第34話 神格化同盟の中枢へ
古びた鍵穴の奥で、真鍮のタンブラーが重い金属音を立てて噛み合った。賀茂の或が手製の木製マスターキーをわずかにねじると、数百年の間一度も開けられたことのない旧生徒会棟最奥の保守扉は、乾いた悲鳴のようなきしみを発しながら内側へと重く開いた。
扉の隙間から吹き抜けてきたのは、これまでの薄汚い地下通路の湿った空気とは異なる、凍てつくような無機質のオゾンと、世界樹の根底から沸き立つような重苦しい霊的圧力の奔流であった。
「……行くぞ」
賀茂の或は低く掠れた声で告げ、煤色の瞳を奥へと据えた。右手首のサラシの下では、血と朱墨で焼き付けられた逆相ルーンの刻印が、扉の向こうから押し寄せる強大な魔力の波長に共鳴するかのように鈍く脈打っている。肋骨の古傷から走る鈍痛を奥歯で噛みしめ、或は最初の一歩を踏み出した。
その背後に続く風祭鈴音は、一対の銀色の神楽鈴を掌で包み込み、冷ややかな黒曜石の双眸で前方の闇を鋭く見据えながら音もなく追従する。さらにその背後には、恐怖を必死に押し殺しながらも反逆の意志を宿したネイティブの生徒たちが、それぞれの武器や手製の木簡呪符を握り締めてひっそりと続き、旧生徒会棟の中枢エリアへと完全に足を踏み入れた。
足を踏み入れた瞬間、目の前に広がった光景は、一つの巨大な宗教的儀式場と最先端の魔導実験施設がグロテスクに融合した異界の空間であった。
床面は磨き抜かれた黒曜石のタイルで敷き詰められ、その表面には幾重もの幾何学模様を描く金色の魔導回路が脈打つように明滅している。空間の中央には、天から差し込む紫黒い黄泉比良坂の裂け目の光を直接受け止めるようにして、無数の配線ケーブルと素焼きの灯火皿が接続された巨大な円柱状のコア端末がそびえ立っていた。それこそが、大和皇国の転生者たちに無限の魔力を供給し、現地人から霊力を搾取し続けるシステムの中枢――「天界の審判装置」であった。
その巨大なコア端末の周囲を取り囲むように、純白の神官服を模した特製の制服を纏った神格化同盟の高位幹部たち数名が、冷徹な視線を入口へと向けて静かに佇んでいた。彼らの周囲には、システムから直接割り当てられた高位の魔力バリアが青白い光の膜となって揺らめき、通常の人間であればその威圧感だけで精神を圧壊させられるほどの特権階級のオーラを放っている。
「――ほう。下級民の分際で、この中枢エリアの結界をどのような手段で潜り抜けたのかと思えば……」
幹部の一人である男が、冷ややかな侮蔑の笑みをその端整な顔に浮かべながら一歩前に出た。男の指先には、すでにシステムから強制生成された金色の魔力弾が幾重もの光の輪となって回転している。
「スラムの底で這いずり回っているはずの雑種が、よりによってシステムの心臓部にまで這い上がってくるとはね。管理機構の自動感知グリッドをすり抜けたその小賢しい手管もここまでだ。貴様らの存在は、この完全無欠なる秩序における『想定外のバグ』にすぎない。――ここで綺麗に消去して、初期化のログだけを残してやろう」
男の冷酷な宣言と同時に、周囲に控えていた他の幹部たちも一斉に右手を掲げた。彼らの背後で天界の審判装置のコア端末が不気味なうなり声を上げ、空間全体の気圧階梯が一瞬にして特級のレベルへと跳ね上がる。チリチリと空気を焦がす高圧の魔力弾と、空間を凍結させる即死の呪文が、一斉に或たちを標的として放たれようとした。
風祭鈴音の黒曜石の双眸がわずかに見開かれ、一対の神楽鈴を鳴らそうと指先に力が込められたその瞬間――或は一歩前に進み出た。
「……バグだと?」
或は低く冷徹な笑い声を漏らし、外套の懐から麻の布袋へと右手を突っ込んだ。その煤色の瞳には、動揺の色など微塵もなく、ただ敵の魔力回路の脆弱性を射抜く狩人のような冷酷な光が宿っていた。
「ふざけた冗談を抜かすな。お前らが神様気取りで振り回しているそのチートスキルの仕組みも、根本の同期信号をルーンの逆相で引っぱたけば、ただの安っぽい手品と同じように綺麗に弾け飛ぶんだよ。――見せてやるよ、お前らのシステムがいかに脆い泥の土台の上に成り立っているかをな」
或が麻の布袋から引き抜いたのは、自らの鮮血と朱墨で複雑怪奇なエルダー・ルーンの破壊刻印と五行の相剋理を塗り固めた、数枚の血塗られた逆相ルーン呪符であった。
