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悪役令嬢 玉藻前  作者: ニカオ


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第6話 帰る場所

熊谷武丸の処刑が決まったのは、藤原家への再調査が始まって間もなくのことだった。千代を殺したのは誰か。その一点については、もう調べることがなかった。武丸自身が認め、状況も一致している。命令の意味を取り違えたことと、千代を自らの手で殺したことは別だった。


藤原家に何があったとしても、その罪が消えるわけではない。


処刑の日は、雲一つない晴天だった。秋の名残を含んだ乾いた風が処刑場を抜けていく。武丸は縄を掛けられても暴れず、眩しそうに空を見上げていた。


玉藻は小夜と並んで立っていた。少し離れた場所には橘家当主がいる。重綱も来ていたが、いつものような軽口はない。


「熊谷武丸。最後に言い残すことはあるか」


役人に問われ、武丸はしばらく考えた。


「千代様には、悪いことしただ」


橘家当主の拳が僅かに強張った。


「オラ、もっとちゃんと話を聞けばよかった。分かんねえなら、分かんねえって言えばよかっただ」


今さらだった。あまりにも遅い。けれど武丸は、命令が悪かったとも、兼隆が悪かったとも言わなかった。


武丸は小夜へ顔を向けた。


「小夜。この前は守れてよかったべ」


「……遅いですよ」


「そうだな」


「本当に……遅いです」


「うん」


武丸は笑った。その笑顔を見ても、玉藻の中から怒りが消えることはなかった。許したわけでもない。それでも、この男は自分がしたことから最後まで逃げなかった。


「玉藻様」


「はい」


「宗次先生を倒した人が、どんな人か分かってよかったべ」


「……最後まで、そこなんですね」


「先生、すげえ人だったからな。でも玉藻様の方がすげえ」


こんな時なのに、玉藻は少しだけ笑ってしまった。武丸も嬉しそうに笑う。


「じゃあな」


まるで少し遠くへ出かけるような言い方だった。刑が執行された。最後まで、武丸は笑っていた。




武丸への裁きが終わっても、藤原家への調べは終わらなかった。藤原兼隆と宗次。小夜が運んでいた文と金。源家が潰れた経緯。安倍家が取り潰され、両親の刑が流刑から死罪へ変わった経緯。そして玉藻自身が流刑の途中で殺されかけたこと。


それらは一つの事件ではない。同じ人物がすべてを命じたと証明されたわけでもない。だから橘家当主は、混ぜなかった。


「分からぬものを、分かったことにするな」


調べに加わる玉藻へ、当主は何度もそう言った。復讐の相手が明子だと定まった今だからこそ、玉藻の心は時折、答えを急ごうとする。そのたびに当主の言葉が止めた。


ひと月が過ぎた。朝晩の冷え込みが強くなり、庭の葉が色を失った。小夜が火鉢へ炭を足す回数が増え、玉藻も厚い衣を重ねるようになった。


藤原家へ出入りしていた者が、一人、また一人と口を開いた。宗次の名を知る者。兼隆から金を受け取った者。小夜と同じように、中身を知らぬまま文や袋を運んだ者。古い記録も掘り起こされた。


けれど記憶違いもあった。噂を事実のように話す者もいた。すでに死んでいて確かめようのない者もいる。それらを捨て、残ったものだけを並べた。


冬になった。藤原家はまだ揺らがなかった。長い年月をかけて築いた家は、数月の調べ程度では倒れない。ただ、以前なら藤原の名を聞くだけで口を閉ざしていた者が、少しずつ顔を上げ始めた。




雪が消え、風の中に湿った土の匂いが混じり始めた頃。玉藻と小夜は、再び命を狙われた。


その日は二人で橘家へ戻る途中だった。前方の男がこちらを見ている。視線が合った瞬間、男の手が懐へ入った。背後からも足音がした。


「小夜」


「はい」


「走れますか」


「……嫌な聞き方ですね。走ります」


刃が抜かれた。二人が駆け出す。玉藻の袖を刃先が掠め、布が裂けた。だが二撃目は来ない。金属音が響き、橘家の家臣が刃を受け止めていた。


別の家臣が小夜の前へ回り込む。玉藻は小夜の手を掴んだまま壁際へ下がった。以前なら、自分が残ればいいと思った。今は違う。自分を守るために、誰かがいる。それがまだ少し、不思議だった。


