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転生者たちがチートに酔いしれる世界で、俺だけは生身の知恵と和洋折衷呪術でラグナロクを阻止する  作者: あやと


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第42話 スラムの邂逅と、手作りの防壁

烏丸小路スラム街の泥濘の広場に吹き付ける風は、生乾きの泥と異界の澱んだ悪臭を帯びて、ヘレナ・フォン・エッダの純白のゴシック風コートの裾を冷たく揺らしていた。皇神学園の威圧的な中枢から単身で抜け出し、この最底辺の領域へと足を踏み入れてからどれほどの時間が経ったのか。頭蓋の奥で澱むように響いていた死の女神ヘラの冷酷な囁きは、賀茂の或がシステムの中枢を破壊した余波によってかろうじて遠ざかっていたが、それでも肉体の底には不気味な寒気が居座り続けている。


 ヘレナは泥濘にまみれた丸太の切れ端に腰を下ろし、小刻みに震える両掌をじっと見つめた。

 先ほど、この広場の片隅で薪割りの手伝いに加わった際、自分の身体から漏れ出した微かな黒い霜が周囲の空気を凍てつかせ、住人たちを恐怖に陥れた光景が脳裏から離れない。いつでも周囲の目を気にし、神話の寵愛という空虚な幻影にしがみついてきた壊れた人形のままでは、やがて本当に自分の魂までヘラという怪物に上書きされてしまう。その恐怖から逃れるために学園を飛び出したものの、実際にこの泥にまみれた現実に放り出された彼女の足元は、頼りない不安でひどく心細く揺らいでいた。


「……っ、どうしてよ……。ボクは、ただ自分の足で立ちたかっただけなのに……」


 ヘレナは左耳のプラチナのピアスを指先で強く引きつりながら、凍てつく空気を胸いっぱいに吸い込んだ。周囲のバラックの隙間から漏れ出す薄暗い明かりの下で、スラムの住人たちは冷ややかな視線を投げかけつつも、それぞれに明日の糧を得るための作業を黙々と続けている。誰も彼女を特別扱いなどしないし、かといって過剰に恐れることもなく、ただそこに「厄介な余所者」として存在することを許しているだけだった。その殺伐とした無関心こそが、かつて温室で過剰にちやほやされてきた彼女にとっては、かえって新鮮な現実の重みとして肌を刺していた。


 だが、その束の間の静寂は、長く続かなかった。


 労働の疲労からヘレナの精神的緊張がわずかに緩み、気の緩みが生じたその瞬間、肉体の深部に巣食う死の女神の神話的残滓が、微かな黒い霜となって再び足元から這い出し始めた。周囲の温度が急速に奪われ、地面の泥水がバリバリと音を立てて白い氷の結晶へと変わっていく。


「……あっ……!」


 ヘレナは青ざめた表情で自分の足元を見下ろした。その異質な冷気の匂いに敏感に反応したのは、人間だけではなかった。烏丸小路スラム街の暗がりに潜む、異界の瘴気や転生者たちが捨て去った魔力の残滓を糧とする存在が、一斉にその気配を嗅ぎつけたのだ。


 頭上のトタン屋根の隙間や、崩れかけた下水の暗渠の入口から、紫黒い微光を湛えた異形の影――ヘラの眷属に似た冷気の気配を纏う小さな魔獣の群れが、音もなく壁面を伝い降りてきた。鋭い爪と歪んだ牙を持つその影たちは、ヘレナから漏れ出す絶対零度のパルスに引き寄せられるように、広場にいた住人たちめがけて一斉に飛びかかろうと身を屈めた。


「おい、なんだあれは……っ!」

「化け物だ……! あの女が連れ込んだんだぞ!」


 広場にいたスラムの住人たちが恐怖に顔を引きつらせ、錆びついた鉄棒や木製のバールを掴んで後じさった。逃げ場のない狭い泥濘の中で、異形の影たちが一斉に跳ね上がり、最前線にいた老いた労働者の喉元へとその鋭い爪を伸ばす。


 ヘレナは息が詰まるほどの絶望感に襲われながらも、その場から逃げ出さなかった。ここで怯えて縮こまれば、あの時と何も変わらない。自分が引き起こした災厄の尻ぬぐいを他人に押し付け、守られるだけの壊れた人形に戻ってしまう。


「来ないで……っ!」


 ヘレナは両手を地面につき、自らの内側から溢れ出そうとする冷気の魔力を必死の意志で制御しようとした。しかし、未熟な精神力では暴走する神気を抑えきれず、逆に周囲の空間を凍りつかせる絶対零度のドームが広がり、彼女自身の足をも冷たい氷の枷で縛り付けていく。眷属の鋭い牙が老人の目前まで迫り、誰もが絶望の息を呑んだその瞬間であった。


