第39話 残響の皇神学園と、消えない霊的ノイズ
帝都第七特区の朝は、いつものように澱んだ鉛色の光を路地裏の隅々まで行き渡らせて始まった。皇神学園の構内を覆っていた高密度な位相結界はすでに沈黙し、上空に張り巡らされていた神代回廊のモニュメントも中枢からの魔力供給を断たれてただの鉄と石の塊と化している。一見すれば、長年にわたり特権階級と下級民を分断し続けてきた理不尽なシステムが崩壊し、学園には穏やかな日常が戻ってきたかのように見えた。
だが、それは表層的な仮面にすぎなかった。
賀茂の或は、烏丸小路スラム街へと続く境界線に近い旧校舎の裏手で足を止め、アスファルトの亀裂から微かに立ち上る冷気をじっと見つめていた。
全身の骨格は昨夜の死闘とハッキングの反動で悲鳴を上げている。右手首の厚いサラシの下に刻まれた青黒い呪印は、生身の肉体に北欧原初ルーンと東洋の五行の理を強制接続した代償として、未だに微熱を帯びた針で神経の深部を突き刺すような鈍痛を放ち続けていた。肋骨の古傷は呼吸のたびに軋み、喉の奥には鉄錆のような血の味がこびりついている。
それでも、或の煤色の瞳が一瞬たりとも揺らぐことはなかった。
或が懐から取り出した素焼きの霊視木簡は、持ち主の体温とは異なる不規則な高周波の微震を伝えていた。表面に朱墨で書き殴られた五行相生の回路は、学園の地下深くへと伸びる保守配線の網目に沿って、奇妙な熱を帯びて赤く変色している。
「……表向きのシステムが沈黙したからといって、深層の脈動が止まったわけではないか」
或は低く呟き、痛む右腕の古傷をかばいながら、木簡の表面を指先でなぞった。
学園の表通りでは、陰陽寮・特異災害対策局の役人や、神格化同盟の崩壊に乗じて権益を再分配しようとする官僚たちが、慌ただしく仮設の復旧本部を立ち上げていた。彼らは天界の審判装置のコア端末が粉砕された事実を「一時的なシステム障害」または「一部の特異点による局所的テロ事件」として処理し、上層部への手前もあり、平穏が戻ったという都合の良い見解を声を大にして触回っている。役人たちは壊れた魔導インフラの修復作業に追われながら、表層のデータが同期されたことだけで満足し、足元で蠢く根源的な異変には全く気づいていなかった。
しかし、或の感覚は欺けない。
学園の旧校舎地下、かつて神代回廊の実験炉が置かれていた最深部の地層からは、通常の魔力波とは異なる不吉な霊的ノイズが絶えず這い上がってきている。それは大和皇国の首都・帝都第七特区の中枢に開いた裂け目『黄泉比良坂』の底から漏れ出す、常世の荒野特有の死臭を帯びた凍てつく波動であった。ヴォルフガング・リッターの肉体が崩壊し、魔導ガントレットの同期回路が焼き切れた際、行き場を失った膨大な神話の残滓が地下霊脈の澱みに溜まり、新たな増殖を始めている。
カサリ、と冷たいアスファルトを踏む音が背後で響いた。
振り返らなくとも、その気配の正体が誰であるかは分かった。一対の銀色の神楽鈴を指先で微かに鳴らしながら、風祭鈴音は冷ややかな黒曜石の双眸を或の背中に向けた。彼女の制服の袖口には、学園の裏ネットワークから回収した監査ログのバックアップが入った魔導データ端末がしっかりと仕込まれている。
「或、復旧本部の役人たちはすっかり安心しきっているよ。『特区の安全基準は正常値に戻った』と、上の連中に向けた虚偽の報告書を嬉々として書き上げている。……愚かなものだね。彼らは自分たちが立っている地面が、いつ液状化してもおかしくない呪詛の沼の上だということに、最後まで気づかないらしい」
