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第七十五話 風の女神


 第十区画。第十二試合。


「四十番、七十九番。」


 試験官の声が響く。


 セイルは静かに区画へ入った。


 相手は、やや背が低い少年。


 華奢ではないが細身。


 黒に近い深緑色の髪が、目元を隠すほど無造作に伸びている。


 手には剣。


 少年は静かに口を開く。


「僕の名はノクト。」


 一拍置いて続ける。


「アトモスノクトと呼んでくれ。」


 セイルは一瞬だけ戸惑う。


 名字だろうか。


「セイルです。」


 試験官が右手を上げる。


「始め!」


 互いに様子を見る。


 ノクトが小さく呟く。


「アトモス・エッジ。」


 目には見えない。


 だが、剣の周囲だけ空気が揺らいだような気がした。


 ノクトが踏み込む。


 狙いは一直線。


 セイルはいつも通り躱す。


 もう一撃。


 躱す。


 さらに一撃。


 また躱す。


 違和感。


 ノクトは体より武器を狙っている。


 受けさせたい。


 そんな意思を感じる。


 しかしセイルは剣で受けない。


 いつも通り躱し続ける。


 ノクトの表情が僅かに変わった。


 回避されることより。


 剣に当たらないことへ苛立っているように見える。


 ノクトは一歩下がる。


 小さく息を吐き。


 苛立ちを落ち着かせる。


 そして、不敵に笑った。


「美しくあれ。」


「三界気象陣。展開。」


 拳ほどの不可視の空気球。


 それが三つ。


 ノクトの剣の周囲を静かに漂う。


 セイルには見えない。


 ただ、空気が変わったような感覚だけがあった。


 再びノクトが踏み込む。


 セイルは躱す。


 ここでも違和感。


 今。


 増幅を使った。


 何かも唱えた。


 それなのに。


 身体能力は変わっていない。


 速度も。


 力も。


 さっきとほとんど同じ。


 なら。


 その魔力はどこへ。


「アンチ・グラビティ。」


 その瞬間。


 何かに体を押された。


 体勢が崩れる。


 ノクトの剣が迫る。


 紙一重で躱す。


 距離を取ろうと後ろへ跳ぶ。


「グラビティ・ヴォイド。」


 今度は。


 体が引かれた。


 前へ。


 一瞬だけ。


 ノクトの突き。


 セイルは慌てて身を捻る。


 剣で弾きながら、なんとか躱す。


 ようやく距離を取った。


 受けた手応えもおかしかった。


 軽過ぎる。


 そして何かに触れたような。


 そんな違和感だけが残っている。


 頬が熱い。


 指で触れる。


 血。


 確実に躱したはずだった。


 それなのに切られている。


 剣を見る。


 刃が欠けていた。


 いや。


 削られている。


 理解できない。


 剣の腕だけなら。


 そこまで脅威ではない。


 なのに怖い。


 何をされた。


 何が起きている。


 理解できない相手が。


 こんなにも恐ろしいとは。


 「理解したい。」


 しかし。


 今は戦闘中。


 素直に教えてくれる相手ではない。


「理解できない……。」


 セイルは圧縮を使う。


 ノクトを見る。


 剣を見る。


 砂埃が消えている。


 いや。


 吹き出されている。


 剣の周囲だけ。


 空気が流れている。


 あれが。


 異常な切れ味の正体。


 もう一つ。


 剣の周囲を漂う。


 球。


 セイルは考える。


 エッジ。


 三界。


 展開。


 二度の衝撃。


 グラビティ。


 頬の傷。


 削られた剣。


 漂う球。


 一つずつ。


 頭の中で繋がっていく。


 ノクトの剣には。


 空気の刃がある。


 だから。


 剣も削られた。


 そして。


 あの球。


 触れれば弾かれる。


 あるいは引き寄せられる。


 そういうことか。


 理解する。


 そして受け入れる。


 ノクトの剣には触れない。


 空気の刃に触れてしまう。


 あの球にも触れない。


 弾かれる。


 引き寄せられる。


 だが。


 球そのものの威力は大きくない。


 見えていれば避けられる。


 恐怖は消えていた。


 あとは。


 いつも通り戦うだけだ。


---


 セイルは前へ出る。


 躱す。


