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悪役令嬢 玉藻前  作者: ニカオ


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第一話 狐と呼ばれた女

「なんで、あんな女が雅仁様と」

聞こえてきた声に、藻女は足を止めた。

庭を挟んだ渡殿。数人の女房たちが集まり、こちらをちらちらと見ている。

「だって、化粧もしないでしょう?」

「愛想も悪いし」

「雅仁様なら、もっとお似合いの姫君がいらっしゃるでしょうに」

くすくす。笑い声。

藻女は小さく息を吐いた。またか。

そのまま通り過ぎようとしたとき、一人が声を潜めた。

「……きっと、狐なのよ」

「狐?」

「そう。男を化かす狐」

「そうでなければ、雅仁様があんな女に夢中になるわけないでしょう?」

「雅仁様、化かされていらっしゃるのね」

「怖い、怖い」

藻女は踵を返した。

「聞こえているわよ」

女房たちが静まり返る。

「言いたいことがあるなら、陰でこそこそ言わず、私の顔を見ておっしゃったら?」

誰も答えない。

「狐なのでしょう、私は?」

「藻女様!」

聞き慣れた声。

藤原明子だった。艶やかな黒髪、白い肌、美しく整えられた衣、柔らかな笑顔。

「どうかなさいました?」

「何でもないわ」

だが明子は怯えた女房たちを見る。

一人が耐えきれず口を開いた。

「その……藻女様が、狐だと……」

「まあ。なんて酷いことを」

明子の表情が曇った。

「藻女様を狐だなんて。あまりにも失礼です。二度と、そのようなことを言ってはいけません」

女房たちは頭を下げ、逃げるように去った。

「……ありがとう」

「当然ですわ」

明子は藻女の手を取った。

「私たち、友だちでしょう?」

「……ええ」

藻女も笑った。

*

藻女は化粧を好まなかった。嫌いというほどでもない。ただ、面倒だった。

「せっかく綺麗なお顔なのにもったいない」

明子は白粉を手に取る。

「女は装うことで、もっと美しくなれるのです」

「別に、もっと美しくならなくていいもの」

「ほら、少しだけ。私に任せてくださいませ」

「嫌」

「藻女様!」

二人で笑った。

正反対だった。

だからこそ、藻女は明子と一緒にいるのが楽しかった。

*

そして藻女には、もう一人、大切な人がいた。

「藻女」

「雅仁様」

雅仁親王。帝の弟宮の子であり、皇位継承にも関わる立場の青年。そして藻女が幼い頃から想い続けてきた男だった。

「また化粧をしていないのか」

「雅仁様まで明子と同じことを言うのですか?」

「いや。そのままでいい」

藻女の頬が赤くなった。

幼い頃、一度だけ藻女は雅仁の前で泣いたことがある。

愛想が悪い。可愛げがない。変わった娘。一緒にいてもつまらない。

子どもたちから、そんな悪口を言われた日だった。

事情を聞いた雅仁は言った。

「私は、お前といると楽しいぞ」

「……本当に?」

「嘘を言ってどうする」

雅仁は藻女の頭を撫でた。

「他人が何と言おうと、藻女は藻女だ」

あの日から、ずっと好きだった。

*

だからこそ、最初の違和感は小さくても痛かった。

「藻女。少し、気になる噂を聞いた」

「噂?」

「お前が私のことを……頼りないと言っている、と」

「誰から聞いたのです?」

「明子だ」

藻女の表情が変わる。

「明子がそんなことを?」

「違う。明子が言ったのではない。宮中でそのような噂が出ていると、私に教えてくれたんだ。あいつも信じてはいなかった」

「当然です。言っていませんから」

「そうだと思った」

それで終わった。そのはずだった。

数日後。

「今度は、お前が私の地位を目当てにしているという噂が出ているらしい」

「……また噂?」

「ああ。明子が、お前の耳に入る前に私から話しておいた方がいいだろうと」

さらに数日後。

「私より、お前の方が政には向いていると話しているらしい」

「言っていません」

そして。

「私との婚姻も、家のためだと――」

「言っていません!」

とうとう藻女は声を荒らげた。

「なぜ毎回、私に確認するのです?」

「それは……」

「あなたは噂を信じ始めているのでしょう?」

「違う」

「私が否定し続けなければ、あなたは信じるのですか?」

雅仁は答えられない。

その沈黙が何より痛かった。

「私より明子を信じるのなら――もう明子を好きになさればいい!」

藻女は歩き出した。

「藻女、待て!」

聞こえた。だが追っては来なかった。

*

「また喧嘩したの?」

数日後、明子は困ったように笑った。

「喧嘩ではありません」

「では、仲直りなさいませ」

「嫌」

「藻女様は頑固ですわね」

明子が小さく笑う。

「雅仁様も心配していらっしゃいましたよ」

「……本当に?」

「ええ。雅仁様は、藻女様のことを大切に思っていらっしゃいます」

藻女は少しだけ安心した。

いつも通りの明子だった。

藻女にとって、大切な親友だった。

*

だから、その日も最初は何かの間違いだと思った。

「父上!」

屋敷へ兵が踏み込んできた。

父が拘束されている。母も。

「何をしているの!」

「来るな!」

父が叫んだ。

役人が告げる。

「謀反の疑いがございます」

「……謀反?」

あり得ない。

屋敷から書状が見つかったという。

兵を集める計画。地方豪族との密約。隠された武具。不審な金の動きを記した帳簿。証人まで現れた。

あまりにも何もかもが揃っていた。

「嘘よ。全部、嘘です」

誰も聞かなかった。

*

家は取り潰された。

