第五話 橋の崩れる音
「俺を倒してから通ってくれ」
橋の前に、アッシュが立っていた。
燃えるような赤髪。
手には木剣。
昨日まで村外れの広場で振っていたそれを、今日は王都の騎士団へ向けて構えている。
村人達がざわつく。
村長は顔面蒼白だった。
「ア、アッシュ! 何をしておる!」
「橋を止めてる」
「やめんか!」
「やめない」
アッシュは振り返らなかった。
セイルは何も言えなかった。
黒い瞳はアッシュの背中を見ている。
本当にやるつもりだ。
冗談ではない。
ただ、セイルが危ないと言ったから。
それだけで。
「どけ」
ガレスが低く言った。
短く刈り込んだ黒髪。
日に焼けた肌。
頬に走る古い傷。
鎧の上からでも分かる厚い肩。
その男が一歩前に出ただけで、空気が変わった。
「嫌だ」
アッシュは木剣を握り直す。
「橋は通せない」
「理由は」
「セイルが危ないって言ってる」
村人達が息を呑む。
ガレスは黙った。
オズワルドも困ったように眉を寄せている。
ティアは栗色の髪を胸元で握り締め、青ざめていた。
「それだけか」
ガレスが聞く。
「それだけだ」
アッシュは笑った。
「十分だろ」
セイルには分からなかった。
十分なはずがない。
説明もできない。
証拠もない。
それでもアッシュは立っている。
どうして。
そう思った。
だが、聞く余裕はなかった。
ガレスが構えたからだ。
いや。
構えていない。
ただ立っている。
それなのに。
セイルの目には、どこからでも動けるように見えた。
視線はアッシュ。
だが意識はそこだけではない。
橋。
村人。
騎士。
荷馬車。
後方。
周囲すべて。
どこから何が来ても反応できる。
ただ一つ。
ほんのわずかに、右側への意識が強い。
頬の傷がある方。
それだけが少し引っかかった。
アッシュは気付いていない。
目の前のガレスしか見ていない。
赤髪の少年は木剣を上段に構えた。
力強い。
真っ直ぐ。
昨日よりずっと様になっている。
だが。
セイルには見えた。
ガレスはそこを警戒している。
一番強く。
「うおおおおっ!」
アッシュが踏み込んだ。
上段からの一撃。
速い。
昨日より明らかに速い。
だが、ガレスは半歩動いただけだった。
木剣が空を切る。
次の瞬間。
アッシュの体が宙を舞った。
「ぐえっ!」
地面に転がる。
村人達が一斉に息を呑んだ。
アッシュは起き上がろうとして、すぐにまた倒れた。
「いってぇ……」
ガレスは表情を変えない。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「良い踏み込みだった」
アッシュの顔が少しだけ明るくなる。
「本当か?」
「だが若いな」
それだけ言うと、ガレスは村長へ向き直った。
「村長殿、失礼した」
「い、いえ……」
「少々、村の若者に訓練を手伝ってもらった」
村長は困ったように笑うしかなかった。
ガレスはすぐに騎士達へ振り返る。
「聞け」
空気が変わる。
「橋は狭い。馬車の間隔を空けろ」
騎士達が背筋を伸ばす。
「二台同時に中央へ乗せるな」
「はっ!」
「急ぐな。順に渡る」
ガレスは橋を見た。
「行くぞ」
正しい。
セイルにも分かった。
ガレスは雑ではない。
軽く見ているわけでもない。
ちゃんと橋を見ている。
隊列も見ている。
危険を減らそうとしている。
それでも。
黒い瞳が橋の中央へ向いた。
嫌な感覚は消えなかった。
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出発の準備が進む。
騎士が先に渡る。
一人。
二人。
三人。
石橋は耐える。
次に荷馬車。
ガレスの指示通り、間隔は広い。
一台目が渡る。
何も起きない。
二台目が渡る。
何も起きない。
村人達の表情に安堵が広がる。
村長も胸を撫で下ろしていた。
セイルだけが違った。
橋を見る。
荷馬車を見る。
橋を見る。
荷馬車を見る。
中央の石。
継ぎ目。
砂。
視線が何度も往復する。
その時、ティアが馬車から降りた。
「聖女様?」