 牽制。


 また躱す。


 ノクトは僅かに眉をひそめた。


 当たらない。


 武器も壊せない。


 三界気象陣も。


 見切られ始めている。


「アトモス・エッジ!」


 剣が風を纏う。


 鋭い斬撃。


 セイルは紙一重で躱す。


 届かない。


 ノクトは歯を食いしばる。


 回避されることではない。


 剣に当たらない。


 それが気に入らない。


 見えている。


 そうでなければ説明がつかない。


 しかし。


 あり得ない。


「くっ……。」


「ヴォルテクス・ブレイザーが使えれば……。」


 試験では使えない。


 だから。


 今ある手札で勝つしかない。


 残っていたグラビティ・ヴォイド。


 それをセイルの顔の前で弾けさせる。


 パチン。


 小さな音。


 セイルが一瞬だけ身を引く。


 その隙に。


 ノクトは距離を取った。


 静かに剣を構える。


「三界気象陣。展開。」


 再び。


 拳ほどの不可視の空気球が三つ。


 さらに。


 「穿て。」


 剣先へ。


 顔ほどの大きさの空気塊が集まっていく。


「インパルス・バースト。」


 セイルは見る。


 球が一つ増えた。


 しかも。


 一つだけ大きい。


 遠距離攻撃。


 そう思った。


 だが。


 ノクトは距離を詰める。


 違う。


 飛ばせないのか。


 小玉は剣の周りを漂う。


 大玉だけ。


 剣先から動かない。


 中距離専用。


 ノクトは迫る。


 セイルは下がる。


 ジリジリと。


 場外線が近付く。


 リーチの差。


 打つ手がない。


 蜘蛛の巣。


 そう思う。


 いや。


 本当にそうか。


 恐らく。


 あれは大技だ。


 だから。


 絶対に当てたいはず。


 そのために。


 自分を場外線まで追い込んだ。


 なら。


 そこに活路がある。


 セイルはさらに下がる。


 場外線。


 角。


 もう下がれない。


 そこで初めて。


 回避ではなく。


 防御の構えを取る。


 ノクトは勝利を確信した。


 相手を吹き飛ばす。


 それで終わりだ。


 ゆっくりと息を吸う。


「穿て。」


「インパルス・バースト!」


 ノクトの剣が振り下ろされる。


 セイルは前へ飛び込んだ。


 視線は。


 漂う球。


 グラビティ・ヴォイド。


 セイルの左手が球へ触れる。


 僅かに。


 引き寄せられる。


 その力を利用する。


 背後で暴風が炸裂した。


 風に身を任せる。


 ノクトへ飛び込む。


 咄嗟に剣を離し服を掴む。


 勢いのまま引き倒した。


 二人はもみくちゃになって転倒する。


 ノクトは咄嗟に剣を振ろうとした。


 だが。


 セイルは離さない。


 ノクトの首へ体重を掛ける。


 腕。


 肩。


 足。


 全身でもつれ合う。


「くそっ……!」


 魔法を使う。


 そう思った。


 だが。


 息が出来ない。


 体勢が悪い。


 集中できない。


 「そこまで!」


 試験官の声が響く。


「勝者、四十番!」


 セイルはゆっくりと体を起こした。


 ノクトも上半身を起こし、苦笑する。


「まさか『空爆破・破岩衝』へ飛び込んでくるとは思わなかったよ。」


 立ち上がり、砂を払いながら剣を拾う。


「風の女神は、君に微笑んだようだ。」


 一度だけ、自分の剣へ視線を落とす。


「でも、お陰で気付けた。」


「僕の魔法は、まだ美しくなれる。」


 そして、小さく笑った。


「次は君から、風の女神を取り戻してみせる。」


 セイルも立ち上がり、頭を下げる。


「…ありがとうございました。」


 (最後の技はインパルス・バーストじゃなかったのか?)


 ノクトは満足そうに頷くと、静かに区画を後にした。


 セイルはその背中を見送る。


 成長の実感があった。


 相手を理解する。


 自分を理解する。


 それを受け入れる。


 あとは。


 一歩踏み出す勇気だけだ。


---


 頬を風が撫でる。


 風の女神。


 本当にいるのかは分からない。


 それでも。


 あの風は、少しだけ背中を押してくれた気がした。


 セイル、三勝。


 個人戦突破。



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