刺客は一人が逃げ、一人が捕らえられた。


「捕らえた者を調べよ。誰が金を出した。誰が二人の道順を教えた。そこからだ」


「明子様を守るためでしょうか」


「まだ言うな。娘を殺された時でさえ、わしは憶測だけで人を斬らなんだ。今さら変えるつもりはない」


数日後。捕らえた男の繋がりが、藤原側へ伸びていたことが確認された。そこで初めて、当主は立ち上がった。


「千代を殺した武丸には、武丸の罪として裁きを受けさせた。そのうえで、今度は玉藻と小夜を消そうというのだな」


手元の書状を置く。


「随分と、橘も軽く見られたものだ」


その日から、橘家は公然と藤原へ対抗し始めた。




春が過ぎ、夏が来た。藤原家は衰え始めていた。消えたわけではない。土地も兵も人脈もある。長く国の中枢にいた家の力は、そう簡単にはなくならない。


だが、距離を置く者が増えた。逆に橘家へ人が集まった。千代の事件以降、橘家が何を調べ、誰をどう裁いたかを見ていた者たちだった。


藤原が落ちる。橘が上がる。季節が進むのと同じように、都の空気も少しずつ変わっていった。




夏の終わり。蝉の声が弱くなり始めた頃、玉藻は当主に呼ばれた。


「玉藻。お前を、我が娘に迎えたい」


玉藻は瞬きをした。意味は分かる。なのに、その言葉が胸へ届くまで少し時間がかかった。


「……私を?」


「ああ。千代の代わりではない。千代は千代だ。お前は、お前だ」


胸の奥が熱くなった。安倍家が潰れた。父と母を失った。流刑となり、その途中で川へ落とされた。藻女という名さえ、自分で捨てた。もう二度と、自分に家というものはできないと思っていた。


「この一年、お前を見てきた。危なっかしい。すぐ一人で動く。言うことを聞いているようで聞いておらぬ」


「……申し訳ございません」


「褒めてはおらん。だが、それも含めてだ」


「私で……よろしいのですか」


「お前がよい」


その言葉で視界が少し滲んだ。玉藻は深く頭を下げた。


「……はい。よろしくお願いいたします」




玉藻が橘家の養女となってから、小夜は正式に玉藻の女房となった。重綱もまた、いつしか橘家へ頻繁に顔を出すようになった。


「わしは家臣になった覚えはないぞ」


「誰も家臣とは言っていません。相談役です」


「勝手に決めるな」


「嫌ですか?」


「……酒くらい出るんじゃろうな」


「お父様に聞いてください」


重綱が目を細めた。


「すっかり娘ではないか」


玉藻は笑った。帰れば誰かがいる。声を掛ける者がいる。叱る者がいる。相談できる者がいる。家というものは、建物のことではなかったのかもしれない。




秋。玉藻は花を持って、いつもの道を歩いた。千代の墓へ続く道。もう何度ここを歩いたか分からない。嬉しいことがあった日。迷った日。何もない日にも、気づけばここへ来ていた。


墓前へ花を置き、いつもの場所へ座る。


「千代様。今日は、ご報告があります」


「私、橘の娘になりました」


秋の風が草を揺らした。


「ということは……あなたの妹、ということになるのでしょうか」


口にしてから少し可笑しくなった。小夜が女房になったこと。つい当主を「お父様」と呼んでしまったこと。最近、当主が玉藻の帰りが遅いとうるさくなったこと。いつものように話した。