鈴音の声には、呆れと冷徹な確信が入り交じっていた。彼女は或の隣に並び、地下の霊脈から伝わる微震を感じ取ったのか、神楽鈴の柄をわずかに強く握り締めた。
「役人どもに現実の危機を説いて回る暇などない。連中にとって大切なのは自分たちの役職とシステムから割り当てられる配給利権だけだ。……だが、あの地下の熱量を見ろ。このまま放置すれば、烏丸小路の路地裏まで黄泉比良坂の瘴気が逆流し、スラムの住民たちが最初にその泥を被ることになる」
或は懐から麻の布袋を取り出し、中身を確認した。そこには、昨夜の激闘で使い果たした符の代わりに、自らの血と朱墨を使って新たに書き下ろした数枚の『逆相ルーン呪符』が収められている。北欧のエルダー・ルーンにおける「ハガラス(破壊)」の刻印と、東洋の五行における「水気封印」の理を幾重にも重ね合わせた手製の呪符は、薄い和紙の上で微かな青白い光を帯びて脈動していた。
「……また、そのボロボロの肉体で泥を被るつもりかい、賀茂の或」
鈴音は冷ややかに問うたが、その声の響きには或の行動を止めるだけの意味がないことを理解している者の諦めと、奇妙なまでの信頼が混じっていた。
「泥を被らなければ、ここで息をしていることすら許されない環境で育ったんでね。……行くぞ、鈴音。学園の役人たちが表向きの復旧式典に浮かれている間に、旧校舎の地下保守回線へ潜り込む。あの霊脈の熱量を抑え込まなければ、次に裂け目が開いたときには、この学園だけでなく帝都全体が呑み込まれる」
或は痛む右足を力強く踏み出し、復旧作業に沸く中庭の喧騒を避けるようにして、旧校舎の裏手に続く冷たい石畳の通路へと足を進めた。
学園の表通りでは、神格化同盟の残党や特異災害対策局のエージェントたちが、スピーカーから流れる弛緩した復旧アナウンスに合わせて、形骸化したバリケードの撤去作業に追われていた。彼らは誰も、自分たちの頭上や足元で蠢く本当の危機に目を向けていない。システムという甘ったれた幻想にしがみつき、努力や血を流す現実から目を背け続けた者たちの末路が、この無知な楽観に満ちた滑稽な風景を作り出していた。
だが、或の足音は軽薄な祝祭の音とは一切共鳴しない。
彼の靴底が叩くアスファルトの感触は、地底の霊脈から這い上がる不吉な微震をダイレクトに捉え、或の神経の深部へと危険信号を送り続けていた。
或は旧校舎の地下暗渠へ続く重い鉄扉の前に到達すると、懐から取り出した木製のマスターキーの模造品を鍵穴に差し込んだ。カチリ、と精巧に噛み合う音が響き、何重もの魔導ロックが解除される。扉の向こう側からは、先ほどよりもさらに濃密になった黄泉比良坂の死臭と、北欧の凍てつく霊的ノイズが濁流のように押し寄せてきた。
鉄扉の向こうに広がる暗がりは、或たちが昨夜に血を流して駆け抜けた中枢エリアへと繋がる保守回線の足場である。その冷え切ったコンクリートの通路に一歩踏み出した瞬間、或の右手首のサラシの下で、再び青黒い呪印がピリリと熱を帯びた。
「或、待ちなさい」
鈴音が背後から声をかけ、一対の銀色の神楽鈴を指先で小さく鳴らした。その澄んだ音色は、地下水脈から這い上がる澱んだ霊的ノイズを一時的に弾き返し、通路の空気をわずかに引き締める。鈴音の黒曜石のような双眸は、或の足元をじっと見つめていた。
