第9話 神殺しの呪詛と反撃の狼煙
銀色の短髪を荒々しく逆立てたヴォルフガングの巨体が、夜の凍てつく大気を切り裂くようにして猛進した。両腕に装着された魔導ガントレットのフェンリルの牙が、空間の魔力を貪るように青白い放電の軌跡を描く。その圧倒的な質量と殺気が、烏丸小路スラム街の交差点を覆う冷気をさらに鋭利な刃へと変えていた。
加茂の或は、その迫り来る死の奔流を目前にしながらも、微動だにせず右手の指先で呪木の根元に括り付けた最后の一枚の逆相ルーン呪符を固定し続けていた。
――ガツン、と世界がひしゃげるような凄まじい衝撃が地表を揺らした。
ヴォルフガングの放った全力的突撃の牙が、或の肉体を直撃したかに見えたその瞬間、或が事前に交差点の周辺へ張り巡らせていた数本の木製の呪木が同時に鋭い光を放ち、地面に埋め込まれていた身代わり用の古びた呪符の束が一斉に炸裂した。物理的な衝撃波が爆風となって周囲のバラックのトタン屋根をひしゃげさせ、吹き飛んだアスファルトの破片が闇の中で激しく明滅する。しかし、その爆発の煙霧の向こうで或の肉体が粉微塵に散ることはなかった。或は呪木の軸を伝う反発のベクトルを逆相の網目で巧みにいなし、致命的な一撃を紙一重の差で回避して、半歩だけ後方の影へと滑り込んでいた。
「なに……ッ!?」
ヴォルフガングの野獣のような黄色の双眸が、信じられないものを見るように見開かれた。自らの全力を込めたフェンリルの牙が捉えたのは、血に染まった制服の袖と、或が意図的に置き残した木製の呪木の残骸だけであった。手応えのなさに怒りと当惑を滾らせたヴォルフガングが再び咆哮を上げようとした刹那、或はその隙を微塵も逃さず、冷徹に仕掛けた罠の最終回路へと踏み込んだ。
「――どれほど精巧に組み上げられた神代の回路だろうとな、端くれの人間が作った配線である以上、裏口からの泥縄式パッチ当てでいくらでもバグらせてやれる。……奇跡を崇めてふん反り返ってるだけの連中に、地に足のついた現実の重みを教えてやる時間だ」
賀茂の或の低く冷徹な呟きが、荒れ狂う風の音を縫って交差点の底に響き渡った。
地下の奈落にある黒曜石の祭壇で血の共鳴を経て体得した神殺しの呪いが、或の右腕のサラシの下で激しく脈打つ。半神半魔の青黒い呪印が発する高熱は、帝都全域を網羅する魔導インフラの狂った周波数と共鳴し、或の神経の深部を容赦なく焼き焦がしていた。だが、その痛覚を或は奥歯で舌の側面を強く噛みしめることで完全に切り捨て、自らの血を媒介にした和洋折衷の呪符結界術の全霊を解き放つ。
パチパチ、と青白い霊的アークが交差点を囲むようにして乱舞した。
東洋の五行相生相克――木生火、火生土、土生金、金生水、水生木の理を、北欧のエルダー・ルーン文字が持つ破壊と拘束の位相へと無理やり直結させる。或の血で染め上げられた逆相ルーン呪符の網目は、帝都のインフラから漏れ出すシステム魔力のノイズを逆用し、暴走するエネルギーを内部から蝕む巨大な論理的ハッキングの奔流へと変貌していた。
「ぐあ……っ、なんだこれ……!? 身体の奥の魔力回路が、勝手に……逆回転を起こしてる……ッ!?」
それまで狂宴の笑みを浮かべていたヴォルフガングが、突如としてガントレットを押さえながら膝をつきかけた。彼が纏っていたフェンリルの闘気は、或の仕掛けた逆相の網目にシステムの中枢からハッキングされ、自らの血肉を内側から食い破る逆流の痛みを伴って激しくスパークし始めたのだ。システムに依存し、無限の暴力とステータスを当然のものとして振るってきた傲慢な自信は、現地人の泥臭い知恵によって根本からズタズタへと引き裂かれていく。
その一方で、交差点の中心部で凍りついた泥水に突っ伏していたヘレナ・フォン・エッダの精神領域にも、或のハッキング呪術の刃が容赦なく突き刺さっていた。
純白のゴシック風コートを身にまとった少女の背後で狂い狂っていた絶対零度のフィールドは、逆相ルーンの網目に回路の端を抑え込まれ、ガリガリと不気味な音を立てて急速に収縮していく。自分を喰らい尽くそうとしていた死の女神ヘラの神気が、或の血塗られた呪符によって強制的に鎮静化され、システムの虚偽の加護そのものが内側から粉砕されていく。
