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転生者たちがチートに酔いしれる世界で、俺だけは生身の知恵と和洋折衷呪術でラグナロクを阻止する  作者: あやと


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第43話 底辺の夜明けと、束の間の協調

烏丸小路スラム街の泥濘む広場から、賀茂の或はヘレナ・フォン・エッダを引き連れるようにして、かつて古びた配給所として使われていた集会所の建物へと足を踏み入けた。頭上でうねる黄泉比良坂の紫黒い裂け目は相変わらず不気味な冷気を吐き出し続けているものの、先ほどまでの氷結の危機が去った広場には、わずかに張り詰めた静けさが戻っていた。


集会所の内部は、トタン屋根の隙間から差し込む煤けた外光と、素焼きの灯火皿から揺らめく黄色の炎が作る影とで満ちていた。室内に充満しているのは、異界産の泥炭が燃える独特の臭いと、湿った古い畳、そして過酷な生活に耐え続ける住民たちの汗と擦り切れた布の匂いである。先ほどの眷属襲撃の余波で軽い打撲や冷気による凍傷を負った住民や子供たちが、古びた毛布に包まって床のあちこちに座り込んでいた。


賀茂の或は古びた陰陽寮制服の袖を捲り上げ、床板の隅に置かれた木製の薬箱から、すり潰した薬草の入った麻の布袋と特製の和紙包みを取り出した。


「騒ぎを聞きつけて戻ってきた連中だ。大した怪我じゃないが、冷気に当てられた末端の血流を戻しておかないと、明日には腫れ上がるぞ」


或の低く落ち着いたトーンの声が、薄暗い室内に響く。彼は手元のすり鉢に山椒の葉と苦味のある異界産の薬草を放り込み、木製のすりこぎ棒で力強く押し潰し始めた。単調な擦過音が、静まり返った集会所の隅でコトコトと反響する。右手首の厚いサラシの下では、呪印の熱が微かに脈打っているが、或は眉一つ動かさず、その痛みを意識の隅へと追いやって作業に没頭した。


その傍らで、純白のゴシック風コートを泥と冷気の結晶にまみれさせていたヘレナは、自らの衣服の汚れを気にする余裕もなく、硬質な床の上に呆然と立ち尽くしていた。彼女のプラチナブロンドの髪は冷たい汗に濡れて額に貼り付き、血のように赤い双眸には、先ほどまでの高慢な光は完全に消え失せ、底知れぬ戸惑いと静かな動揺が宿っている。


「……何をぼさっとしている。そこにいる子供の手足を温めろ。凍傷の初期症状には、ただの布切れよりも、人肌の熱とこの薬草の絞り汁を馴染ませた麻布が一番効く」


或はすり鉢から視線を上げることなく、冷徹に言い放った。ヘレナはビクリと肩を震わせ、その冷たい煤色の瞳と視線が交差する。彼女は反射的に「私にそんなことできるわけ……」と口走りそうになったが、或の腕に刻まれた青黒い呪印の痕跡と、その背後で淡々と痛みに耐えながら人々のために手を動かす姿を目の当たりにし、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


ヘレナは唇を固く引き結び、自らの意思でゆっくりとその場に膝をついた。彼女の目の前には、恐怖に震えながら小さく丸くなっている七つほどの少女が座っている。少女の小さな足先は、先ほどの絶対零度の余波で青紫色に変色していた。


「……わかったわよ。やるけばいいんでしょ、これくらい……っ!」


ヘレナは震える指先で古びた麻の布巾を掴み、素焼きの皿に用意された温められた薬草の絞り汁に浸した。かつて高級なドレスや純白の制服以外の布地に触れたこともなかったその指先が、スラムの子供の冷え切った足首にそっと触れる。最初は躊躇するように強張っていた手つきだったが、少女が寒さに耐えるように小さく身を縮こまらせたのを見て、ヘレナの中で何かが音を立てて切り替わった。


(――逃げない。もう二度と、あんな恐怖から逃げ出したりしない……!)


