↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生者たちがチートに酔いしれる世界で、俺だけは生身の知恵と和洋折衷呪術でラグナロクを阻止する  作者: あやと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/40

第36話 神話回路の逆流

中枢エリアの闇が、一層深く、濃く、或たちを包み込んでいく。或の右手首の呪印が、今一度だけ、まるで未来を予見するように激しく脈動した。その鼓動は、遠くから聞こえてくる反逆の鐘の音色よりも重く、冷たく、この戦場に響き渡っていた。


黒曜石のタイルの継ぎ目が、底知れぬ地鳴りとともにパチパチと乾いた音を立てて裂けていく。天界の審判装置のコア端末から迸る紫黒い瘴気は、もはや単なるエラーの明滅ではなく、幾重ものルーン文字を伴う実体を持った泥の渦となり、床面の亀裂から這い出そうとしていた。その圧倒的な神話の圧迫感のただ中で、ヴォルフガング・リッターの巨体がゆっくりと起き上がった。その肩口には自らのガントレットで抉られた深い傷が口を開けているが、彼の黄色い双眸は痛覚を忘れたかのように爛々と輝き、狂気の熱を帯びて或を見据えている。


「ガハハハッ……! いいぞ、いいざまだ、雑種! この神代回廊の実験炉が目を覚まし、世界樹の根が直接俺たちの肉体を求めている……! 小賢しい逆相の網目ごと、すべてを喰らい尽くしてやるよォッ!!」


ヴォルフガングは砕け散らなかった左腕の魔導ガントレットを激しく打ち鳴らし、空間の魔素を根こそぎ奪い取るような捨て身の闘気を限界を超えて引き絞った。残されたガントレットの爪が異常な高周波のうなりを上げ、周囲の空間そのものを内側からねじ曲げる。それは小手先の罠や計算では相殺しきれない、フェンリルの牙の出力を全開放した文字通りの破滅的な突撃であった。


賀茂の或は押し寄せる重力の奔流に耐えながら、煤色の瞳でその猛進のベクトルを冷静に捉えていた。正面から受け止めれば、自動回復を持たない生身の肉体など一瞬で塵へと変貌する。しかし、或の脳裏にはすでに、この極限の崩壊状態を利用するための緻密な数式が組み立てられていた。


「……出力全開放か。自分の肉体が自壊する速度すら計算に入れない、まさに狂犬らしい最後の悪足掻きだな」


或は低く呟くと、右手首にきつく巻き付けていたサラシの結び目を歯で引き千切り、かつての呪符の逆流事故で爛れたその肌を容赦なく露出させた。古傷の呪印から、ドス黒く濁った鮮血がポタリ、ポタリと足元の黒曜石の床へと滴り落ちる。或は自らの指先をその血に浸し、床面に刻まれた金色の魔導回路の結び目めがけて、容赦なく新たな文字を叩き込むように走り書きしてい療。


背後では、一対の銀色の神楽鈴を握り締めた風祭鈴音が、冷ややかな黒曜石の双眸に鋭い緊張の色を宿しながら或の背中へと声を飛ばした。


「或、敵の加速ベクトルは想定を越えている。あの出力をまともに受けたら、あなたのその右手首の回路ごと肉体が吹き飛ぶよ!」


「分かっている。……だからこそ、ここで受けて流す」


或は振り返ることなく、血にまみれた指先で最後の一画を力強く引き締めた。

東洋の五行相生相克における『水生木』の理――枯れ果てた大地に生命の水を巡らせ、圧倒的な圧力を別の動線へと逃がす循環の理を、北欧のエルダー・ルーンが持つ『イス(氷)』と『ハガラス』の破壊・収束の刻印へと直結させる。それは単なる反発の陣形ではなく、敵の放つ莫大な魔力そのものを自らの血を触媒として強制的に飲み込み、大地へと分散させるための禁忌の儀礼であった。


