第35話 システムに背く者たち
天界の審判装置のコア端末から漏れ出す過負荷の電子音が、死にゆく獣の断末魔のように中枢エリアの空間を侵食していた。黒曜石の床に這い広がる逆相ルーンの網目は、賀茂の或の指先から供給される鮮血と呼応し、脈動を繰り返している。風祭鈴音の神楽鈴が一度だけ乾いた音を立てて静止した。
或は喉元に込み上げる鉄錆の味を噛み殺し、右手首のサラシをさらに深く締め直した。その呪印は、コア端末の回路が焼き切れる寸前の高熱を吸い込み、異様なほどに冷たい熱を放っている。神格化同盟の高位幹部たちは、バリアを砕かれたショックとシステムの無力化という現実に直面し、その顔には深い屈辱が刻まれていた。だが、彼らが口を開いて喚き立てるより早く、空間そのものが軋むような低い唸りを上げた。
重厚な鉄扉の向こう側、そこから伝わる気配が唐突に塗り替えられた。
まるで巨大な猛獣が冬眠から目覚めたかのような、あるいは地の底で封印されていた神話の残滓がその牙を研ぐかのような、圧倒的な物理的圧迫感。それは、先ほどまで中枢エリアを支配していた「システム」という論理的な秩序とは対極にある、剥き出しの暴力の奔流であった。
黒曜石のタイルの継ぎ目が、一歩踏み出されるたびにひび割れる。
中枢エリアの入り口へと姿を現したのは、銀色の短髪を獣のように乱した大男であった。肩に羽織った熊皮の獣衣が、彼が動くたびに獲物の返り血を吸い込んだような生臭い空気を運び込む。ヴォルフガング・リッター――。その双眸は獲物を追い詰める飢えた捕食者のように黄色く輝き、両腕には魔導ガントレット『フェンリルの牙』が禍々しい鈍光を放って装着されている。
ヴォルフガングは部屋の奥で膝をつく幹部たちを一瞥もしなかった。彼の瞳はただ一人、血に汚れた灰色の制服を纏い、泥臭い呪符で自らの魔力回路を焼き切った或を射抜いていた。
「ガハハハハッ! 面白い、面白いぞ雑種! システムの番犬どもが震え上がって口を閉ざす理由がようやく分かった。まさか、この神代回廊の心臓部に、最も薄汚れたドブネズミが紛れ込んでいたとはな!」
ヴォルフガングの咆哮に近い声が、中枢エリアの天井を震わせた。彼はガントレットの爪をカチリと噛み合わせ、火花を散らす。その動作だけで、彼が背負う闘気が空気中の魔素を強引に圧縮し、或たちの立つ床面へ目に見えない重圧となって降り注いだ。ネイティブの生徒たちが恐怖で息を止めるのが分かる。
「システムを持たない、それどころかレベルすら持たぬ下級民が……どうやってこの奥まで辿り着いた? どの配線を切り、どの回路をハッキングした?」
ヴォルフガングは狂喜に顔を歪めながら、じりじりと距離を詰めてくる。その一歩ごとに、彼が踏みしめる床から爆発的な衝撃波が広がり、黒曜石のタイルが砕け散る。或は正面からの力比べを避け、わずかに半身を引いて視線を床の配線へと向けた。正面からぶつかれば、今の肉体状態では最初の衝撃で肋骨が肺を刺して終わる。或は思考を極限まで加速させ、この中枢エリアの物理的構造と、ヘレナから託されたデータ端末の残響波が示す「同期の死角」を探った。
「……フェンリルの牙か。神話の獣の名前を借りて、自分の暴力に酔いしれるだけの壊れたガントレットだ。随分と派手な装飾だな」
或は低いトーンで皮肉を投げかけ、視線をヴォルフガングの右肩から左足元へと滑らせた。データの解析は完了している。この男が放つ闘気は強大だが、その出力は「神代回廊」の実験炉からの同期信号に依存している。同期が揺らげば、その圧倒的な質量は自らの加速に耐えきれず、自身の体を噛み砕く刃と化す。
或は静かに、左足を一歩後ろへ引いた。その際、踵で床のわずかな隙間を蹴り上げ、隠し持っていた木簡呪符の一枚を、中枢エリアのメイン配管の根元へと滑り込ませた。ヴォルフガングには見えない、影の中の泥臭い仕掛け。それはヘレナのデータ端末から抽出した、「同期信号の切断に伴う反動波」を増幅するための導火線だった。
「俺はドブネズミだ。お前らのような温室育ちの神民が決して踏み込まない、泥と腐敗の匂いにまみれた場所で、ただ生き延びることだけを考えて育った」