ヘレナは自らを戒めるように心の中で強く念じ、震える指先に力を込めて少女の足首を包み込み、丁寧に泥と冷気の結晶を拭き取っていった。純白のゴシック風コートの裾が床の泥に触れてさらに黒く汚れていくが、もはや彼女はそのような外見の瑣末な汚れを気に留めてすらいなかった。泥臭い現実に直面し、温室の幻想を自らの手で引き剥がした少女の瞳には、かつての空虚な選民意識ではなく、生身の人間として他者に向き合うための確かな熱が宿り始めていた。


集会所の反対側では、3人の或と同世代の若者たちが、崩れかけた壁の補修と反転結界のアンカーの再配置について或に意見を求めていた。


「おい、賀茂の。さっきの路地裏の結界、アンカーの埋め込みが浅かったら、次の夜更けの冷気でまた下水の暗渠から何かが這い上がってくるんじゃないか?」


古びた麻布のベストを纏った青年が、不安そうな表情で或に尋ねる。

或はすりこぎの手を止め、すり鉢の中に残った緑色の薬草のペーストを指先で少量すくい取ると、近くにいた負傷者の皮膚に手際よく塗り込みながら答えた。


「心配いらない。さっきの段階で、主要な霊的ノイズの導線には逆相ルーンの刻印を打ち込んでおいた。お前たちが夜通し水脈のバルブを開けっぱなしにさえしなければ、少なくとも明日までは烏丸小路の路地が凍りつくことはない。だが……安心するのはまだ早い」


或の言葉に、青年の表情がわずかに引き締まる。

「どういうことだ?」


「表向きの特異災害対策局の役人どもは『システムは正常値に戻った』と上の連中に報告書を叩きつけて安心しきっている。だが、足元の地層の澱みは消えていない。ヴォルフガングの野郎が残した魔力の残滓と、帝都中央の裂け目から漏れ出す瘴気は、今この瞬間も地下水脈の深層で別の形へ姿を変えようとしている」


或はそう言いながら、煤色の瞳を床板のさらに下へと向けた。

スラムの地表の下には、目に見えない無数の配管や古い保守回線が迷路のように張り巡らされている。そのさらに底、人間の足を踏み入れることのできない暗黒の層で、何かが静かに呼吸を始めているような、不気味な予感が或の背筋をかすめていた。


或のその冷徹かつ現実的な分析を聞きながら、ヘレナは子供の足首に薬草を塗り終え、ゆっくりと立ち上がった。彼女の額には汗が滲み、純白のコートはすっかり泥まみれになっていたが、その表情には先ほどまでの怯えや焦燥の色は消え、不思議なほど穏やかな透明感が漂っていた。彼女は自分の両手を見つめ、そこに残る薬草の独特の苦い匂いをそっと確かめるように息を吸い込んだ。


「……或。私、これでもう、あなたの足手まといにはならないわ。あの地下での絶望的な崩壊のときに思い知ったの。守られるだけの存在でいることが、どれほど自分を空っぽにするかということをね」


ヘレナのその言葉に、或はわずかに視線を向け、皮肉とも肯定ともつかない小さな笑みをその唇の端に浮かべた。


「……口だけは一人前だな。だが、その泥だらけのコートを見れば、少しは現実の重みが分かったらしい」


或がそう言いかけて視線を戻したその瞬間、室内の空気がふと冷たく淀んだ。

集会所の床板の隙間から、まるで生き物のように這い出してきたのは、視覚にもはっきりと分かるほどの紫黒い微光を帯びた細い瘴気の糸だった。その匂いは、先ほどまでの異形の魔獣が放つそれとは異なり、異世界主神群の冷酷な意思と、古びた血の匂いを混ぜ合わせたような、圧倒的に不快な異臭を伴っていた。


「……っ!?」


或は反射的にすり鉢から手を放し、懐から予備の血塗られた逆相ルーン呪符を二枚抜き放った。

ヘレナもまた、本能的に足元の異変を察知し、その両掌に微かな蒼白の冷気の光を纏わせる。集会所にいた住民たちも、その異臭に気づいて一斉に顔色を変え、ざわめきを上げた。