「――多重吸収結界、展開」


或の低い号令と同時に、床面に描かれた血塗られた逆相ルーン呪符が、一斉に青白い冷光を放って広がり始めた。

その中心に陣取った或の足元から、無数の霊的な木の根を模した影が幾重もの網目となって床一面に張り巡らされる。


コンマ数秒の遅れもなく、ヴォルフガング・リッターの巨体が音速を超えた突撃の軌道に乗って或の頭上へと直撃した。

轟音。空間そのものがひしゃげるような凄まじい衝撃波が中枢エリアの天井を走り、素焼きの灯火皿が一斉に粉々へと砕け散る。ヴォルフガングの魔導ガントレットから放たれたフェンリルの牙の奔流は、或の直前で目に見えない巨大な衝撃の壁に激突した。


「ガァッ……!? なんだこれ……俺の牙の威力が、地面に吸い込まれていく……だと……!?」


ヴォルフガングの驚愕の怒号が響き渡る。

或が展開した多重吸収結界は、フェンリルの牙が放つ破滅的な衝撃を正面から弾き返すのではなく、或の右手首の呪印を通じてその全エネルギーを直接引き受け、床下の広大な地下配管と烏丸小路スラム街へと続く深層の霊脈の動線へと丸ごと流し込んでいたのだ。


或の肉体は、想像を絶する負荷に悲鳴を上げた。

右手首の呪印を通じてヴォルフガングの莫大な魔力回路が逆流し、或の神経の深部を内側から焼き焦がしていく。喉元から熱い鮮血が逆流し、或の口唇からポタリと赤い水たまりが床に零れ落ちた。しかし、或はその激痛を奥歯で舌の側面を噛み締めることだけで完全にねじ伏せ、煤色の瞳の光を少しも曇らせなかった。


「……吸い上げた魔力は、そのままお前のシステムへ返してやる」


或は血に染まった左手を鋭く突き出し、床面の多重吸収結界の循環回路を逆方向へと力強く蹴り上げた。

蓄積された膨大なエネルギーは、或の血流を触媒にして精製され、逆相の論理的ハッキングの奔流となってヴォルフガングの残存する魔導ガントレットへと一気に逆流していく。


「バカな……! 俺のシステムが……エラーコードを吐き出して……ぐあぁぁっ……!」


ヴォルフガングの巨体が、自らが放ったはずのフェンリルの牙の逆流を受け、激しいスパークを伴って大きく後方へと弾き飛ばされた。ガントレットの金属爪は完全にひしゃげ、内部の同期回路は焼き切れて黒煙を上げている。最強の狂犬はたまらず床にひざまずき、荒い息を吐き出しながらその巨体を震わせた。


しかし、その圧倒的な魔力の逆流とシステムの過負荷は、ヴォルフガングの肉体を沈黙させただけでは終わらなかった。

中枢エリアの床面を覆うコア端末の亀裂から、さらに濃密な紫黒い闇が噴き出し、空間全体の重力が狂い始めたように歪み出す。或が血を吐きながら展開した多重吸収結界の網目すらも、その深層から這い出そうとする未知の神話の圧迫感の前に、ピキピキと音を立てて細かい亀裂を生じさせていく。


風祭鈴音は一対の銀色の神楽鈴を握り締めたまま、その冷ややかな黒曜石の双眸で床の裂け目を見据え、かすかに声を震わせた。


風祭鈴音の声は、耳障りな電子音の乱立する中枢エリアにおいて、どこか浮世離れした冷徹さを孕んで響いた。


「或、見て。床の隙間から這い出ているあの闇……単なる実験炉のエネルギー漏洩じゃない。実験炉が、私たちの『反逆』そのものを吸収して、自分自身を書き換えようとしている!」


或は血を吐き出し、震える指先で黒曜石の床板に爪を立てた。右手首のサラシは完全に赤黒い血に染まり、そこから滲み出る逆相の霊気が床を焼いている。ヴォルフガングを退けた代償として、或の全身の骨格は悲鳴を上げていた。肋骨の古傷からは鈍い摩擦音が響き、内臓が圧迫されるたびに激痛が視界を白濁させる。