或は右手首の青黒い呪印を、ゆっくりと露わにした。その呪印は、ヴォルフガングの闘気が膨れ上がるたびに、まるで生きているかのように青白い脈動を早めている。
「システムやレベルという甘ったれた幻想に酔いしれ、神話の加護に身を委ねてきたお前に、この泥の深さが分かるか? お前の放つ牙がどれほど強靭であろうとも、その根底にある配線を逆相で引っぱたけば、ただのガラクタと同じように綺麗に弾け飛んだりしねえよ。だが、致命的な狂いを生じさせるには十分だ」
ヴォルフガングの瞳から笑みが消え、獣のような殺気が凝縮される。
「……雑種が。調子に乗るのもそこまでだ。その汚い口を噛み千切り、お前の骨の髄まで俺の牙で味わい尽くしてやる!」
ヴォルフガングが右足を大きく踏み込んだ。中枢エリアの床面が地鳴りのように轟き、彼が加速するベクトル上の空間が闘気でねじ曲がる。或はデータ端末の残響波を脳内で再生しながら、右足の親指に重心を移した。ヴォルフガングの突撃のベクトルは、或の立つ地点からわずかに左、コア端末の配管が密集する「同期のデッドゾーン」へと誘導されるよう計算されている。
或は右手を宙に放り、麻の布袋から取り出した最後の逆相ルーン呪符を、床の配管の接合部へと投げつけた。
沈黙の中で、或はただ静かに、ヴォルフガングの膨大な殺気を受け止める態勢をとった。
ヴォルフガングの突撃ベクトルが、仕掛けた罠の重力圏へと引きずり込まれようとする。その瞬間、床下の配管が異常な熱を帯び、ヘレナの端末から流出した「死の女神の残響波」が、或の呪印を通じて中枢エリアの霊脈に浸透し始めた。ヴォルフガングの加速する闘気が、あらかじめ或が構築していた逆相の網目と接触する直前、中枢エリア全体の明かりが一度だけ明滅した。
或は奥歯で舌の側面を噛み切り、鉄錆の味とともに、全ての霊力を右手の呪印へと収束させる。泥まみれの知恵が、神話の暴力を論理の淵へと引きずり込む。次の一瞬、ヴォルフガングの放つフェンリルの牙と、或の仕掛けた逆相陣が正面から交差する。
或の煤色の瞳には、すでにヴォルフガングの攻撃が届く前に砕け散るガントレットの回路の未来が、鮮明な図式として焼き付いていた。
その衝突の直前、ヴォルフガングの右手が空気を切り裂く高周波の音を立てて或の眉間へと迫った。しかし、或は瞬き一つせず、足元に仕掛けた罠のトリガーを右手の呪印で直接鳴らす。
――その時、中枢エリア全体を覆う霊的位相が、不自然なまでに高く歪み始めた。
或の構築した泥縄式の網目は、ヴォルフガングの突撃ベクトルを逸らすために、コア端末が発する強大な重力場を「鏡」として利用しようと試みていた。ヴォルフガングの咆哮が、壁面のコンクリートを削り取るほどの威力となって迫る。だが、或はその咆哮の余波が届くより早く、床下に仕込んだ逆相呪符の同期を敢えて破壊した。
突如として発生した魔力供給の断絶により、ヴォルフガングの魔導ガントレットから放たれていた闘気の奔流が、一瞬にして逆方向へと吸い込まれるような真空の現象を引き起こした。
「ガァ……ッ!? 貴様、何をした!?」
ヴォルフガングの巨体が、自らの加速に耐えきれずに姿勢を崩し、コア端末の側面にある鋭利な配管の束へと叩きつけられそうになる。或はその隙を逃さず、冷徹な視線をヴォルフガングに向けたまま、さらに追い討ちをかけるように空中の呪符を指先で弾いた。
中枢エリアの床の回路が、或の血の成分に反応して真っ赤に染め上げられる。
ヴォルフガングの足元の石畳が、或の操る呪術的な攪乱によって流動的な泥濘へと変質し、巨体が沈み込み始めた。
「――泥の中を這いずり回る心地を、少しは味わってみろ」
或の声は、ヴォルフガングの怒号よりも低く、しかし決定的な冷たさを孕んでいた。
ヴォルフガングはガントレットを叩きつけて泥濘を強引に破壊しようと試みるが、その一撃は空を切った。或が仕掛けた「五行の相剋」は、物理的な強度を無視し、力のベクトルそのものを外部へと逃がすよう構成されていたからだ。