「地下へ降りる前に、今の霊視木簡のデータをもう一度確認しておいた方がいい。……この微震の波長、昨夜のそれとは性質が違う。システムが自己修復を図っているというよりは、むしろ……別の何かを地下の奥底から引きずり出そうとしているような、そんな嫌な周期刻みをしているよ」
「……あいつの言う通りだ」
或は立ち止まり、手にしていた素焼きの霊視木簡を床の石畳へと軽く叩きつけた。カチリ、と硬質な音が響き、木簡の表面に刻まれた朱墨の五行回路が青白い光を明滅させる。次の瞬間、木簡の中央に走る亀裂がミシミシと音を立てて広がり、微弱な熱気とともに黒い灰の粉がポタリと床にこぼれ落ちた。
「木簡の反応がこれほど早く熱暴走を起こすということは、地下霊脈の圧力がすでに通常の管理限界を超えている証拠だ。役人どもが表向きの復旧作業に浮かれている間に、地底の回路は着実に別の牙を研いでやがる」
或は屈み込み、灰の混じった床を指先で軽く触れた。指先に伝わってきたのは、凍てつくような常世の冷気と、胃の腑を逆なでするような不気味な熱量の混ざり合った不快な感触だった。システムという形骸化した表層が剥ぎ取られたことで、この帝都第七特区の足元に眠る本来の異界の地層――神話の古びた歯車が、むき出しのまま軋み始めている。
「……面倒なことになったね。私たちが学内のネットワークを沈黙させ、監査ログを帝都全域に同期させたことで、管理機構の連中は組織の維持に必死だ。けれど、その足元でこんな地殻変動が起きていたら、彼らの作った復旧計画なんて一瞬で砂上の楼閣に変わってしまうよ」
鈴音は神楽鈴の柄を優しくなでながら、冷ややかな笑みをその唇に浮かべた。その声音には恐怖の色はなく、むしろこの不条理な状況を冷徹に分析する隠密としての興奮すら滲んでいる。
だが、或の脳裏にあったのは、そんな皮肉ではなく、烏丸小路スラム街で泥水をすすりながら生きる同胞たちの姿であった。学園の表通りでどれほど復旧式典の美辞麗句が叫ばれようとも、地下の霊脈が逆流すれば、最初にその毒牙に晒されるのは下水と悪臭に満ちた最底辺の路地裏にほかならない。両親を黄泉比良坂の魔獣に奪われたあの夜の光景が、或の脳裏の片隅で鋭く疼いた。
「……のんびり構えている暇はないな。鈴音、お前は学内のネットワーク監視を続けながら、地下保守回線の主要な分岐点に微小な反転結界のアンカーを打ち直してくれ。俺はもう少し下層の実験炉跡地へ潜り込み、あの霊的ノイズの発生源を直接叩く」
「単身で最深部まで降りるつもりかい? あなたのその右手首の呪印が、昨夜の無茶でどれほどすり減っているか、自分が一番よく分かっているはずだろ」
「分かっているからこそ、他の奴に行かせるわけにはいかないんだよ。あそこの熱量を放置すれば、今日の中には烏丸小路の排水口から黒い澱みが逆流し始める。そうなったら、俺たちが命がけで守り抜いた現実の足場が、再びあの不条理な神話の泥に呑み込まれる」
或は冷徹に言い放つと、懐から取り出した真新しい和紙の束を指先で確かめた。自らの血と朱墨を使って書き下ろした数枚の『逆相ルーン呪符』は、薄暗い地下通路の中でも鮮烈な呪力を放ち続けている。近代的な魔導インフラの残骸や、転生者たちの甘ったれたシステムに頼ることなく、自らの肉体と泥臭い手管だけで再び死線をくぐり抜けるための準備は整っていた。
鈴音はそれ以上引き止める言葉を探すのをやめ、小さく息を吐くと、一対の神楽鈴を懐にしまい込んだ。
「……分かったよ。ただし、無茶をしてその腕を完全に腐らせたら、私の神楽鈴の伴奏者がいなくなって退屈で仕方なくなる。せいぜい、泥臭く這いつくばってでも生還することだね、賀茂の或」
