↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生者たちがチートに酔いしれる世界で、俺だけは生身の知恵と和洋折衷呪術でラグナロクを阻止する  作者: あやと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/43

第40話 少女の自立と、烏丸小路の足音

皇神学園の中枢が沈黙し、表通りの復旧作業に役人たちが浮かれている頃、ヘレナ・フォン・エッダはその仮設談話室の窓辺に立ち尽くしていた。冷え切ったガラスの向こう側では、かつて彼女が「神民」として踏みつけてきた世界とは別の、むき出しの現実が動いている。純白のゴシック風コートの裾を固く握り締める指先は血の気が失けたように白く、左耳のプラチナのピアスを無意識に強くいじる癖が、彼女の内に渦巻く激しい動揺を物語っていた。頭蓋の奥で澱むように響いていた死の女神ヘラの冷酷な囁きは、賀茂の或がシステムの中枢を粉砕したことでかろうじて遠ざかっていたが、それでも肉体の底には不気味な寒気が居座り続けている。


(……いつまで、こうして誰かに守られているつもりなのよ)


ヘレナは心の中で自らを激しく叱責した。転生者特権階級の誇りなど、あの地下での絶望的な崩壊のなかでとうに泥にまみれて剥ぎ取られたはずだ。或の泥臭い生き様に直面し、己の無力さと恐怖から目を逸らし続けてきた現実を突きつけられてからというもの、彼女の胸の内でくすぶり続けていたのは、他でもない「自立」への強い焦燥であった。いつでも周囲の目を気にし、神話の寵愛という空虚な幻影にしがみついてきた壊れた人形のままでは、やがて本当に自分の魂までヘラという怪物に上書きされてしまう。


ヘレナは音を立てないように談話室の扉を開け、或の庇護を離れるための第一歩を踏み出した。

学園の敷地内から外縁へと通じる石畳の通路は、前夜までの激しい戦闘の痕跡がまだ生々しく残っていた。自動警戒ドローンの残骸が転がる中庭を抜け、ヘレナは校門のアーチをくぐり、あえて或には告げぬまま皇神学園の敷地をあとにした。目的地は、帝都第七特区の南部――あの賀茂の或が生まれ育ち、泥の中で息を潜めて生きる『烏丸小路スラム街』であった。


足を進めるにつれて、街の景観は目に見えて変質していく。四条大路周辺のきらびやかな高層ビル群や転生者向けの高級サロンからわずか数ブロック離れるだけで、大気の密度そのものが重く、湿ったものに変わった。舗装された道路は消え失せ、代わりに足元を覆うのは、絶えず下水と異界の泥炭の悪臭が立ち込めるドロドロとした泥濘の路地である。頭上には、表通りの華やかさを完全に遮断するかのように、古いトタン屋根のバラックが迷路のように入り組んでひしめき合っていた。


フードを深く被り、純白のコートの裾を汚さないように引き上げながら歩くヘレナの姿は、この底辺の領域においてあまりにも異質であった。すれ違う現地人や亜人の労働者たちは、彼女の纏うわずかな神民の気配や上質な布地の気配を鋭く嗅ぎ取り、路地の陰から鋭い敵意と警戒の視線を投げつけてくる。


「……何よ、ジロジロ見ないでよ……」


ヘレナは恐怖を押し隠すように声を震わせ、早足で路地の奥へと進んだ。しかし、彼女の目的は観光などではない。これまで神民として温室の中で守られ、汗を流す労働の価値すら知らずに生きてきた自分が、この泥まみれの現実の中でどこまで通用するのかを試すことだった。或が血を流し、ボロボロの呪符を手に這いつくばって守ろうとした世界が、一体どのような場所にあるのかを、自分の目で確かめなければならなかった。


烏丸小路スラム街の最も奥まった場所にある「泥濘の広場」と呼ばれる空間にたどり着くと、そこでは数人のスラムの住人たちが、古い配給所の跡地でわずかな保存食を煮炊きするための炊き出しの準備に追われていた。煮えたぎる大鍋から立ち上る塩辛い汁の匂いと泥の悪臭が混ざり合い、ヘレナは反射的に眉をひそめたが、すぐにその表情を引き締めて彼らの前へと歩み出た。


「あの……、その、手伝いをさせてほしいんだけど……」


ヘレナが上ずった声を絞り出すと、作業をしていた中年男がギョッとしたように手を止め、泥まみれの顔を上げた。周囲にいた他の住人たちも一斉に動きを止め、冷ややかで険しい視線をヘレナの全身へと集中させる。