ヴォルフガングのガントレットが金属音を立てて空を切る。
或はその刹那、ヴォルフガングの死角に滑り込み、右手首の呪印を男の肩口に押し当てた。
「お前のその牙は、システムが用意したただの道具に過ぎない。……だが、俺が刻んだこの呪印は、お前の肉体そのものを食い破るための『現実』だ」
或の呪印が、ヴォルフガングのガントレットの同期周波数を強引にハッキングする。
ヴォルフガングのガントレットが制御を失い、フェンリルの牙を模した爪が、男自身の装甲を内側から食い破り始めた。
「ギャァァァアアアッ!!」
中枢エリアに響き渡ったのは、神格化同盟の狂犬の悲鳴であった。
或は反動で床に叩きつけられながらも、煤色の瞳でその様を冷徹に観察し続けた。
しかし、その惨劇の最中、背後のコア端末から、これまでとは異質の、不快で高周波な電子音が鳴り響き始めた。それは或がこれまで経験したどのエラーとも異なる、何か巨大な「意志」が眠りから覚めるような嫌な響きだった。
或の右手首の呪印が、異様なまでに激しく熱を帯び、火傷のような激痛を伴って脈動し始めた。
それは或の肉体だけではなく、中枢エリアにいた全員の鼓膜を震わせるような、古びた神代の言語による呪詛の囁きへと変わっていく。
「……何が起きている?」
或は床に突っ伏したまま、霞む視界でコア端末の根元を見上げた。
そこでは、ヴォルフガングの血を吸った逆相ルーンの光が、端末に吸い込まれるようにして「深淵の黒」へと変色しつつあった。
風祭鈴音の声が、遠くでかすかに聞こえる。
「或、離れるんだ! 端末が……実験炉のメインバルブが、何かを吸い込んでいる!」
或は床を蹴り、強引に立ち上がろうとしたが、全身の神経を焼くような激痛に阻まれて膝をついた。喉からは再び鮮血が溢れ、黒曜石の床を汚す。
ヴォルフガングは自らの肩口に食い込んだ牙をガントレットの解除機能で強引に引き剥がしながら、なおもその醜い殺意を隠そうとせず、或を睨みつけていた。
だが、ヴォルフガングの表情にも、明らかな動揺が浮かんでいる。
「……これは、俺の……俺のチートの反応じゃねえ。この神代回廊が……何者かの『生贄』を求めているのか……!?」
或は冷や汗にまみれた顔を上げ、コア端末の最上部を見つめた。
そこでは、今まさに開かれようとする、何重ものルーン文字で封印された巨大な裂け目が、静かにその口を開こうとしていた。
或は確信した。
この戦いは、もはやヴォルフガング対或という図式を越え、何かもっと巨大で理不尽な「神話の再構築」そのものが、彼らを餌として要求しているということに。
或は奥歯を食い締め、右手首のサラシをさらにきつく巻き直した。
「……食い足りないのか、この化け物は。……なら、俺たちの血と呪詛を、腹が張り裂けるまで食らわせてやる」
或は床に転がっていた木簡呪符を全て拾い上げ、右手首の熱い呪印へと纏め上げた。
これが最後の手札だ。ヴォルフガングという最強の壁を打ち破るための、泥臭くも確実な最後のハッキング。
或は、再び立ち上がった。
ヴォルフガングの瞳に映る、折れることのない死神の影。
中枢エリアの空間が、二人の対峙を待たずに、ゆっくりと凍てつくような終わりへと傾き始めた。
(……この先の結末が、神話通りの悲劇であれ、俺が書き換える泥臭い生存であれ、最後の一枚を握っているのは俺だ)
或は煤色の瞳に、これまで以上の冷徹な光を灯した。
ヴォルフガングの闘気が、再びその密度を取り戻し、今度は或だけではなく、中枢エリア全体を粉砕しようとする「神話の牙」として立ち現れた。
戦いの幕が、いよいよ真に開かれようとしていた。
中枢エリアの空気が、ヴォルフガングの闘気によって分子レベルで引き裂かれ、火花を散らす。ヴォルフガングはガントレットの爪から迸る銀の光を纏い、再びその巨大な質量を或へとぶつけようと身を低くした。その背後で、天界の審判装置が吐き出す紫黒い霧が、もはや個人の制御を離れてエリア全体に充満し始めている。