「……あなたのお父様、心配性だったのですね」


返事はない。いつも通りだった。玉藻はしばらく黙って墓石を見た。


「あきこのことですが」


声が少し変わる。


「今日、雅仁親王様の御前へ参ります」


明子が最後の上告をした。橘家が藤原を陥れている。玉藻という女が人を惑わせている。自分は被害者だ。そう訴えた。


「ですから、決着をつけてきます」


玉藻は立ち上がった。衣についた土を払い、数歩歩いてから振り返る。


「――行ってきます!」


風が吹いた。墓前の花が揺れ、木々の葉がさらさらと鳴る。その音に混じって、ほんの一瞬だけ。


――いってらっしゃい。


そう聞こえた気がした。もちろん、誰もいない。それでも玉藻は少しだけ笑った。


「……はい」


今度は振り返らなかった。




雅仁親王の御前で、明子と玉藻は向かい合った。かつて、玉藻は明子を友だと思っていた。今、目の前にいる女へ残っているのは、その記憶だけだった。


「この女です! この女が現れてから、すべてがおかしくなったのです。小夜を唆し、橘家へ取り入り、藤原を陥れようとしている。何もかも、この女が仕組んだことです!」


「そちらの女は?」


その声を聞いた瞬間、玉藻の胸が僅かに痛んだ。藻女だった頃、何度も聞いた声だった。笑い合い、二人きりで過ごし、いつかこの人の隣にいる未来を考えたことさえある。けれど雅仁は、目の前の玉藻を見ても何も変わらなかった。


「……玉藻と申します」


「玉藻か。綺麗な名じゃな」


それだけだった。化粧も名も髪も衣も違う。気づかなくても不思議ではない。玉藻はそう思った。思おうとした。


「では玉藻。お主の話も聞こう」


「はい。私は、分かっている事実だけを申し上げます」


玉藻は武丸から始めた。武丸が千代を殺したこと。ただし兼隆から『千代を殺せ』と命じられたわけではなく、『噂の元を断て』『良い噂を流せ』という言葉を武丸自身が取り違えたこと。


「でしたら、千代様の死を藤原家の罪にはできませんわね?」


「はい」


明子の目が僅かに開いた。玉藻が否定すると思っていたのだろう。


「武丸が千代様を殺したことと、藤原家が千代様を殺せと命じたことは別です。後者を証明するものを、私は持っておりません」


「では!」


「ですから、その件を藤原家の罪だとは申し上げておりません」


玉藻は畳みかけなかった。勝つために事実を曲げれば、ここまで自分がしてきたことまで明子と同じになる。


「では宗次は?」


明子はすぐに攻め方を変えた。


「もう死んでいるのでしょう? 死人が後に何をしたかまで、兼隆の責任だとでも?」


「いいえ。宗次が行ったことのすべてを、兼隆様の命令だとは申し上げておりません」


「小夜はどうなのです。あの者自身が何度も文や金を運んだのでしょう? 自分の罪を軽くするために、藤原へ責任を押しつけているだけではなくて?」


小夜の肩が僅かに揺れた。


玉藻は小夜を庇う言葉を飲み込んだ。ここで必要なのは情ではない。


「小夜が運んだことは事実です。中身を知らなかったというのは小夜自身の証言です。ですから、それだけで小夜に罪がないとも、あるとも、私は決めておりません」


「ほら! 何も分かっていないではありませんか!」


「ええ。分からないことは、分かりません」


玉藻は明子を真っ直ぐ見た。


「だから、分かったことだけを申し上げています」


それでも明子は、証言の綻びを探した。源家の件は昔の話ではないか。宗次と兼隆が知り合いだったからといって、今の事件まで繋がるのか。刺客が藤原側の人間と繋がっていたとして、それが明子自身の命令だとどこまで言えるのか。


玉藻は一つずつ答えた。証明できないものは、証明できない。分からないものは、分からない。


そのたびに、明子が逃げ込める場所だけが狭くなっていった。


「そもそも、この女が何者なのか誰も知らないではありませんか! 突然都へ現れ、橘家へ入り込み、人を惑わせて――この女は!」


そこで明子の口が止まった。玉藻と目が合う。


――分かるわね? その先にあるものが、何か。


あの時交わした言葉が、二人の間へ戻った。玉藻が藻女だと言えば、その事実を明子がなぜ知っているのかを問われる。明子は、その先を言えなかった。


「……とにかく! この女の言うことなど信用できません!」


双方の言葉が止まり、皆の視線が雅仁へ集まった。雅仁は腕を組み、二人を見比べる。


「うーむ……難しいのう」


明子が息を呑む。玉藻も待った。


「玉藻の方が綺麗じゃな」


誰も反応できなかった。


「……はい?」


「どちらを信じるかという話であろう? なら玉藻でよかろう」


「お待ちくださいませ! 今はそのような話をしているのではございません!」


「分かっておる。でも玉藻の方が綺麗じゃ」


明子の顔から色が引いた。玉藻も笑えなかった。勝ったという感覚はどこにもない。かつて自分を見てくれていると思った男は、一年近く積み上げられた証言と死者と二つの家の行く末を聞いた最後に、女の顔を比べた。胸の奥に、小さな違和感が残った。




