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第四十五話 受け止めきれないもの


翌日。


バドウィン魔法屋。


いつものように講義が始まった。


だが、いつもの空気ではなかった。


「今日は圧縮です」


エルザが言う。


アッシュは返事をしない。


セイルは頷いたが、どこか上の空だった。


レナも笑ってはいる。


けれど、いつもの軽さは少し薄かった。


昨日の話が、まだ残っている。


聖女。


前線。


四十日後。


ティアが言った言葉が、三人の中に残っていた。


---


最初はアッシュだった。


「始めてください」


エルザが言う。


アッシュは目を閉じる。


守りたい。


失いたくない。


いつもなら、それで魔力が増える。


少しは圧縮できる。


だが今日は違った。


魔力が乱れる。


広がる。


押さえようとすればするほど、余計に散る。


「くそっ」


アッシュが目を開けた。


拳を握る。


もう一度。


守りたい。


失いたくない。


危ない場所へ行く。


怖いと言っていた。


行きたくないと言っていた。


なのに行くと言った。


魔力が強く揺れた。


だが止まらない。


散った。


「駄目だ」


アッシュは吐き捨てるように言った。


---


次はセイルだった。


理解したい。


理解できない。


目元へ魔力が集まる。


だが、いつもより重い。


見たい。


知りたい。


理解したい。


でも。


ティアは怖いと言った。


行きたくないと言った。


それでも行くと言った。


その意味が分からない。


いや。


分かる気もする。


でも分からない。


魔力が揺れる。


圧縮できない。


崩れる。


セイルは目を開けた。


「……駄目です」


---


最後はレナだった。


幸せになりたい。


分からない。


自由。


幸せ。


選ぶこと。


ティア。


怖いのに行くと決めた顔。


自分で決めていた顔。


それを思い出す。


魔力は増えた。


だが止まらない。


広がる。


散る。


レナは苦笑した。


「今日は駄目だね」


軽く言ったつもりだった。


でも、軽くはならなかった。


---


エルザは三人を見た。


一度。


二度。


三度。


同じような失敗を見届けてから、小さく息を吐いた。


「中止です」


三人が顔を上げる。


「え?」


レナが聞き返す。


「訓練は中止です」


エルザは静かに言った。


「魔法は大きな力です」


いつもの淡々とした声だった。


だが、少しだけ重かった。


「不安定な心で扱うのは危険を伴います」


誰も反論しなかった。


それは正しかった。


今の三人は、明らかに不安定だった。


---


エルザは椅子へ座る。


そして三人にも座るよう視線で促した。


アッシュが不満そうに座る。


セイルも座る。


レナも隣へ腰掛けた。


しばらく沈黙があった。


エルザが口を開く。


「聖女様の前線派遣の話が原因でしょう」


誰も否定しなかった。


「聞かせてください」


エルザは三人を見る。


「皆さんが、どう受け止めているのか」


また沈黙。


最初に口を開いたのは、アッシュだった。


「気に入らない」


短い言葉だった。


エルザは頷く。


「何がですか」


アッシュは少し黙る。


それから言葉を探すように答えた。


「危ない場所へ行くこと」


「怖いって言ってたこと」


「行きたくないって言ってたこと」


拳を握る。


「なのに行くこと」


アッシュは顔をしかめた。


「全部だ」


エルザは否定しない。


ただ聞いている。


アッシュは続けた。


「ティアは昔からそうだった」


「誰かが困ってたら放っておけない」


「自分が我慢すればいいと思ってる」


「昨日もそうだった」


「怖いなら行かなきゃいいだろ」


声が少し大きくなる。


「行きたくないなら、行きたくないって言えばいいだろ」


だが、言ってからアッシュは口を閉じた。


ティアは言っていた。


行きたくない。


でも行く。


私が決めたから。


それを思い出したのだろう。


「……分かんねぇ」


アッシュは小さく呟いた。


---


次はセイルだった。


「俺は」


少し間が空く。


「理解できない」


エルザがセイルを見る。


「行きたくないのに行くこと」


セイルは言う。


「怖いのに進むこと」


「助けたいと思うことは分かる」


「ティアらしいとも思う」


アッシュが少しだけセイルを見る。


セイルは続ける。


「でも」


「それを自分で選ぶことが、まだ分からない」


見えている。


けれど分からない。


何度も味わった感覚だった。


「ティアは昨日、怖がってた」


「行きたくないとも言った」


「でも逃げる顔じゃなかった」


セイルは手元を見る。


「俺には、それが分からない」


理解したい。


理解できない。


その両方が、また胸の中に残っていた。


---


最後はレナだった。


「私は……」


言いかけて止まる。


二人のように、すぐには言葉にならなかった。


前線。


戦争。


聖女。


怖い。


行きたくない。


でも行く。


ティアの顔が浮かぶ。


その顔は、自由ではないように見えた。


でも、誰かに決められているようにも見えなかった。


少しだけ眩しかった。


「羨ましかった」


レナは小さく言った。


自分で言って、少し驚く。