「……吸収だと? システムは、俺たちが叩き込んだハッキングコードを拒絶するのではなく、自身の構造の一部として取り込もうとしているのか」


或は自身の血が床の魔導回路を伝い、逆相ルーンの配列を崩しながら端末のコアへと逆流していく様を凝視した。それはかつて安倍晴明が危惧していた、異なる神話体系を衝突させた際に見られる「共食い」の現象に近かった。転生者たちが持て囃す「チート」という名の不純物が、この地の理である陰陽道と無理やり混ぜ合わされ、制御不能な混沌へと変容しようとしている。


ヴォルフガング・リッターはその光景を、笑いもせず、ただ呆然と見上げていた。彼の魔導ガントレットから火花を散らしていた闘気は、いまや物理的な実体を失い、中枢エリアの天井から降り注ぐ紫黒い霧と混ざり合いながら、彼の肉体そのものを内部から腐食させ始めていた。


「ガァ……あ……、俺の力……俺のフェンリルが……神代回廊に、還っていく……だと……? こんなはずじゃあ、ねぇ……! 俺は選ばれた英雄なんだよッ!」


ヴォルフガングの絶叫は、やがて異質な電子ノイズへと変質した。彼の右腕から伸びる魔導ガントレットの残骸が、天界の審判装置の配線と物理的に癒着し、男の肉体と機械が不可分な塊へと融合し始める。或はその光景に、自身の幼少期に見た「黄泉比良坂から溢れ出した魔獣に呑み込まれた両親の塵」の残像を重ねた。


「鈴音、ネイティブの生徒たちを連れて後退しろ。ここは数秒以内に、魔導インフラの逆流ポイントが飽和する」


或は立ち上がり、吐血で真っ赤に汚れた口元を袖で拭った。その煤色の瞳には、すでにヴォルフガングという個体への興味はなかった。或の視界には、ヴォルフガングの肉体を通じて天界の審判装置が展開しようとしている「次なる段階の神話」――その巨大な論理の欠陥だけが写っていた。


「……そんな無茶な。あなたのその状態を見てごらんよ。歩くことさえままならないのに、これからどうやってあの巨大なシステムを止めるつもりだい?」


鈴音は一対の神楽鈴を強く握り締め、或のそばを離れようとはしなかった。彼女の黒曜石のような双眸には、或の命を削る行為に対する冷徹な予見と、それでもなおこの泥臭い悪足掻きに賭けるという、鈴音なりの執念が灯っている。


「……システムを止めるんじゃない。あの化け物の食欲が飽和する前に、この中枢エリアの『論理的喉元』を血と呪符で塞ぐんだ。……俺の手元にあるこの逆相ルーン呪符の網目は、俺自身の肉体というハブを介してしか成立していない。俺がこの場を離れれば、この結界は瞬時に消し飛び、実験炉は帝都第七特区全域を巻き込んで大爆発を起こす」


或はヴォルフガングの足元へふらつきながら一歩近づいた。倒れ伏すヴォルフガングの背後で、天界の審判装置のコア端末が大きくうなりを上げ、重力場が変動する。天井からコンクリートの破片が降り注ぎ、或の肩を鋭く切り裂いた。


「……つまり、私にこの場に残れと言うのかい?」


「……お前には、学園の裏ネットワークにバックアップされている監査ログを、帝都全域の端末へと同期させる役割がある。今すぐこの場を離れ、スラムの隠れ家から送信を実行しろ。……それができなければ、俺たちが今日流した血はすべて無駄になる」


鈴音はしばしの沈黙の後、小さく鼻を鳴らした。それは拒絶ではなく、或という不器用な陰陽師の「生存に対する諦念」への、彼女なりの哀れみと決別の合図であった。


「……死なないでよ、賀茂の或。あなたがここで塵になったら、私の神楽鈴の音色は一生、調子外れのままになるからね」


鈴音は周囲を固めていたネイティブの生徒たちを振り返り、短い手信号を送った。生徒たちは或を助けたいという衝動を必死に抑え込み、鈴音の導きに従って、歪む中枢エリアの入り口へと走り去っていった。去り際、鈴音は一度だけ、或の血で汚れきった背中を振り返った。そこには、神話をハッキングせんとする一人の人間の、あまりにも小さな、しかし揺るぎない影が黒曜石の床に伸びていた。