雅仁の一言だけで刑が決まったわけではない。その後も証言は照合され、記録は確かめられ、明子自身が行ったことと、明子を守るために周囲が行ったことも分けられた。冬が近づく頃、明子への刑が決まった。


処刑の日。玉藻はそこにいた。父と母の処刑を遠くから見た日のことを思い出した。あの日は何もできなかった。今日は違う。自分の意思でここに立ち、最後まで見ると決めていた。


「……藻女」


その名を聞いた瞬間、玉藻の指先が僅かに動いた。


周囲がざわめく。だが明子には、もうそれを気にする余裕も、隠す理由もなかった。


「そうよ! 藻女よ! 死んだはずのくせに! 川に落ちて、消えたはずのくせに!」


明子は縄に繋がれたまま身を乗り出した。止めようとする者の手を振り払うように肩を揺らし、玉藻だけを睨みつける。


「何で戻ってきたのよ! 何で私の前に現れたの! お前さえいなければ、全部うまくいっていたのに!」


玉藻は答えなかった。


「雅仁様だってそう! 昔からそうだった! お前がいるから! お前ばかり見られるから!」


明子の声は次第に掠れ、それでも止まらなかった。


「そうよ、私が言ったのよ! 狐みたいな女だって! 噂だって流した! だから何!? お前が邪魔だったのよ!」


その場にいた者たちの空気が変わった。もはや取り繕うものは何も残っていない。明子自身が、これまで隠してきたものを怒りのまま吐き出していた。


「家がなくなった? 両親が死んだ? だから何よ! 私だって全部なくしたわ! お前のせいで!」


「違うわ、あきこ」


玉藻は静かに明子を見た。


「私はあなたから何も奪っていない。あなたがしたことを、皆に知ってもらっただけ」


「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」


刑の支度が進められても、明子は叫び続けた。


「藻女! お前なんか死んでいればよかったのよ! あの川で、そのまま死んでいれば!」


その言葉を聞いて、玉藻の中で最後まで残っていたものが、すとんと落ちた。


友だった人に裏切られたのではない。


明子は、最初から自分を友だと思ってなどいなかったのだ。


笑い合ったことも。寄り添ってくれたことも。両親を失った自分を抱きしめたことさえ。その裏で、明子は自分を狐と呼び、噂を流し、邪魔だと思っていた。


そう思えば、不思議なくらい何も痛まなかった。


むしろ、ようやく全部が腑に落ちた。


「化け物! 人の顔をして! みんな騙して! この――」


明子の目に涙が浮かぶ。恐怖なのか、怒りなのか、それとも最後まで自分を哀れんでいるのか。もう玉藻にはどうでもよかった。


「この、化け狐が!」


その声が、明子の最後の罵声になった。


刑が執行された。


玉藻は、明子が死ぬ瞬間まで目を逸らさなかった。


父も母も戻らない。千代も戻らない。失ったものが返ってくるわけではない。


それでも。


自分からすべてを奪った女は、もういない。


――ざまあみろ、あきこ。


そう思った。


けれど。


明子が死んでも、胸の奥に積もった憎悪は消えなかった。


父を奪われたことも。母を奪われたことも。家を奪われたことも。千代を奪われたことも。


何一つ、消えてはいなかった。




明子が死んでも、藤原家そのものが消えたわけではなかった。衰えたとはいえ、まだ土地も兵も人脈もある。そして明子を守ることに固執してきた者たちは、その死を受け入れられなかった。