「……ああ、言われなくてもそのつもりだ」
或は冷たくうなずき、地下保守回線のさらに奥、暗渠の底へと続く鉄の階段へと足を踏み出した。
鉄の階段を一段下りるごとに、背後で微かに響いていた学園の表通りの喧騒は完全に途絶え、代わりに重く湿った地下水脈のうねりが或の鼓膜を直接叩くようになった。コンクリートの壁面には、古びた配管の継ぎ目から漏れ出した錆色の水が幾筋もの泥の川となって伝い落ちている。
或は右腕の古傷から走る痛みを奥歯で噛み殺しながら、足元の足場を確認しつつ慎重に身を滑らせた。
地下保守回線の空間は、昨夜の戦いでシステムの中枢が破壊された余波を受けて、至る所に細かな亀裂が走っている。天井に張り巡らされた魔導ケーブルの束は機能を失って黒く焼け焦げ、ところどころで青白い静電気のスパークがパチパチと乾いた音を立てて空間を切り裂いていた。
「……配線の焼き切れ方が尋常じゃないな」
或は低く呟き、足元の水たまりに浮かぶ不気味な黒い泡を冷徹な眼差しで見据えた。
それは単なる機械的なショートによるものではない。天界の審判装置が内部から粉砕された際、或が叩き込んだ逆相ルーン呪符のハッキングコードと、システムが抱えていた膨大な魔力タンクが衝突し、帝都の地底霊脈そのものを一時的に麻痺させた名残であった。しかし、その麻痺の裏側では、或の危惧していた通り、より深層にある「神話の影」が新たな結合回路を構築しようと蠢いている。
或は懐から取り出した素焼きの霊視木簡を左手に持ち替え、指先をわずかにその表面に滑らせた。
木簡の内部に刻まれた五行相生の回路は、下層へ近づくにつれて激しい熱量を帯び、朱墨の文字がまるで生き物のように赤黒く脈打っている。その熱の方向が指し示しているのは、旧校舎の地下最深部――かつて神代回廊の実験炉が置かれ、さらにその底で黄泉比良坂の裂け目と直結していた「漆黒の縦穴」の周辺であった。
「鈴音の言う通り、これはシステムが再起動しようとしているのとは違う。……もっと性質の悪い、地底からの排泄物のようなものだ」
或は足を止め、暗渠の分岐点にあらかじめ持参していた血塗られた逆相ルーン呪符を一枚、壁面の配線盤の隙間へと手早く押し込んだ。符の表面に刻まれた北欧のエルダー・ルーン文字が青白い光を放ち、地下水脈から這い上がろうとする微弱な霊的ノイズの奔流をその場でピタリと相殺して封じ込める。仮設のアンカーを一つ増やすたびに、或の右腕の呪印からジリジリとした神経を焼くような痛みが走ったが、或はそれを精神の錨として利用し、少しも表情を緩めなかった。
ふと、頭上の配管の向こう側から、重く低い地鳴りのような音が響いた。
それは音波というよりも、地殻そのものがわずかにねじれる時に生じる物理的な振動であり、或の足の裏を通じて全身の骨格に直接伝わってくる。
「……来るか」
或は身を低くし、右手首のサラシをもう一度きつく巻き直すと、地下暗渠のさらに深い闇の底へと続く保守回線の足場へ、ふたたび静かに足を踏み出した。
冷たい湿気と鉄錆の匂いが混じり合う暗がりの中、或の小さな足音だけが、帝都の地底の深部へと確実に刻み込まれていく。上空の表通りでどれほど復旧の祝祭が叫ばれようとも、この泥にまみれた地下の回路を塞がない限り、或の戦いが終わることはない。
或は煤色の瞳に冷徹な光を湛えたまま、影の中へとその姿を完全に溶け込ませていった。