「ふざけないで……! あなたごときが、私の気高さを踏みにじっていいはずがないわ……。……見なさい、或。システムの外側で足掻く愚か者が、私に届くなどと酔狂もいいところよ!」
ヘレナは肺腑を抉るような激痛と激しい虚脱感に襲われながらも、誇りの残滓だけでかろうじてその上半身を起こし、血走った赤い双眸で或を激しく睨みつけた。その声は震え、純白のコートは泥と血で無残に汚れていたが、彼女の中で消えかけていた意地だけが、或の冷徹な姿を鮮明に捉えていた。
だが、そのヘレナの強がりを嘲笑うかのように、或が打ち込んだ木製の呪木が一際まばゆい閃光を放って頂点に達した。
幾重にも張り巡らされた逆相ルーンの網目が、交差点の中央部で凄まじい反発力を爆発させた。
パチパチと青白い火花を散らす霊的アークは、周囲の都市インフラの残骸から吸い上げた魔力の奔流を巻き込み、巨大な渦となって空間の位相を内部から食い破っていく。ヘレナの背後で猛威を振るっていた絶対零度のフィールドは、その強烈なハッキングの逆流によってコアの結節点を完全に砕かれ、粉雪のように細かい霊的ノイズへと分解されて四方へ霧散していった。
「――がっ……おのれ、この雑種が……ッ!」
ヴォルフガング・リッターの巨体が、自らの放った突撃の反動と或の仕掛けた相剋の網目によって、たまらず数歩後ろへと押し戻された。
両腕に装着された魔導ガントレットのフェンリルの牙は、逆相ルーンのフィードバックを受けて激しい亀裂を走らせており、そこから漏れ出した青白い魔力の残滓がシューシューと耳障りな音を立てて蒸発している。生れてこの方、システムに選ばれた特権階級の処刑人として、理不尽な暴力とチートスキルの物量だけで世界を蹂躙してきた彼にとって、下級の現地人が泥縄式の知恵と血の呪符で己の優位を完全にひっくり返したという事実そのものが、耐えがたき屈辱であり、精神を抉る猛毒となっていた。ヴォルフガングの黄色い双眸は怒りと狂気で血走り、獣のようなうめき声を喉の奥で鳴らしながら、なおも立ち上がろうと鋼鉄のような足を踏ん張る。
しかし、その巨体を支える足元の地盤そのものが、すでに或のハッキング呪術によって根本から書き換えられていた。
加茂の或は、冷え切ったアスファルトの上に膝をつきそうになる自らの肉体を、左手で突き立てた呪木の軸にしがみつくようにして辛うじて支えていた。
右腕のサラシの下で脈打つ青黒い呪印は、限界を超えた魔導インフラの周波数との共鳴によって、まるで煮え滾る鉄板のように熱を帯びている。皮膚の亀裂から滲み出た鮮血がサラシをさらに深く赤く染め上げ、神経の深部を焼くような激しい痛みが或の脳髄を突き刺した。それでも或は、奥歯で舌の側面を強く噛みしめ、口の中に広がる生温い鉄の味を頼りに意識の明滅をねじ伏せた。
(……まだだ。ここで気を緩めれば、あの狂った処刑人の反撃に足元をすくわれる。それに、頭上の裂け目から漏れ出している気配も……完全に消え去ったわけじゃない)
或は煤色の瞳を血走らせながら、ゆっくりと顔を上げた。
交差点の中央部では、絶対零度の暴走から引き戻されたヘレナ・フォン・エッダが、泥と氷まじりのアスファルトに突っ伏したまま、肩を激しく上下させて浅い呼吸を繰り返していた。純白のゴシック風コートは引き裂かれ、誇り高い「神民」としての仮面は完全に剥ぎ取られている。彼女の内に巣食うヘラの神気は或の逆相ルーンによって強制的に鎮静化されていたが、その精神的ショックと肉体的疲労のあまり、指一本動かすこともできない虚脱状態に陥っていた。
「やめて……もう、いやよ……こんなの……」
ヘレナの唇から漏れ出た微かな呟きには、もはや先ほどまでの傲慢な気高さのかけらすら残されていない。システムという絶対的な権威に寄りかかり、努力や血を流す修行の価値を踏みにじってきた彼女が直面したのは、あまりにもリアルで容赦のない現実の重みであった。