紫黒い瘴気の糸が床板の木目から不気味に浮き上がり、集会所の薄暗い空間に這い広がるにつれて、室内の温度は急速に低下していった。古いトタン屋根の隙間から吹き抜ける風には、異界の泥炭が腐敗したような刺激臭と、北欧の古き死の領域を思わせる鉛色の重圧が混じり合っている。床に座り込んでいた負傷した子供や住民たちは、その異様な臭気と寒気に怯えるように身を寄せ合い、小さく身震いした。


「……これだ。さっき俺が地下水脈の底で感じた熱暴走の波及源は、まさにこの臭いだ」


賀茂の或は鋭く息を吐き出し、右手首の呪印が発する鈍痛を意志の力でねじ伏せながら素早く立ち上がった。彼の煤色の瞳は、床の隙間から立ち上る紫黒い煙の奔流を冷徹に捉えている。システムや転生者たちが表向きの復旧作業に浮かれ、世界が平穏を取り戻したと錯覚しているその足元で、神話の歯車は着実に、かつ狂気的な精度で次の破壊のフェーズへと移行しつつあった。


「或……、これって……!」


ヘレナは自らの足元で這い回る微細な黒い霜の結晶を見据えながら、かろうじて声を張り上げた。先ほどまで彼女の肉体を蝕んでいた死の女神ヘラの気配とは明らかに異なり、もっと古く、もっと巨大な「異世界の主神群」の意思の断片が、帝都第七特区の土壌の底からあふれ出そうとしているのが肌で感じられた。それは個人の魔力の暴走などではなく、都市そのものの地盤を根底から書き換えるための「神話ハッキング」の予兆にほかならなかった。


或は懐から新たに二枚の血塗られた逆相ルーン呪符を取り出し、それを素早く指の間に挟み込んだ。彼の口元には、不条理な現実に対するシニカルな笑みではなく、修羅場を潜り抜けた者にしか宿らない冷徹な闘志が浮かんでいる。


「驚くのはまだ早い。連中は俺たちが作り上げたささやかな防壁や、このスラムの生活圏そのものを、まとめて呑み込むつもりでいるらしい」


或はそう言い放つと、迷うことなく集会所の出口へと歩みを進めた。その背中を見つめるヘレナの胸の内で、かつて抱いていた特権階級としての虚栄心や無力感は完全に消え去り、代わりに同じ泥の上に立ち、共に現実と対峙しようとする強い共鳴の火が灯っていた。彼女もまた、自らの純白のゴシック風コートの裾を雑にまくり上げ、或の背中を追うようにして立ち上がる。


集会所の戸口から外へ踏み出した賀茂の或の足元で、泥濘に突き刺さった素焼きの木簡が、微かにキイキイと耳障りな高音を立てて亀裂を走らせた。その細かな罅割れから、異界の沼底を思わせるドす黒い澱みを含んだ瘴気が、まるで呼吸をするかのように脈打ってふわりと立ち上る。或はその気配を冷徹に見据え、指に挟んだ逆相ルーン呪符の端を強く爪で押し付けた。


「……甘く見ていたわけじゃないが、根がここまで腐食しているとはな」


或の低い呟きは、トタン屋根を叩く乾いた風の音にかき消された。しかし、その声に含まれた凍てつくような硬質さは、背後に控えていたヘレナの耳にも明確に届いていた。彼女は泥にまみれた純白のコートの裾を片手でしっかりと掴み、或のわずか半歩後ろに身を寄せるようにして立ち並ぶ。かつて皇神学園の温室で、選ばれし神民として高みから世界を眺めていた少女の面影は、もはやそのどこにも残っていなかった。


「或、この瘴気……ただの魔力残滓じゃないわ。北欧の神々が好む氷の死臭と、東洋の地母神の澱みが混ざり合って、お互いの属性を相殺しながら膨らもうとしている……。このまま放置したら、烏丸小路の路地一帯の地盤そのものが溶けて崩れ落ちるわよ」