土地、財産、屋敷。すべて没収。

家臣たちは散り散りになった。

父と母には流刑が言い渡された。

藻女自身も監視下に置かれた。

それでも絶望しなかった。

「生きている。父上も母上も、生きている」

遠い土地でもいい。いつか疑いを晴らせばいい。

生きてさえいてくれれば。

「藻女様……」

明子が来た。

藻女を抱きしめる。

「ごめんなさい。私、何もできなくて……。父にもお願いします。せめて、お父上とお母上が流刑先で不自由なく暮らせるように」

藻女の目から涙が落ちた。

「ありがとう……明子」

明子は藻女が泣き止むまで抱きしめてくれた。

*

三日後。

裁定が覆った。

「新たな証拠が発見された」

流刑先でも反乱を企てる恐れあり。

朝廷で再び審議が行われ、父と母の処分は変更された。

流刑から――死罪へ。

「そんな……」

一度、助かったはずなのに。

藻女は走った。

裸足になっても走った。

処刑場。

「父上!」

父が顔を上げた。

何か言った。聞こえない。

刃が上がる。

「父上!」

落ちた。

次は母だった。

「お母様」

母が藻女を見て、笑った。

「やめて」

刃が落ちた。

*

何日経ったのか、藻女には分からなかった。

気づけば明子が目の前にいた。泣いている。

「ごめんなさい。父にお願いしたのです。何度も……何度も、命だけは助けてあげてくださいと。でも……私では何もできなかった」

藻女はゆっくり手を伸ばし、明子の頭へ置いた。

「あなたのせいではないわ」

「藻女様……」

「ありがとう」

それしか言えなかった。

*

やがて藻女にも裁きが下った。

流刑。

謀反人の娘としては温情ある処分だと人々は言った。

どうでもよかった。

父はいない。

母もいない。

家もない。

雅仁とも、もう会えない。

*

護送の日。

藻女は一度だけ都を振り返った。

雅仁は来なかった。

明子も来なかった。

「行くぞ」

縄を引かれる。

藻女は歩き出した。

*

数日後。

雨の夜。

一行は橋の上で止まった。

「どうしたの?」

返事はない。

護送役の男が近づき、藻女の腕を掴んだ。

「痛い!」

欄干へ引きずられる。

「待って。私は流刑でしょう?」

沈黙。

「これは朝廷の命令?」

男の目が動いた。

違う。

「誰に頼まれたの?」

返事はない。

「待って! 誰なの!」

答えはなかった。

藻女の身体が宙へ投げ出された。

*

冷たい。

息ができない。

手は縛られている。

沈んでいく。

月が遠くなる。

父。母。雅仁。明子。

いろいろな顔が浮かんでは消える。

どうして?

父と母は一度、流刑と決まっていた。

それが突然、死罪になった。

私は流刑だった。

なのに殺されようとしている。

偶然?

違う。

誰かが父を陥れた。

誰かが母まで殺した。

そして誰かが、自分まで消そうとしている。

誰?

知りたい。

死にたくない。

まだ死ねない。

誰が私たちを殺したのか知るまでは。

藻女は縛られた手を必死に動かした。

*

翌朝。

川下。

漁師の老人が泥の中から突き出た白い手を見つけた。

若い女。手首には縄。全身傷だらけ。

老人が縄を切り、耳を胸元へ近づける。

小さく。

本当に小さく。

鼓動があった。

*

三日後。

藻女は目を覚ました。

「……ここは」

「川辺で倒れていた。三日眠っておったよ」

川。

記憶が戻る。

父。母。処刑。橋。自分を掴んだ男。冷たい水。

藻女は身体を起こそうとした。

「都へ……戻らないと」

「その身体では無理だ」

老人の言う通りだった。

今は、生きるしかない。

*

三月後。

藻女はようやく一人で歩けるまでに回復した。

老人から借りた衣と、わずかな食料だけを持って小屋を出る。

「お世話になりました」

「ああ」

老人は何も聞かなかった。

藻女も何も話さなかった。

数歩進んだところで呼び止められる。

「娘。名前は?」

藻女は黙った。

藻女。

父が呼んだ。

母が呼んだ。

雅仁が。

明子が。

呼んでくれた名前。

でも、その女はもう死んだ。

「……玉藻」

初めて、その名を口にした。

「玉藻と申します」

「そうか。達者でな」

「あなたも」

それだけだった。

玉藻は歩き出した。

*

一人になってから。

玉藻は考えた。

父と母は最初は流刑だった。

それが突然、死罪になった。

自分も流刑だった。

なのに護送の途中で殺されかけた。

おかしい。

偶然ではない。

誰かが、自分たち一家を生かしておきたくなかった。

まず、橋で自分を川へ落とした男を探す。

顔は覚えている。

あの男から辿る。

誰が命じた?

誰が金を払った?

両親を死罪へ変えた者と同じなのか?

一つずつ。

見つける。

「必ず」

そして見つけたら――。

殺す?

苦しめる?

すべてを奪う?

まだ分からない。

ただ。

許さない。

それだけは分かった。

その瞬間。

胸の奥で何かが、ゆっくりと目を開いたような気がした。

小さく。

黒く。

冷たい。

今までの自分には存在しなかったもの。

一匹の化け物が生まれたような気がした。

*

藻女は死んだ。

代わりに。

玉藻という女が歩き始めた。

まだ敵の顔すら知らない。

ただ、その顔を見つけるために。

玉藻は都へ向かった。

胸の奥で。

生まれたばかりの化け物だけが。

静かに息をしていた。

第一話 狐と呼ばれた女 了

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