或は独り、崩れゆく中枢エリアに取り残された。

ヴォルフガングはすでに人の形を保っていなかった。彼の肉体から生じた紫黒い触手が、天界の審判装置のメインバルブへと絡みつき、中から流れ出す膨大な魔力と混ざり合いながら、エリア全体の温度を急速に沸騰させている。


「……神話の黄泉還り(ラグナロク)か。……笑わせるな」


或は懐から、最後の一枚の「血塗られた逆相ルーン呪符」を取り出した。それは、自身の心臓に繋がる血管の配置と、天界の審判装置のメイン回線の周波数を完璧にリンクさせるための、或の生涯で最も精密に作り上げた「呪の鏡」であった。


或はヴォルフガングの異形の肉体越しに、その中心にあるメインバルブの心臓部を見据えた。

右手首の呪印が、今までにないほどの激痛を発し、或の視界をすべて青黒い色へと塗り替える。


「俺の血で、その不完全な神話の理を泥水で濯いでおいてやる」


或はヴォルフガングの異形の胸部へと、最後の一撃を叩き込むために右腕を突き出した。

中枢エリアの空間が、極限まで圧縮された魔力によって白銀の光に染まる。

或の煤色の瞳には、もはやヴォルフガングの苦悶も、天界の審判装置の警告音も聞こえてはいなかった。

ただ、自らの血脈が、この理不尽な世界の終わりを拒絶し、明日を選択するための小さな火種を灯そうとしていた。


その瞬間、メインバルブから噴出した紫黒い瘴気が、或の全身を呑み込んだ。

或の右手首の呪印が、最期の閃光を放ち、中枢エリアの全ての魔力が一つの点へと収束していく。


或は奥歯を砕くほどの力で噛み締め、その「点」を、ヴォルフガングの肉体を通して、メインバルブの深淵へと強引に押し込んだ。


……その後の静寂は、数秒とも、数百年とも思えるほど長く、深く、中枢エリアの残滓を支配した。

ただ、或の耳元で、神話の終末を告げるはずの反逆の鐘が、今度は全く異なる「新しい始まり」を予感させる不気味な低音となって、地響きのように帝都の地下深くまで伝わっていった。


中枢エリアの床の亀裂からは、なおも薄暗い光が漏れ続けている。しかし、ヴォルフガングを飲み込み、システムを内部から食い破っていた紫黒い霧は、或の最後の呪符によって、まるで冬の霧が朝日を受けて消え去るように、急速にその密度を失っていた。


或は崩れ落ちたまま、肩で激しい息を繰り返した。

全身の骨格は限界を迎え、肉体は熱い泥の中に沈み込んでいるかのような感覚に襲われている。意識が遠のき、視界がチカチカと明滅する中、或は視線をメインバルブへと向けた。そこには、ヴォルフガングが異形へと変貌した爪跡と、或の血で染め上げられた逆相ルーンの焼き跡が、まるで歴史の墓標のように残されていた。


システムは停止していない。いや、むしろ或が叩き込んだハッキングによって、システムは今、より深層の自己修復プログラムを起動させていた。


或は右手首のサラシを、血に塗れた指先で震えながら結び直した。この場所から立ち上がる力は、今の自分にはもう残されていない。しかし、己の魂を削り、泥水をすすりながら作り上げたこの「逆相の回路」は、今や帝都の地下霊脈全体に根を張り、システムが次なる神話の再構築を画策するたびに、激しい拒絶反応を誘発するウイルスとして機能し始めている。


「……ざまあねえな。神格化同盟のお偉いさんどもよ。お前たちが創り上げた完璧な秩序は、今日からこのスラムの血の匂いと、ルーンの呪詛とを等価に交換して生き続けることになる」