ヘレナが絞り出すように発したその分析は、図らずも或の脳裏で描いていた最悪の予測と完璧に一致していた。或は返答の代わりに、右手の指先をわずかに動かし、血塗られた呪符の表層に走る朱墨の軌跡を再確認する。


「分かっている。奴らは、俺たちが中枢のシステムを粉砕したことで発生したエラーコードの残骸を、このスラムの地下水脈を導線にして丸ごと回収しようと企てているんだ。表通りの役人どもが綺麗事を並べている裏で、地底の泥の中では着々と次の神話の布石が打たれているってわけだ」


或の煤色の瞳の奥で、冷徹な理性の光が鋭く明滅した。

集会所の内部では、先ほどまで或やヘレナの手当てを受けて落ち着きを取り戻していた住民や子供たちが、再び漂い始めた不気味な異臭と床の微震に気づき、不安に満ちたざわめきを上げ始めている。青白い灯火皿の炎が不規則に揺らめき、室内の影を大きくしたり小さくしたりと激しく歪ませていた。


「おい、どうしたんだ……? またあの化け物が来るのか……っ!」

「外の臭いがおかしいぞ。まるで、墓場の底の泥をかき混ぜたような……」


住民の一人が怯えた声を上げ、毛布を子供の頭からすっぽりとかぶせた。その切実な恐怖の気配を肌で感じ取りながら、ヘレナはグッと唇を噛み締めた。自分が引き起こした暴走の余波が、あるいはこの世界で初めて自分の足で向き合おうとした人々のささやかな日常を再び脅かしているという現実が、彼女の胸の内に言い知れぬ熱い悔しさと、それを絶対に押し戻すという強い反発力を同時に生み出していた。


「ねえ、或。私にできることはないの? じっと立って見ているだけなんて、もう嫌よ」


ヘレナは自らの意志で一歩前へ踏み出し、その血のように赤い双眸を或へと真っ直ぐに向けた。その声音には、先ほどまでの怯えや甘えは微塵も感じられず、一人の共犯者としての切実な覚悟が宿っていた。


或はわずかにその煤色の目を細め、目の前に立つ少女の横顔を一瞥した。彼女の純白のゴシック風コートはもはやスラムの泥と木屑ですっかり汚れ果てており、かつての高慢な面影は消えて失せているが、その代わりに纏う空気は以前よりも遥かに強靭で、生身の人間らしい手触りを持っていた。


「……いいだろう。お前のその『死の抱擁』の魔力回路、少しだけ別の使い道にハッキングし直すぞ。この瘴気の源流は地底の保守回線のさらに奥、古い配水暗渠の分水点にある。俺の手製の呪符だけでは、相生の理が飽和して焼き切れる。お前のその冷気で、一時的に導線の温度を零下に固定しろ」


或の指示を聞いたヘレナは、迷うことなく力強く頷いた。

「任せて。私の魔力、今度は誰かを守るために使ってみせるわ」


二人の間に交わされた短い言葉の往復には、もはや身分の違いや互いに対する不信感などは一切存在しなかった。あるのは、理不尽な神話の暴力と泥臭い現実の狭間で、自らの手で明日を選択し生き抜こうとする者同士の、極限の信頼に基づいた束の間の協調だけだった。


或は右手首の厚いサラシの上から呪印を強く押し付け、全身の骨格が悲鳴を上げる激痛を意志の力でねじ伏せながら、集会所の敷居をまたいで外の泥濘へと飛び出した。その背中を追うように、ヘレナもまた両掌に蒼白の冷気の光を纏わせ、烏丸小路スラム街の凍てつく夜気の中へと駆け出していく。


頭上でうねる黄泉比良坂の紫黒い裂け目は相変わらず冷たい光を放ち続けているが、その足元を這う泥の中では、生身の人間たちの手によって織り上げられた反逆の網目が、微かな音を立てながら次なる修羅場へと向けて静かに張りめぐらされていった。


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