「手伝いだと? ……冗談じゃねえよ。お前みたいな神民の身なりをしたお嬢様が、こんなドブ溜めのスラムで何の真似だ。どうせ、気まぐれで遊びに来たか、俺たちの粗末な暮らしを値踏みに来たんだろうが」


男の低く威圧的な声に、ヘレナの心臓が激しく跳ね上がった。左耳のプラチナのピアスを爪先で強く引っかきながら、ヘレナは必死に声を張り上げた。


「遊びなんかじゃないわ! ボクは……私は、あなたたちと同じように、自分の足で何かをやり遂げたいのよ。だから、その薪割りでも何でもいいわ、使ってよ!」


「口だけなら誰だって綺麗事を並べられる。だがね、お嬢ちゃん。ここは神様の加護もシステムも届かない、泥をすする奴らの縄張りだ。綺麗なおべべを汚したくなけりゃ、さっさと自分の温かいベッドにでも戻るこったな」


冷たく言い放たれ、追い払おうと男が手を振ったその時、ヘレナの中で何かがプツリと切れた。これまでプライドと恐怖の間にしがみついてきた少女の仮面が、この泥臭い拒絶の前に音を立てて砕け散る。ヘレナはフードを勢いよくかなぐり捨て、プラチナブロンドの長髪を冷たい風に晒したまま、積まれていた重い生木の薪の束の前に歩み寄った。


「……見てなさいよ!」


ヘレナは自らの華奢な両腕で無骨な斧を持ち上げ、その細い身体からは想像もつかないほどの気概を込めて、目の前の丸太へと振り下ろした。

ガツン、と鈍い衝撃が彼女の掌と両腕の骨を激しく打ち据え、激痛が走る。だが、丸太は一度で割れず、斧の刃が中途半端に食い込んだだけで跳ね返されそうになった。それでもヘレナは歯を食いしばり、スラムの泥水が跳ねて純白のゴシック風コートの裾を黒く染めるのも構わず、二度、三度と必死に斧を叩き込み続けた。


額から汗が流れ落ち、呼吸が乱れ、上質な布地はたちまちスラムの泥と木屑まみれになっていく。かつての一切の汚れを知らなかった「神民ヘレナ」の姿はそこにはもうなく、ただ泥にまみれながら必死に目の前の現実と格闘する一人の少女の姿があった。


その無謀なまでの泥臭い必死さが伝わったのか、周囲で冷ややかに見守っていた住人たちの間に、わずかなどよめきと戸惑いの空気が広がった。最初の一本を見事に割り終えたヘレナが荒い息を整えながら額の汗をぬぐうと、先ほど拒絶した中年男も気まずそうに鼻を掻き、渋々といった様子で頷いた。


「……ふっ、大した根性だ。まあ、薪割りの腕前は素人丸出しだが……その泥まみれのコートを見る限り、冷やかしってわけでもなさそうだな。おい、そこの桶に水を汲んできな。少しは手伝わせてやるよ」


その言葉を聞いた瞬間、ヘレナの胸の奥で、言い知れぬ熱いものがこみ上げてきた。それはこれまでのシステムによる過剰な称賛や、神民としての空虚な特権とは全く異なる、生身の人間として初めて社会のなかに居場所を見出したような、確かな手触りのある達成感だった。


しかし、その束の間の穏やかな空気は、長くは続かなかった。


労働の疲労からヘレナの精神的緊張がわずかに緩み、気を抜いたその瞬間、彼女の肉体の深部に巣食う死の女神ヘラの神話的残滓が、微かな黒い霜となって足元からじっと這い出し始めた。冷え切った大気の中に、周囲の温度を急速に奪う絶対零度の微かなパルスが漏れ出す。


「……っ!?」


ヘレナはハッとして自分の足元を見下ろしたが、時すでに遅かった。スラムの湿った泥と古い木片が、ヘラの発する神気に反応してバリバリと白く凍りつき始める。その異質な冷気の匂いは、烏丸小路スラム街の暗がりに潜む者たちの感覚を敏感に刺激するには十分すぎた。