或は力なく、しかし確かな意志を込めて、そう呟いた。

中枢エリアのあちこちから、高位幹部たちが逃げ去った後の静寂と、自動防衛プログラムが機能を喪失した不気味な沈黙が漂っている。


或は立ち上がることはできなかったが、懐にまだ残っている木簡呪符の一枚を、床のひび割れへと押し込んだ。

それは、もしもの時のための「自爆用フェイルセーフ」ではなく、次にシステムが反逆の爪痕を消し去ろうとした瞬間に、帝都の地下水脈に溜め込んだ「反逆の証拠(監査ログの全データ)」を一斉に全校生徒と社会全域へ解放するための、最後の手動レバーであった。


或はぼんやりと天井を見上げる。

かつて両親と過ごしたスラムの古いトタン屋根の隙間から見えた、あの濁った夜空を思い出した。あの時も、神話だの魔獣だのという理不尽が、人間のささやかな日常を泥のように踏みにじっていった。


或の煤色の瞳が、中枢エリアの隅にある小さな換気口へと向けられる。

そこから、冷たい外気が微かに流れ込んできている。おそらく外の世界では、皇神学園を包んでいた緊急警戒令の結界が、或のハッキングによって一時的な同期不良を起こし、揺らぎ始めているはずだ。


(……鈴音。頼んだぞ)


或は瞼を閉じ、一度だけ深呼吸をした。

肺に流れ込む酸素は鉄錆と焦げた配線の匂いがしたが、それが驚くほど心地よく感じられた。かつては敵に囲まれ、逃げ惑うことしかできなかった雑兵の陰陽師が、今日、確かに神話のシステムの心臓部に「人間」としての爪痕を刻み込んだ。


或の意識が、深い闇の底へと溶け込んでいく。

そのとき、中枢エリアの床に散らばっていた木簡呪符の一つが、まるで意思を持つかのように、或の指先へ向かってわずかに跳ねた。


それは、ヴォルフガングという脅威を排除した直後の、唐突な静寂。

中枢エリアの奥底から、まだ完全に沈黙しきっていない「神代回廊」の実験炉が、次に備えて準備を始めるかのような、不快な低周波の振動が或の足の裏を通して伝わってくる。


或は、その振動を指先で受け止めた。

これが終わりではない。むしろ、神格化同盟という「神民」たちが守り抜いてきた絶対の秩序が、綻びた傷口から腐り落ちていくための、長い、あまりにも長い戦いの序章に過ぎないことを、或の右手首の呪印が、痛いほどの熱さで告げていた。


中枢エリアの影に、不意に風が吹き抜けた。

或が命を削って展開した逆相の網目が、地下から吹き上げる冷気を受けて、エリアの残滓を冷たく封じ込めていく。


その冷気の中を、或はただ目を閉じて耐えた。

次に目を開くとき、己がどの場所にいて、何者として生きているのか。その選択権は、今日、初めて或の手元に返ってきた。


或は意識の淵で、最後に一度だけ、父親が遺した古い北欧伝承と陰陽道の混じったノートの、最後のページに書かれていた一節を思い出した。


――『理は、循環する。枯れた木から新芽が吹き、雪の下で春が脈動するように。力あるものが全てを食い尽くすのではない。泥に這い蹲った者が、その力を喰らい尽くして、ただ、今日という一日を生き抜く権利を勝ち取るだけだ』


或の意識は完全に闇へと沈んだ。

しかし、その肉体は、なおも中枢エリアの静寂の中で、血に染まった呪符の結界を維持し続け、帝都の地下霊脈に反逆の意志を刻み込んでいる。


ヴォルフガング・リッターという「最強の狂犬」は、この中枢エリアの床の上で、自らの食い破られたガントレットの残骸と共に、システムへの帰依を完全に失い、ただの空虚な肉の塊として沈黙した。彼が求めたラグナロクの狂宴は、或という泥臭い変異因子によって、その幕を物理的に物理的に引き裂かれたのである。