アッシュもセイルもレナを見る。


レナは少し笑おうとした。


でも上手く笑えなかった。


「自分で決めてたから」


「怖いのに」


「行くって決めてたから」


少し間が空く。


「私には、ああいうの無かったから」


言葉にして、胸の奥が少しざわついた。


無かった。


本当にそうなのか。


分からない。


けれど、そう感じた。


---


エルザは三人の言葉を聞き終えるまで、何も言わなかった。


それから静かに頷いた。


「どれも間違いではありません」


三人がエルザを見る。


「ですが」


エルザの視線がアッシュへ向く。


「アッシュ」


「何だよ」


「あなたは、何に怒っていますか」


アッシュは眉を寄せる。


「何にって」


「聖女様を派遣する教会ですか」


アッシュは黙る。


「戦争をしている国ですか」


さらに沈黙。


「それとも」


エルザは少しだけ声を低くした。


「勝手に行動を決めた幼馴染ですか」


アッシュの目が鋭くなる。


「ティアは勝手じゃねぇ」


即答だった。


迷いはなかった。


「そうですか」


エルザは頷く。


「では何ですか」


アッシュは口を開きかける。


だが言葉が出ない。


教会。


戦争。


ティア。


どれも腹立たしい気がした。


でも違う。


一番腹が立つものは、そこではなかった。


「……自分だ」


アッシュは低く言った。


セイルがアッシュを見る。


レナも見る。


アッシュは拳を握る。


「ティアの覚悟に」


「何もしてやれねぇ」


「今の俺じゃ、守れるかも分からねぇ」


奥歯を噛む。


「そんな自分の弱さが、一番腹立つ」


言い切った後、アッシュは黙った。


さっきまでの荒さが少し引いていた。


怒りの形が、少しだけ見えたからかもしれない。


エルザは短く頷いた。


「そうですか」


それ以上は言わなかった。


---


次に、エルザはセイルを見る。


「セイル」


「はい」


「ティア様にもう一度会い、根掘り葉掘り聞けば、理解して納得しますか」


セイルはすぐには答えなかった。


考える。


ティアに会う。


話を聞く。


なぜ行くのか。


何が怖いのか。


何を助けたいのか。


全部聞く。


それで理解できるだろうか。


納得できるだろうか。


「……足りない」


セイルは言った。


「ティアの言葉だけじゃ足りない」


エルザは黙って続きを待つ。


「ティアが見たものを見たい」


セイルはゆっくりと言葉にした。


「ティアには何が見えていて」


「何を見ようとして」


「前線へ行くのか」


胸の奥で、何かが形になっていく。


「それを理解したい」


自分でも少し驚いた。


ただティアを止めたいわけではなかった。


ただ理由を知りたいだけでもなかった。


ティアが選んだものを。


ティアが見ようとしているものを。


自分の目で見たかった。


エルザは少しだけ満足そうに目を細めた。


「そうですか」


---


最後に、エルザはレナを見る。


「レナ」


「はい」


「羨ましかったのですね」


レナは少し目を逸らした。


「……うん」


「自分で決めていたから」


レナは小さく頷く。


「多分」


エルザの声が少しだけ柔らかくなる。


「なら、答えは見えているでしょう」


レナは顔を上げた。


「答え?」


「貴女が何をしたいのか」


レナは黙った。


何をしたいのか。


自由になりたかった。


幸せになりたかった。


みんなといると落ち着いた。


明日が少し待ち遠しかった。


みんながいなくなった後の生活は、もう自由には思えなかった。


ティアが怖いのに進む姿が羨ましかった。


全部が胸の中にある。


でも、言葉にならない。


エルザは静かに続けた。


「あとは勇気を持って、一歩踏み出すだけです」


レナは何も言えなかった。


否定もできなかった。


ただ、胸の奥が少しだけ熱かった。


---


部屋の空気が少し変わっていた。


重いままではある。


けれど、先ほどまでのように濁ってはいない。


自分が何に引っ掛かっているのか。


それが少しだけ見えた。


その時、エルザが言った。


「可能性はあります」


三人が顔を上げる。


アッシュが真っ先に反応した。


「可能性?」


「はい」


エルザは頷く。


「例えば聖女には護衛が必要です」


「護衛……」


アッシュの目が変わる。


エルザは続けた。


「前線へ向かう以上、聖女様が単独ということはありえません」


「騎士団」


「冒険者」


「教会関係者」


「補給部隊」


「様々な人間が関わるはずです」


セイルは考える。


レナも考える。


アッシュはすぐに身を乗り出した。


「つまり、俺達にも行く方法があるかもしれねぇってことか」


「調べる価値はあります」


エルザは淡々と答えた。


だがその言葉は、三人にとって十分だった。


昨日までは、受け止めるしかなかった。


怖くても進むティアを見ているしかなかった。


だが今は違う。


何かできるかもしれない。


それだけで、空気が変わった。


---


アッシュは立ち上がる。


「調べよう」


「そうだな」


セイルも頷いた。


レナも、少し遅れて頷く。


まだ言葉にはできない。


けれど。


一歩踏み出す。


その意味が、少しだけ分かった気がした。


四十日。


望みを叶えるには短く、


諦めるには長すぎる時間だった。



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