オズワルドが声を掛ける。
「少しだけ……」
栗色の髪を指先で押さえながら、ティアはセイル達の方へ歩いてくる。
出発前の挨拶。
それくらいなら許されると、誰もが思ったのだろう。
アッシュは腹を押さえながら立ち上がった。
「いてて……」
「大丈夫?」
ティアが駆け寄る。
「大丈夫だって」
アッシュは無理に笑った。
「王都で待ってろよ」
「……来てくれるの?」
「当たり前だろ」
ティアの顔が少しだけ明るくなる。
そしてセイルを見る。
「セイルも?」
「行くよ」
短い返事。
ティアは小さく笑った。
「うん」
その笑顔は、聖女様ではなく、いつものティアに見えた。
ほんの少しだけ。
「参りましょう」
オズワルドの声がした。
白い教会馬車が橋の手前に進む。
教会の紋章。
白い装飾。
他の馬車よりも少しだけ豪華に見える。
セイルは首を傾げた。
橋。
馬車。
橋。
馬車。
なぜか、その馬車だけ揺れ方が違う気がした。
理由は分からない。
気のせいかもしれない。
ティアが馬車へ戻ろうとした、その時だった。
パキ。
小さな音がした。
誰も反応しない。
だが。
セイルには見えた。
橋の中央。
ひびのあった場所。
石が、沈んだ。
「止まれ!」
叫んだ。
遅かった。
ゴゴゴゴゴ、と低い音が響く。
石橋の中央が沈む。
白い馬車が傾く。
馬が暴れる。
神官達が叫ぶ。
村人達が悲鳴を上げる。
ティアが足を取られた。
オズワルドが動いた。
柔らかな笑みの神官ではなかった。
ただ一人の大人として、反射的に手を伸ばす。
「ティア様!」
聖女様ではなかった。
ティア様。
その声と同時に、オズワルドはティアを橋の外側へ突き飛ばした。
ティアの体が宙に浮く。
「ティア!」
アッシュが走った。
倒されたはずの体で。
痛むはずの体で。
赤髪の少年が飛び込む。
ティアを抱き止め、そのまま地面を転がった。
二人は橋の外へ滑り出る。
助かった。
だが。
オズワルドは残った。
足元の石が崩れる。
白い馬車が傾く。
神官が落ちる。
従者が落ちる。
そしてオズワルドの体も、瓦礫と共に川下へ消えた。
「負傷者確認!」
ガレスの声が響いた。
「動ける者は返事をしろ!」
さすがだった。
崩落直後に、もう指揮を取っている。
「ロープを持て!」
「下へ降りられる者は俺に続け!」
騎士達が動き出す。
村人達は悲鳴を上げるだけだった。
セイルは橋を見た。
落下地点。
岩場。
川。
瓦礫。
人影。
見える。
見えてしまう。
「白い馬車です!」
セイルは叫んだ。
ガレスが振り返る。
「何だ!」
「白い馬車の下に三人!」
黒い瞳が動く。
「一人は動いてる!」
さらに見る。
「一人は足を挟まれてます!」
さらに。
血。
呼吸。
手の動き。
「もう一人が危ない!」
ガレスの目が変わった。
「二人、教会の馬車へ!」
騎士が走る。
セイルは別の場所を見る。
「川下の岩場!神官服の人が流されかけてる!まだ生きてます!」
「ロープ!」
ガレスの指示が飛ぶ。
混乱の中、救助の流れが作られていく。
セイルは息を吸う暇もなかった。
見える。
だから叫ぶ。
叫ばなければ間に合わない。
そして。
見つけた。
瓦礫の下。
銀色の髪。
白い法衣。
血。
「オズワルドさん!」
ティアが叫ぶ。
アッシュの腕から離れ、駆け出そうとする。
アッシュが支える。
「危ない!」
「オズワルドさんは私を助けてくれたの!」
セイルは見た。
オズワルドの胸がかすかに上下している。
血は多い。
足もおかしい。
だが。
「生きてる!」
ティアが振り返る。
栗色の瞳が大きく揺れていた。
「本当に!?」
「生きてる!」
セイルは叫んだ。
「だから諦めるな!」
励ましたつもりはなかった。
ただ、見えた事実を言っただけだった。
それでも。
ティアは動いた。
涙が頬を伝う。
「お願い……」
ティアが瓦礫の前に膝をつく。
「助かって……」
涙が落ちた。
その瞬間。
優しい光が広がった。
セイルは思わず目を見開く。
「え……?」
光は、瓦礫の下のオズワルドへ降り注いでいた。