或の意識の奥底で、最後の最後に、風祭鈴音の神楽鈴の音が、遠くの街並みへ向けて小さく響いたような気がした。

それは、システムという檻に囚われた生徒たちへ送る、夜明け前の信号。

反逆の鐘が、今一度だけ、帝都の不夜城を揺らした。


或は闇の中で、小さく息を吐いた。

戦いは、まだ終わらない。

明日の朝、帝都の空の下で、システムを持たぬ者たちが一斉に顔を上げたとき、この神代回廊の実験炉に刻まれた「或の爪痕」が、どんな形の光となって世界を照らすのか。

或はそれを知る由もないまま、ただ静かに、次の目覚めを待っていた。


中枢エリアの外縁部、実験炉のメインバルブへ繋がる保守回線の出口付近では、ヴォルフガングの異形の肉体から剥離した紫黒い触手が、床の隙間を伝って帝都の地底深くへと這い回っている。その触手は、或の「多重吸収結界」が引き剥がしたシステムの残留思念を餌とし、帝都全域を網羅する地下の位相結界の最深部で、次の形態変化を遂げようと蠢いていた。

それは、或が命を賭して粉砕した「天界の審判装置」のコアとは別に、自律的に増殖を始めた、或という特異点に対する神話の「復讐」そのものであった。


或の意識が闇の底で揺れる。

肉体は激しい損傷を負い、霊的回路は焼け焦げている。しかし、その意識が完全に消失する前に、或は左手で床板の隙間へ「火生土」の理を仕込んだ、最後の手製の攪乱呪符をねじ込んだ。

もしも、システムがこの場に回収部隊を送り込んだとしても、実験炉の深部で増殖を続ける「ヴォルフガングの肉の残滓(触手)」が、管理機構のドローンや幹部たちを餌として襲いかかるように。


或の復讐は、単なる撃破では終わらない。

彼ら転生者たちが、力に溺れ、互いを食い荒らして自滅するまで、この地底の闇の中で、或の仕掛けたハッキングの残響は、神代回廊そのものを蝕み続ける。


中枢エリアの温度が急激に下がる。

或の右手首の呪印が、今一度だけ、チリリと静かな音を立てて熱を失った。


或は夢の中で、両親の大きな手の温もりを感じていた。

スラムの路地裏で拾い集めたボロ布で結界を作っていたあの日の、何も持たぬ無力感。しかし、今の或には、その無力感こそが、理不尽な神話を地に引きずり下ろすための、何よりも鋭利な刃であることを知っている。


中枢エリアの静まり返った床の上で、賀茂の或は倒れたまま、呼吸を忘れた人形のように静止している。

しかし、その心臓は、泥臭いまでの執念を燃料にして、未だに力強く脈打ち続けていた。


帝都第七特区の夜空には、まだ、黄泉比良坂から溢れ出た紫黒い星々が、あざ笑うように輝いている。

だが、その光の合間を縫うように、風祭鈴音が学園中の端末に送り込んだ「反逆の監査ログ」の波紋が、帝都全域の霊符円(レイフ・エン)の換金所にまで伝わり始めていた。


すべてを奪い去る神話の夜が、終わりを告げるためのカウントダウンが、或の眠りの傍らで着々と進行していく。

中枢エリアの床板が一枚、また一枚と、地下の深淵へ向かって音もなく崩れ落ちていく。その先に広がるのは、もはや神代回廊の実験炉ではなく、或が書き換えた「人間たちが明日を選択するための空白」であった。


或は、次の覚醒を待つ。

神格化同盟の幹部たちが、次に扉を開けた時、彼らの目の前に広がるのは、かつての絶対的秩序ではない。

己たちの血と、醜い欲望と、そして或という泥臭い反逆者の「呪詛」が入り混じった、出口のない迷宮だけが待ち受けている。


或の煤色の瞳が、もし今開かれたなら、そこに映るのは、かつての絶望ではなく、神殺しの呪いを纏ってなお、地に足をつけて生き抜く覚悟を決めた、一人の陰陽師の姿であるはずだ。


中枢エリアの奥底から、風が止んだ。

すべては、次の夜明けのために。


或の指先が、わずかにピクリと動いた。

それは、システムが一度もプログラムしたことのない、意志を持つ生物だけの、ささやかな生存の証明であった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。