或はそんな少女を一瞥すると、冷徹な視線をすぐ傍らで荒い息を吐くヴォルフガングへと戻した。
「……どうした、処刑人。お前のその自慢のフェンリルの牙はもう折れたか。それとも、泥にまみれて這い回る感覚が、そんなにもお気に召さないかよ」
「……ふざけ、やがて……っ! この俺を誰だと思っている……! 俺は神話の終末を引っ提げてこの世界に降臨したフェンリルだぞ……! こんな、名前すらない雑種の小細工ごときに、俺が屈するとでも……!」
ヴォルフガングは狂気的な笑みを歪ませながら、亀裂の走った魔導ガントレットを無理やり合わせ、再び凄まじい闘気を纏い上げようと右腕を持ち上げた。しかし、その内部の魔力回路はすでに或の仕掛けた相剋の網目によって完全にハッキングされており、ガントレットの爪が激しい火花を散らすだけで、致命的な一撃を放つためのエネルギーはもはやの一滴も残されていなかった。無理な出力の引き上げがさらなる逆流を引き起こし、ヴォルフガングの巨体が痙攣するように大きく震える。
「システムに依存しきった連中がいくら自分の権能を誇示したところで、基礎の配線を逆相で引っぱたかれれば、ただの派手な花火と同じように綺麗に弾け飛ぶのさ。……ざまあみろ、特権階級の神様よ」
或の低く冷徹な声が、凍てついた交差点の空気に決定的な終わりの響きを刻み込んだ。
その瞬間、交差点を囲む雑居ビルの外壁やインフラの残骸に打ち込まれていたすべての特製呪符が一斉にまばゆい青白い閃光を放ち、蓄積されていたすべての反発エネルギーを内側へと一気に収束させた。
――ズウンッ! と、帝都第七特区の地下深部を揺るがすような重い地鳴りが轟いた。
交差点の中心を覆っていた逆相ルーンの網目が完全に閉ざされ、ヴォルフガングとヘレナの周囲を取り巻いていた圧倒的な魔導の奔流が、まるであらかじめ定められた秩序に押し戻されるかのようにして綺麗に消滅していく。暴走を続けていたヘラの絶対零度フィールドは完全に鎮まり、ヴォルフガングの魔導ガントレットから放たれていた野蛮な殺気も、その基盤を断ち切られたことで急速にその密度を失っていった。
静寂が、凍てついたアスファルトの上に再び戻ってきた。
しかし、それは先ほどまでの死の恐怖に満ちた静寂とは異んでいた。頭上で不気味にうねる黄泉比良坂の紫黒い裂け目は相変わらず冷たい瘴気を吐き出し続けているものの、少なくともこの烏丸小路スラム街の交差点周辺を覆っていた理不尽な神話の圧力は、或の泥臭いハッキング呪術によって一時的に粉砕され、その支配権は生身の人間が足をつく現実の地面へと引き戻されていた。
「……はあ、っ……はあ……」
或は呪木の軸から手を放し、その場に片膝をつきながら荒い息を吐き出した。
右腕の呪印の疼きは依然として激しいが、神経を焼き焦がしていた神経痛の波は徐々に引いていき、代わりに全身を重い疲労感が包み込んでいく。自動回復の機能などない生身の肉体で神話級の存在を相手取った代償は小さくなかったが、或の煤色の瞳の奥に宿る光は、かつてないほどに鋭く、そして鮮烈な生きて戦い抜いた手応えに満ちていた。
横たわるヘレナは意識を失い、その場にぐったりと崩れ落ちている。
少し離れた場所では、ヴォルフガングが悔恨と怒りに満ちた獣のような息を荒げながらも、もはや立ち上がる気力を失って膝をついたまま動かなくなっていた。
圧倒的なシステム的暴力を振るう転生者たちに対して、泥臭い現地人の手による反撃の狼煙は、今まさにこの烏丸小路の路地裏から高らかに上がり始めていた。
或はゆっくりと立ち上がり、血と泥に汚れた制服の袖を乱暴に拭うと、未だ冷めやらぬ夜気の中をすべるようにしてスラムの深い影のほうへと歩みを進めた。頭上でうねる黄泉比良坂の裂け目の向こう側では、すでに次なる破滅の予兆がひそやかに胎動を始めているが、或はその背中に向けられたどのような脅威をも恐れることなく、自らの足でしっかりと現実の地面を踏みしめながら、静かにその場を離れていった。