或は己の生身の肉体が限界であることを理解していた。右手首の呪印はもはや火傷では済まない。皮膚の内側から霊力が漏れ出し、骨そのものを侵食している感覚があった。しかし、或は一切の迷いを煤色の瞳の奥底へと沈め、ただヴォルフガングの突撃ベクトルのみを見据えた。
「……最後の一歩だ」
或は低い声を出し、風祭鈴音に向けて短く視線を投げた。鈴音はその意図を即座に汲み取り、一対の神楽鈴を両手に高く掲げた。彼女の黒曜石の瞳に、極限の緊張が宿る。それは単なる戦闘の合図ではない。或が構築した泥臭い罠を、神楽鈴の共鳴によって「物理的な現実」として固定するための最終的な呪法であった。
ヴォルフガングが突撃を開始した。
その一歩目が踏み込まれた瞬間、中枢エリアの床の回路が悲鳴を上げ、無数の火花が空間を埋め尽くす。或はヴォルフガングの突撃ベクトルに合わせ、右手首のサラシを解き放った。
「呪式――『逆相・天界崩し』」
或の手元から解き放たれた数枚の血塗られた逆相ルーン呪符が、ヴォルフガングの突撃を真正面から迎え撃つように宙で円環を描いて整列した。それらは或の血流を媒介にして、神代回廊の中枢回路と強制的に同期する。
ヴォルフガングの放つ闘気が、或の呪符の円環に触れたその刹那、中枢エリアの重力が急激に反転した。
「ガァッ……!?」
ヴォルフガングの突撃ベクトルが、本来あるべき床ではなく、天井に向かって強引にねじ曲げられる。彼はその圧倒的な筋力で体勢を維持しようと抗うが、或の構築した逆相の網目は、彼が使えば使うほど強大な力を発揮する「フェンリルの牙」の性質を逆手に取り、魔力回路を飽和させて自壊させるよう設計されていた。
ヴォルフガングの魔導ガントレットが金属音を立てて熱を発し、限界を超えた負荷に耐えきれず、爪が一本、また一本と砕け散って床に落ちる。
或は絶好の機会と見て、泥濘と化した床の上を滑るように前進し、ヴォルフガングの懐へと飛び込んだ。
「牙を抜かれた狼に、何ができる!」
或の冷徹な一言がヴォルフガングの耳元を貫く。
或は右手首の呪印を、ヴォルフガングの魔導ガントレットの基部であるコア駆動部へと深々と突き立てた。
その衝撃は、或自身の腕を粉砕するほどの激痛であった。しかし、或は一切表情を変えず、逆相ルーンの破壊刻印をガントレットの内部回路へと直接流し込む。
「……これで、お前のシステムへの寄生も終わりだ」
ヴォルフガングのガントレットが、悲鳴のような高周波を上げ、中枢エリア全体を巻き込む閃光を放った。
しかし、その閃光は或を傷つけるためのものではなく、ヴォルフガングの闘気をシステムから切り離すための「強制停止」の光であった。
中枢エリアの至るところで、配線ケーブルが引きちぎられ、システムが管理していた魔力の流れが完全に断たれる。
ヴォルフガングの巨体が、糸の切れた人形のようにして床に投げ出された。
静寂が、一瞬だけ中枢エリアを支配した。
それは、これから訪れる「真の終わり」を予感させる、あまりに冷たい静寂であった。
或は膝をつき、吐き出した血で黒曜石の床を濡しながら、ぼんやりと天井を見上げた。
そこには、神話の裂け目から零れ落ちる紫黒い闇が、もはや物理的な障壁を無視して中枢エリアの床へと浸食を開始していた。ヴォルフガングという壁は打ち破った。しかし、この戦いの結末は、まだ何も決まっていない。
或は右手首のサラシを再び無造作に巻き直すと、鈴音とネイティブの生徒たちを振り返った。
「……まだ、終わっていない。ここからが本当の始まりだ」
その冷徹な煤色の瞳に、絶望の影はなかった。
中枢エリアの床の亀裂が広がり、深淵から何かが這い出そうとする気配が、或たちの足元に冷たくまとわりついた。
風祭鈴音は一対の神楽鈴を握り締め、或の背後で冷ややかな微笑みを浮かべた。
「ああ。……面白いね、或。泥にまみれた人間の執念が、どこまで神話の理をハッキングできるのか。……最後まで付き合ってあげるよ」
中枢エリアの闇が、一層深く、濃く、或たちを包み込んでいく。
或の右手首の呪印が、今一度だけ、まるで未来を予見するように激しく脈動した。
その鼓動は、遠くから聞こえてくる「反逆の鐘」の音色よりも重く、冷たく、この戦場に響き渡っていた。




