡単に見つかったわ」

「それはようございました」

「またあとでね」

「はい」

玉藻はその様子をちらりと見た。

何か探し物でもしていたのだろう。

それ以上、気に留めなかった。

*

左頬に傷のある男を見つけたのは、それから間もなくのことだった。

玉藻は橘家の使いで市へ出ていた。

人混みの向こう。大柄な男。その左頬に大きな傷。

――左の頬に、大きな傷があった。

玉藻は男を追った。

男は都の外れへ向かい、人気のない古びた建物へ入った。

中には、もう一人の男。

「俺は何も喋っていない!」

怯えた声。

「そうか」

「本当だ! だから――」

声が途切れた。

男が崩れ落ちる。

左頬の男は、慌てることもなく倒れた男を確認した。

殺した。

玉藻は息を呑んだ。

逃げようと一歩下がる。

足元で小石が転がった。

「誰だ!」

玉藻は走った。

「待て!」

路地へ逃げ込む。

だが追いつかれた。

腕を掴まれ、壁へ押しつけられる。

「何を見た」

「何も!」

「嘘をつけ!」

男は玉藻の顔を見ても、何の反応も示さない。

今の玉藻は、藻女とは違う。

男の手が首へ伸びる。

「お前には関係ない」

喉を締め上げられる。

息ができない。

怖い。

また殺される。

あの夜と同じ。

「や……」

声が出ない。

「たす……けて……」

その瞬間。

男の手が止まった。

「…………」

男が玉藻の顔を凝視する。

「その……声……」

男の中で、雨の橋の記憶が蘇っていた。

押さえつけられ、助けを求めていた少女。

目の前で苦しむ女。

化粧も髪も違う。

だが。

「……まさか」

男の顔から血の気が引いた。

「その顔……お前……!」

「…………」

「死んだはずじゃ……!」

玉藻の目が変わった。

「あの日……」

男が黙る。

それだけで分かった。

「あなたも、いたのね」

雨の橋。

貞成だけではなかった。

この男も、いた。

見ていた。

自分が川へ投げ落とされるところを。

怒りと恐怖が一気に込み上げた。

男が一瞬、玉藻から目を逸らした。

本当に一瞬だった。

玉藻は考えていなかった。

気づいたときには、手が動いていた。

男が玉藻を見る。

その身体に刃が深く入っている。

「……え?」

男が崩れた。

玉藻は刃から手を離す。

動かない。

「ねえ……」

返事はない。

脈を確かめる。

ない。

自分の手を見る。

「私……刺した……?」

殺すつもりだった?

違う。

でも、自分で刺した。

吐き気がした。

逃げたい。

それでも、男は自分を殺そうとした者たちに繋がっている。

玉藻は震える手で男の懐を探った。

小さな紙が出てきた。

場所。

そして、翌日の時刻。

名前はない。

何のための約束なのかも分からない。

玉藻は紙を握った。

そのとき。

「誰だ!」

声。

振り返る。

提灯を持った夜廻の男が立っていた。

「そこで何をしている!」

玉藻は、ただ疲れていた。

走った。

首を絞められた。

人を刺した。

頭がまともに動いていない。

ゆっくり顔を上げる。

夜廻の男が息を呑んだ。

道に倒れた大男。

その身体へ覆いかぶさる女。

乱れた髪。

破れた衣。

白粉の残った白い顔には赤い血。

口元にも、いつ付いたのか血が飛んでいる。

その女が、ゆらりとこちらを見る。

「…………」

玉藻は事情を説明しようとした。

「待って――」

手を伸ばす。

「ひっ……!」

夜廻の顔が引きつった。

「う、うわあああああ!」

提灯を落とし、逃げた。

「…………」

玉藻は伸ばした手のまま取り残された。

「待って……話を……」

もう聞こえていなかった。

*

橘家へ戻る途中。

玉藻は井戸を見つけた。

水を汲む。

顔を洗った。

何度も。

何度も。

血が落ちる。

手も洗う。

爪の間まで。

白粉も紅も、すべて水と一緒に流れていった。

水面を見る。

そこにいるのは、久しぶりに見る化粧のない自分。

藻女だった頃と、ほとんど変わらない顔。

髪は乱れている。

衣も破れている。

首には男の指の跡。

誰にも見つからず部屋へ戻りたい。

玉藻はそっと橘家の廊下を進んだ。

「玉藻?」

心臓が跳ねた。

千代。

「こんな時間まで、どこへ行っ――」

言葉が止まる。

千代がこちらを見ている。

化粧はない。

髪はぼさぼさ。

衣は破れている。

玉藻の頭が真っ白になる。

――ばれた。

千代の顔色が変わった。

「玉藻!」

迷わなかった。

一瞬も。

千代が駆け寄る。

「あなた……まさか」

玉藻は息を止めた。

「怪我は!? どこで襲われたの!?」

「……え?」

「誰にやられたの?」

千代は破れた衣、首の跡、腕の傷を見る。

そして玉藻を抱きしめた。

「もう大丈夫」

その一言で何かが切れた。

涙が落ちた。

男が倒れてから、泣けなかった。

自分が刺した。

人を。

この手で。

「う……」

千代の衣を掴む。

「うぅ……」

玉藻は泣き崩れた。

千代は何も聞かなかった。

ただ背中を撫でた。

「怖かったでしょう」

違う。

そう言いたかった。

私は襲われただけじゃない。

でも、言えなかった。

しばらくして千代が言った。

「玉藻。よく聞いて」

いつもの軽い調子ではなかった。

「今日あったことは忘れなさい」

玉藻が顔を上げる。

「でも……」

「忘れるの。誰かに今日のあなたのことを聞かれても、何も答えなくていい」

千代は玉藻の手を握った。

「この千代に任せなさい」

また涙が出た。

「……どうして、そこまで……」

千代は少し困った顔をした。

「友だちだからじゃない?」

玉藻は何も言えなくなった。

知っている。

同じような言葉を。

――私たち、友だちでしょう?