「明子ぉ……! 許さん! 許さんぞ橘! 戦じゃ! 明子の仇を討つ!」


「しかし……明子様は、その……御自身でも……」


「黙れ!」


理屈ではなかった。明子を失った怒りの行き先として橘が選ばれ、兵を集める動きが始まった。


知らせを受けた橘家当主は、報告書を握ったまま長く黙った。


「……血迷ったか」


橘は戦を望んでいない。藤原と戦えば、勝っても負けても人が死ぬ。


「雅仁親王様へ進言する。私戦になる前に止めていただく」




「藤原が戦の支度をしておる?」


「はい。明子様の処刑を橘家への恨みとし、兵を集めております。このままでは双方に死者が出ます。どうか親王様よりお止めください」


雅仁は難しい顔をした。


「うーん……難しくて、よう分からんのう」


当主の指が膝の上で僅かに動いた。だが顔は上げない。


「親王様のお言葉であれば、藤原も無視はできますまい」


「ああ、そうじゃ。玉藻を余の嫁にくれんか?」


当主が顔を上げた。


「……何と?」


「玉藻じゃ。あの綺麗な娘。最近は嫁候補が次々いなくなってしまっての。玉藻を余の妻にくれるなら、藤原には余から戦をやめろと言ってやろう」


当主の手が固く握られる。娘を差し出せば戦を止める。国の争いを止める立場にいる者が、婚姻を取引に使った。怒鳴りつけることは簡単だった。だが今、雅仁と争う意味はない。


「……大事な娘のことでございます。この場で即答はいたしかねます。一度、持ち帰り考えさせていただきたく」


「そうか。早めに頼むぞ」


当主は最後まで礼を崩さなかった。ただ、御前を退出した時、その顔から雅仁への信頼だけが消えていた。




橘家へ戻った当主は、玉藻、小夜、重綱を呼んだ。


「藤原との戦は、止められぬかもしれん」


「親王様は、何と?」


「……条件を出された。玉藻、お前を妻として差し出せば、藤原を止めると」


小夜が息を呑み、重綱の眉間に深い皺が寄る。玉藻だけが、すぐには何も言わなかった。


明子との上告の日が蘇る。『玉藻の方が綺麗じゃな』。あの時、雅仁は正しい方を選んだのではなかった。今度も同じだ。戦を止めるか、人が死ぬか。その判断にさえ、雅仁は女を欲しがった。


「断る」


当主の声で玉藻は顔を上げた。


「……お父様」


「お前を差し出して得る平穏などいらぬ。お前は我が娘だ。藤原との争いを止めるための道具ではない」


その言葉が胸へ深く入った。昔の家族を失い、もう二度と家族など持てないと思った。それでも今、目の前の人は、戦になるかもしれないのに自分を差し出さないと言っている。


玉藻は黙った。


明子を処刑しても、胸の奥に残ったものは消えなかった。


そして今、藤原は明子の仇と叫んで戦を始めようとしている。


それを止められるはずの雅仁は、人の命を前にしてさえ、玉藻を妻に寄越せと言った。


明子だけではなかった。


藤原だけでもなかった。


ここまで来て、玉藻はようやく気づいた。


――ああ。


駄目ね、この国。


玉藻は静かに笑った。


――なら、壊してしまおう。


その瞬間。


玉藻の目が。口が。身体が。


人の形を離れたような気がした。


川から生還したあの日から、胸の奥で育ち続けてきたもの。


喪失を。疑いを。怒りを。復讐を喰らいながら、一本、また一本と尾を増やしてきた憎悪が。


とうとう、藻女を飲み込んだ。


そして――


玉藻前という姿になった。


「ならん、玉藻!」


橘家当主の声が響いた。


けれど。


もう、その声は玉藻前には届いていなかった。


ゆっくりと顔を上げる。


「私が、雅仁様に嫁ぎます」


こうして玉藻前は、雅仁親王へ嫁いだ。


後は皆様、ご存知の通り。


玉藻、傾国してしまいました。






後日談


かつての友の墓前には、一冊の日記が供えられていた。


あの頃より少し古びたその日記は、長い時を経て、持ち主の元へ帰った。




古びた屋敷の前で、老婆が箒を手に道を掃いていた。そこへ、一人の女が足を止める。


「あら、お嬢さん。どうなさったの?」


「この家……」


「ああ。かつて安倍様のお屋敷があったのよ。藤原家のいざこざで取り壊しにあってね」


「変わらないわね」


「変わったんですよ」


女は老婆を見た。


「いや、変わらないわよ。ばあや」


老婆は目を見開いた。その目に映る女性を、老婆は知っていた。


女は、少しだけ笑った。


「ただいま」


終

これにて悪役令嬢玉藻前 完結です。

最後までお読み下さりありがとうございました。

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