「神様は、どこから来たのか」
高校三年生の夏だったと思う。
授業の一環で、映画を何本か観ることになった。
その中に、『天気の子』と『すずめの戸締まり』があった。
正直に言えば、最初は深く考えるつもりはなかった。
ただの映画として観ていたし、感動する場面もあった。
音楽が良くて、映像がきれいで、物語としても面白かった。
でも、観終わったあと、妙な引っかかりが残った。
どちらの作品にも、「神様」が出てくる。
はっきりとした姿で描かれるわけじゃない。
人の形をしていたり、獣だったり、概念に近い存在だったりする。
でも確かに、そこに「神様的なもの」はいた。
天気を狂わせたり、地震を起こしたり、世界のバランスを壊したり。
一見すると、それは人間にとって迷惑な存在にも見える。
理不尽で、身勝手で、残酷ですらある。
そこで、僕は考えた。
――もし、神様が本当にいるとしたら。
――どうして、あんな形で現れるんだろう。
人を助けるなら、もっと分かりやすく助ければいい。
災害なんて起こさずに、静かに守ってくれればいい。
そう思うのが、たぶん普通だ。
でも、ふと、別の考えが浮かんだ。
もしかして、神様は「忘れられたくない」んじゃないか。
神様という存在は、形を持たない。
概念で、記憶で、信仰でできている。
誰も覚えていなければ、誰も語らなければ、
それは「いない」のと同じになる。
だから、神様は災害という形を取る。
地震や雷や大雨は、
「ここにいるぞ」という、強すぎるサインなのかもしれない。
怖がらせたいわけじゃない。
苦しめたいわけでもない。
ただ、忘れないでほしい。
そんな、ひどく人間的な理由だったらどうだろう。
その考えは、不思議としっくりきた。
神様が、急に身近な存在に見えた。
完璧でも、絶対でもなく、
ただ消えたくない存在。
そこから、僕は小説を書き始めた。
神様が出てくる話。
忘れられることを恐れる存在の話。
異世界ものを書いたのも、その延長だったと思う。
運命がループする物語。
勇者と魔王の立場が入れ替わり続ける世界。
正義が固定されず、
どちらの側にも理由がある世界。
書いているうちに、だんだん分からなくなってきた。
正しいのは、どっちなんだろう。
助けるって、なんだろう。
止めるべき行為って、誰が決めるんだろう。
現実では、先生は「じゃれ合いだ」と言った。
映画の中では、神様は「世界のためだ」と言う。
でも、その結果、傷つく人は確かにいる。
正しさは、いつも後付けだった。
立場が変われば、簡単に形を変えた。
神様ですら、
世界を守るために人を犠牲にする。
そのとき、僕の中で、
神様は「答えをくれる存在」じゃなくなっていた。
むしろ、
問いを増やす存在だった。
神様がいるとしたら、
それは人間より少し上の場所で、
世界を見ているだけの存在なんじゃないか。
すべてを知っているから、すべてに手を出さない。
すべてを決められるから、何も決めない。
そんな姿が、頭に浮かぶようになった。
この頃から、僕は少しずつ、
正しさそのものを疑い始めていた。
神様がいても、世界はこんなふうだ。
じゃあ、人間が完璧な正しさを持てるわけがない。
答えは、やっぱり出なかった。
でも、考え方は、確実に変わっていった。
神様は、どこから来たのか。
それはきっと、
人が「分からなさ」に耐えられなくなったときに、生まれてくる存在なんだと思う。
そしてその「分からなさ」は、
この世界にも、僕自身の中にも、
ずっと残り続けていた。