明子。

玉藻は目を閉じた。

「……ありがとう」

千代は何も聞かなかった。

*

翌日。

玉藻は男の懐から見つけた紙に記された場所へ向かった。

昨夜の男は来ない。

それでも、約束の相手が誰なのか知りたかった。

玉藻は離れた場所へ身を隠した。

やがて、一人の女が現れた。

手には小さな袋。

「宗次?」

聞き覚えのある声。

月明かりに顔が見える。

玉藻は息を止めた。

「……小夜?」

明子の女房。

小夜は何度か宗次の名を呼んだ。

宗次。

昨夜、自分が刺した男の名を、玉藻はそこで初めて知った。

小夜はしばらく待った。

手にした袋が何なのか、ここからでは分からない。

だが、宗次は来ない。

やがて小夜は辺りを見回し、帰っていった。

玉藻はその場から動けなかった。

なぜ。

藤原家の人間が。

あの男と会う約束を?

答えは出なかった。

その日のうちに、もう一つの噂が都を走り始めた。

夜廻が見たという。

血まみれの女。

死体に覆いかぶさり、その血を啜っていた女。

「殺されたの、宗次でしょう?」

「そうらしい」

「でも宗次って大男よ」

「女一人に殺せるわけないだろ」

「だったら……」

誰かが冗談めかして言った。

「人間じゃなかったんじゃないか?」

別の誰かは笑わなかった。

「……呪い」

「え?」

「前にもあったでしょう」

川で死んだ男。

死んだ女を見たと言っていた男。

「狐の……」

そして、誰かが名前を口にした。

「藻女」

噂はまた勝手に育った。

――また藻女の呪いで、人が死んだ。

玉藻はその噂を聞いても、今度は笑えなかった。

貞成のときとは違う。

宗次は。

完全に自分と無関係な死ではなかった。

*

さらに翌日。

小夜が橘家を訪れた。

玉藻は廊下の向こうにその姿を見つけ、足を止めた。

昨日。

宗次との待ち合わせ場所にいた女。

その小夜が、今日は千代を訪ねている。

二人は部屋へ入った。

襖が閉まる。

覗いてはいけない。

聞いてはいけない。

分かっていた。

玉藻は通り過ぎようとした。

そのとき。

「千代様……」

小夜の声。

「しくじりました」

玉藻の足が止まった。

「まさか」

千代の声が低くなる。

「バレてない?」

「ええ、まだ」

「よかった……」

「考えてもいないでしょう」

少し間があった。

千代が笑う。

「そういうところは昔から変わらないわね」

「そうなのですよ」

小夜も笑った。

「ふふふ」

玉藻は動けなかった。

――バレてない?

その言葉だけが頭に残る。

何が。

誰に。

玉藻の脳裏に、いくつもの光景が戻ってきた。

明子が橘家へ来た日。

――例のモノは、見つかりました?

――ええ。案外簡単に見つかったわ。

薬種商。

――川下の宿場を回るなら、若くて読み書きのできる娘を探してほしい。

頼んだのは千代。

橘家へ来た初日。

千代は長い間、自分の顔を見ていた。

――笑い方。さっきまでのは綺麗だけど、なんか違う。

そして。

宗次を刺した夜。

井戸で血を洗った。

白粉も。

紅も。

全部落ちた。

藻女だった頃と、ほとんど変わらない顔で橘家へ帰った。

なのに。

千代は。

一瞬も迷わなかった。

――玉藻!

玉藻は自分の口元を押さえた。

さらに昨日。

宗次との待ち合わせ場所へ現れたのは小夜。

そして今日。

――しくじりました。

――まさか、バレてない?

――考えてもいないでしょう。

――そういうところは昔から変わらないわね。

昔から。

胸の奥が冷たくなる。

違う。

まだ何も分からない。

千代は自分を助けてくれた。

泣き崩れた自分を抱きしめてくれた。

友だちだと言ってくれた。

だからこそ。

疑いたくなかった。

それでも。

一度生まれてしまった疑問だけが、消えてくれない。

玉藻は音を立てないよう、その場を離れた。

部屋へ戻る。

座る。

胸元へ手を置く。

川から生還した日に生まれた、小さな化け物。

嘘を覚えた。

刃を向けた。

そして昨日。

初めて人を刺した。

化け物は、以前よりずっと大きくなっているような気がした。

その背後で。

長く、細い何かが。

ゆらりと揺れる。

玉藻は目を閉じた。

浮かぶのは、千代の笑顔。

――友だちだからじゃない?

そして。

小夜との会話。

――バレてない?

玉藻は小さく呟いた。

「千代様……」

あなたは。

いつから。

私が誰なのか知っていたの?

第二話 疑念 了

第二話もお読みいただき、ありがとうございます。

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