「なんだ、今の冷気は……?」

「おい、あいつの足元を見ろ……! あの黒い霜、どこかで見たぞ……!」


周囲で作業をしていた住人たちが一斉に顔色を変え、後じさった。スラムの狭い裏路地のあちこちから、異界の瘴気や転生者たちの捨て去った魔力の残滓に引き寄せられた不穏な影が、まるで獲物を狙う獣のように這い出してくる。頭上のトタン屋根の隙間から、紫黒い微光を湛えた異形の虫や、ヘラの眷属に似た冷気の気配をまとった小さな影たちが、音もなく壁面を伝い降りてきた。


足元を這う黒い霜の広がりを止めるべく、ヘレナは自らの両手で地面を強く押さえつけようとしたが、湧き上がる寒気はすでに彼女の意志の統御を離れつつあった。極限の緊張から解放された反動か、脳裏の奥底で死の女神ヘラの気配が微かに蠢き、少女の稚拙な精神の防壁を内側から食い破ろうと疼き始めている。


「……っ、やめてよ……! 今さら出てこないで、ボクはただ……!」


 絞り出すような少女の悲鳴は、周囲に立ち込める冷気にかき消されて虚しく路地裏の壁面に吸い込まれていった。直前まで薪割りの手伝いを認め、泥まみれの労働を共有していたスラムの住人たちは、足元から這い寄る不気味な氷の結晶を目撃するや否や、一斉に恐怖の表情を浮かべて後じさった。彼らが暮らす烏丸小路の路地裏は、かつて転生者たちが捨て去った魔力残滓や、黄泉比良坂の裂け目から漏れ出した禍々しい澱みが溜まる危険な魔の巣窟でもある。そこに神民特有の、しかも死の女神に直結する神気が露出したとなれば、彼らが抱く警戒心は瞬時に敵意とパニックへと変貌した。


「おい、離れろ……! あの女、ただの人間じゃねえぞ!」

「神民のクズが、また俺たちのシマに厄介事を持ち込みに来やがったんだ!」


 怒号と罵声が、凍てつく空気の中で次々と飛び交った。住人たちの手には、自衛のために隠し持っていた古い木製のバールや、錆びついた鉄の棒が握られている。彼らの瞳に宿るのは、理不尽な特権階級に対する長年の恨みと、目の前で暴走しかけている異形の力へのむき出しの恐怖であった。


 ヘレナは床に膝をついたまま、震える両手で自らの頭を抱え込んだ。


「ちがう……っ! ボクは、ただ……!」


弁解しようとした言葉は、急速に冷え込む大気の中で白く凍りつき、音にならない息となって消えていった。ヘレナの足元から奔流のように溢れ出した黒い霜は、瞬く間に周囲の泥濘を幾重もの鋭い氷柱へと変貌させ、路地裏の狭い空間を絶対零度のドームのように閉ざしていく。頭蓋の奥で狂おしく脈打つヘラの神気は、少女が抱いた怯えと絶望を格好の餌食として貪り、その精神の境界線を次々と踏み破っていた。


「近寄るな! それ以上変な真似してみろ、容赦なくこの棒で叩き潰してやるからな!」


 先ほどまで薪割りを手伝わせた中年男が、恐怖に顔を引きつらせながら錆びついた鉄棒を大きく振り上げた。彼の背後では、他の住民たちも追いつめられた獣のような険しい眼差しを向け、一斉に身構えている。彼らにとって、転生者管理機構の紋章を背負っていなくとも、神話の化け物のような冷気を纏う少女の存在は、自分たちのささやかな日常を根底から踏みにじる暴力そのものにほかならなかった。


 ヘレナはその鋭い敵意の視線をまともに浴び、息ができないほどの激しい眩暈に襲われた。

 温室の中で「神民」として崇められ、甘い言葉と虚飾の賞賛だけに包まれていた頃であれば、このような状況に陥った瞬間、周囲の人間を「下等な虫けら」と罵って能力で威圧し、その場から逃げ出していたはずだ。しかし、或の泥臭い生き様を目の当たりにし、己のこれまでの傲慢さと無力さを痛いほど思い知らされた今の彼女には、そんな安易な逃避の選択肢はもはや残されていなかった。


(――違う。ボクは、もう逃げない……! あんな風に、ただ怯えて震えているだけの壊れた人形には、絶対に戻らないんだから……っ!)