 ――ビシイッ、と鋭い破裂音が、凍てつく空気の底を切り裂いた。


 広場の隅に積み上げられた廃材の影から、一枚の古い木製呪札が青白い霊的アークを散らしながら宙へと弾き飛ばされた。それは派手な爆発を起こすわけでもなく、ただ五行の相克理を定めた微小な幾何学模様の光を放ちながら、飛びかかろうとした異形の影たちの頭上へと正確に滑空していく。


「――遅いんだよ、お前のその中途半端な魔力の引き算は」


 泥まみれのトタン壁の隙間から、煤色の瞳を冷徹に光らせた賀茂の或が、静かにその姿を現した。

 彼の右腕のサラシの下からは、昨日までの激闘の名残である青黒い呪印が微かな熱を帯びて脈打っている。或は両手に数枚の血塗られた逆相ルーン呪符を挟み込み、あらかじめスラムの路地裏のあちこちに仕込んでおいた木製呪札の罠を一斉に手元の指先で弾き鳴らした。


 ガツン、と地面の底から響くような鈍い相殺音が広場を揺らす。或が放った五行の「水気封印」と北欧のエルダー・ルーンの拘束刻印が完璧に噛み合い、ヘレナの暴走波によって活性化していた異形の影たちの魔力回路を内部から強制的に逆流させた。眷属たちは甲高い悲鳴を上げる間もなく、その場でバリバリと青白い氷の彫像と化し、パリンと音を立てて細かな砂塵のように崩れ去っていった。


「っ……或……?」


 ヘレナは凍りついた泥濘の中に膝をついたまま、目の前に現れた或の背中を信じられないような眼差しで見上げた。


 或はヘレナの顔を一瞥することすらせず、冷徹な視線を周囲の住人たちに向けたまま、懐から取り出した素焼きの木簡を足元の泥濘へと力強く突き刺した。

「……いつまでそこに突っ立ってる気だ。そんなところで冷気を野放しにしていれば、この広場ごと烏丸小路の路地裏が丸ごと氷漬けになるぞ」


 或の低い声には同情の色など微塵もなかったが、その圧倒的な手際の良さと、無駄な呪術を使わずに最小限の罠だけで異形の影と群衆のパニックを無傷で沈静化させた手腕は、周囲の空気を瞬時に制圧していた。武器を構えていたスラムの住人たちも、或の冷徹な眼差しと、彼が日頃からこのスラムの泥水をすすりながら生きる同胞の一人であることを知っているが故に、気まずそうにそれぞれの鉄棒を下ろし始めた。


「……賀茂の或か。相変わらず、面倒臭い厄介事を拾ってきやがるな……」


 先ほど薪割りのことでヘレナを咎めていた中年男が、額の汗を拭いながら低い声で吐き捨てた。しかし、その声には先ほどのようなむき出しの敵意はなく、どこか安堵の色が混じっていた。


 或は冷ややかに鼻を鳴らし、痛む右腕の古傷をかばうようにしながら一歩前へ踏み出した。そして、凍てついた地面の上で息を荒くしているヘレナの足元に視線を落とす。


「逃げ出さずにそこに踏み止まっていたところだけは、せいぜい褒めてやるよ。だがな、お前のその甘ったれた魔力の制御ミスをいつまでも俺の呪符の数だけでカバーできると思うな。ここは、お前がいつもの温室のつもりで気まぐれを起こしていい場所じゃねえんだ」


 ヘレナはその冷たい言葉を浴びせられながらも、胸の内で小さく息を吐き出した。悔しさや屈辱ではなく、自分の暴走がもたらした現実の重みを直視したからこその、確かな安堵感がそこにはあった。彼女は震える両手で地面を押し、自らの足でしっかりと泥濘の地面を踏みしめながら立ち上がった。


「……分かってるわよ。ボクだって、いつまでも甘えているつもりなんてないんだから……っ!」


 ヘレナのその返答を聞いた或は、わずかにその煤色の瞳を細め、それ以上追撃の言葉を口にはしなかった。或は周囲の配線盤の隙間に仕込んでおいた微小な反転結界のアンカーが正常に機能していることを確認すると、冷え切った大気の中に漂う異界の瘴気の残り香を鋭く嗅ぎ取った。


「……眷属の一匹や二匹を片付けたところで、根本の霊的ノイズの源が消えたわけじゃない。烏丸小路の地下水脈から這い上がるこの熱量は、昨日までのそれよりも明らかに質が悪い」


 或は痛む右足を力強く踏み出し、冷え切った広場の石畳を見据えながら低い声で呟く。

 荒涼としたスラムの片隅で、二人が目の当たりにしたのは、神話の歯車が再び不気味に噛み合い始めた帝都の最底辺の現実であった。逃げることも許されず、しかし自らの足で立つことを選んだ者たちの足元で、次なる修羅場への予兆が音もなくうねり始めている。


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