 ヘレナは両手で自分の頭を激しく押さえつけながら、足元から這い上がる黒い霜を必死の意志で睨みつけた。彼女のプラチナブロンドの長髪が凍てつく風に逆立ち、血のように赤い双眸には、恐怖の裏返しではない、むき出しの生存本能と反逆の熱が宿り始める。


 彼女の内に巣食う死の女神の魔力は、少女の精神が折れるのを待ち構えるようにしてさらに重くのしかかり、周囲の空気をミシミシと鳴らして圧迫した。しかし、ヘレナは歯を食いしばり、下唇から血が滲むのも構わずにその冷気の奔流を自分の肉体と精神の奥底へと押し戻そうと踏みとどまる。


 その必死の抵抗は、周囲の住人たちにはさらなる脅威の表れとして映った。

「おい、見ろ……! あの女、ますます気味が悪くなってるぞ……っ!」

「気まぐれのお遊びなんざじゃなかったんだ、やっぱり俺たちを――」


 住民の一人が恐怖に駆られて手に持っていた木製のバールを振り上げ、ヘレナの背後へと踏み込もうとしたその刹那。

 ピシイ、と鋭い音が響き渡り、ヘレナの足元の氷塊から無数の白い亀裂が放射状に走り抜けた。


 ――次の瞬間、路地裏の空気が一変した。


 ヘレナの背後にそびえていた古いトタン屋根のバラックの壁面が、異界の瘴気を纏った凍てつく風によって激しく軋み、音を立てて内側へと歪んだ。そこから這い出そうとしていた冷気の眷属――小さな異形の影たちが、ヘレナが放った制御しきれない絶対零度のパルスに引き寄せられるように、一斉に牙を剥いて飛び出してきたのだ。


「きゃっ……!?」


 不意を突かれたヘレナはバランスを崩し、凍りついた泥濘の地面へと両手をついた。その目の前で、鋭い爪を持った影の一つが、威嚇する住人たちめがけて音速に近いスピードで跳ね起きた。


 住人たちは悲鳴を上げる間もなくその場に凍りつき、恐怖のあまり足がすくんで動けなくなった。

 だが、ヘレナはその光景を見て、自分がこれまでの逃避の代償として引き起こしてしまった惨状の重みを痛感した。彼女を拒絶し、恐れているだけの目の前の人々を、自分の暴走によって傷つけるわけにはいかない。


 ヘレナは左耳のプラチナのピアスをちぎれんばかりに強く掴み、頭蓋を割り裂くような激痛を気合でねじ伏せながら、上半身を無理やり起こした。


「……こないで……っ! あなたたちの邪魔をするつもりなんて、最初からなかったのよ……!」


 少女の細い喉から絞り出された叫び声と同時に、彼女の全身から漏れ出していた黒い霜が一瞬だけ不気味な蒼白の光を帯びて広がり、飛びかかろうとした異形の影たちの足元を丸ごと氷結させた。眷属たちは甲高い悲鳴を上げながら硬質な氷の彫像と化し、バラバラに砕け散っていく。


 しかし、その代償として、ヘレナの肉体は限界を超えた魔力の反動に耐えきれず、激しい痙攣を起こした。彼女の純白のゴシック風コートは泥と冷気の結晶にまみれ、美しいプラチナの髪は冷たい汗に濡れて肌に張り付いている。視界が急速に白く霞み、意識の重心が足元から崩れ落ちようとした。


 周囲の住人たちは、自分たちを襲おうとした異形の影が一瞬で粉砕され、そしてその中心で泥まみれになりながら意識を失いかけている少女の姿を目の当たりにし、どよめきと沈黙の入り交じった複雑な表情でその場に立ち尽くしていた。誰一人として、先ほどのような敵意に満ちた怒声を浴びせる者はいない。ただ、彼らの足元には、少女が命がけで抑え込んだ絶対零度の残響が、冷たい白煙となって静かに漂っているだけであった。


 烏丸小路スラム街の路地裏を吹き抜ける風は、相変わらず生乾きの泥と異界の澱んだ匂いを運んできている。しかし、その冷え切った空気の中で、ヘレナ・フォン・エッダという一人の少女が踏み出した足跡は、誰の庇護も借りず、ただ自らの意志でこの泥濘の大地に刻まれた最初の一歩であった。意識が完全に闇の底へと沈みゆくその寸前、ヘレナは遠くの路地の向こうから微かに響いてくる、確かな現実の生活音――下水の暗渠を流れる冷たい水音と、遠くのバラックから漏れる人々の息づかいを聞きながら、そっとその瞳を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。