幹部たちが放った先制攻撃の光弾が、音速を超える速度で空間を引き裂きながら或の頭上へと殺到する。圧倒的な物量と理不尽なシステム出力の奔流が、周囲の黒曜石の床を粉々に砕き飛ばしながら迫り来る。
しかし、或は恐れるどころか、その場にしっかりと両足を踏み張り、右手首の青黒い呪印を光弾の軌道へと真っ直ぐに向けた。
或の肉体に定着した逆相ルーンの網目が、飛来する光弾の魔力波長を肉眼では捉えられないほどの超高速で解析し、その位相の歪みを瞬時に逆算していく。
「――呪式反転、起動」
或の低い呟きと共に、右手首の呪印が凄まじい閃光を放った。
空間の四方に突き刺さるように放たれた血塗られた逆相ルーン呪符が、東洋の「相剋」の理と北欧の「ハガラス」の破壊刻印を同時に発動させる。敵の幹部たちが放った圧倒的な魔力弾の群れは、或の直前で目に見えない位相の壁に激突した瞬間、その内部の魔力回路を根底から逆流させられた。
パチパチパチ、とガラスが砕け散るような異様な高音のノイズが中枢エリアの空間全体に響き渡る。
幹部たちが絶対の自信を持って放った光弾は、或に届くどころか、その場で自らの発信源である魔力回路と激しく衝突し、鮮烈な爆風となって逆方向へと綺麗に跳ね返っていった。
「なっ……バカな……!? 奴らの放った攻撃コードが、自分の足元で勝手に逆流して崩壊した……!?」
先ほどまで冷笑を浮かべていた高位幹部の男が、青ざめた表情で自らの目の前で起きた現象を信じられないといった様子で見据えた。跳ね返った爆風の余波が彼らの周囲に展開していた青白い魔力バリアを内側から激しく打ち砕き、幹部たちはたまらず数歩後退してその場に体勢を崩した。
天界の審判装置のコア端末から伸びる無数の配線ケーブルが過負荷によるショートを起こし、ジジジと赤い警告灯の光を激しく点滅させ始める。
しかし、その強力な呪式反転を成し遂げた代償として、賀茂の或の肉体もまた限界を超えた負荷に晒されていた。
自動回復の加護を持たない生身の肉体に、神話の位相を無理やりハッキングさせる呪術の奔流を通した反動により、或の喉元から熱い鮮血が再び逆流し、黒曜石の床板へと赤黒い水たまりを作って零れ落ちた。或の膝がわずかに震え、崩れそうになる上半身を左手で黒曜石の床に突き立てた右手で必死に支える。右手のサラシの下で脈打つ青黒い呪印は、まるで焼けた鉄のように激しい熱を発し、或の神経回路を内側から焼き焦がしていくような痛みを伴っていた。
「或……っ!」
背後でその様子を目撃していた風祭鈴音は、一対の銀色の神楽鈴を強く握り締めながら、わずかに声を張り上げた。その冷ややかな黒曜石の双眸には、或の肉体が限界を迎えていることに対する冷徹な危機感と、彼の執念に対する異様なまでの緊張の色が入り交じっていた。
「……心配するな。まだだ……まだ、奴らの足元をすくい上げるための仕掛けが残っている」
或は荒い息を整えながら、血に染まった唇を拭い、煤色の瞳を再び正面のコア端末へと向けた。
跳ね返された爆風の余波が中枢エリアの天井を走り、素焼きの灯火皿の火が激しく明滅した。
黒曜石の床に這いつくばるようにして片膝をついた賀茂の或は、鉄錆の混じった唾液を床に吐き捨て、震える右手首のサラシをさらにきつく巻き直した。自らの血流を媒介にして異界の神話体系を強制接続した肉体は、今や一歩動くだけで神経の端々が焼き切れるような激痛を訴えている。しかし、その煤色の瞳に宿る冷徹な光は少しも衰えていなかった。
「……バカな。特権階級の我々が放った精製魔力弾を、あのような下等な雑種の呪符ごときが……!」
先ほどまで冷酷な笑みを浮かべていた高位幹部の男は、純白の神官服を煤で汚し、自らの手から立ち昇る焦げ臭い煙を見つめながら信じられないといった面持ちで震えていた。彼らの周囲を護っていた青白い魔力バリアは、或の放った逆相の網目によって内側から同期信号を狂わされ、現在はただの不安定な光の残骸と化している。システムという絶対的な加護に依存しきってきた者たちにとって、己の攻撃がその場で論理的に書き換えられ、無力化されるという現象は、単なる物理的敗北以上に耐え難い精神的屈辱であった。
「おのれ……! 雑種風情が調子に乗りやがって……! 組織の秩序を踏みにじったその不敬、万死に値する極刑をもって贖わせてやる!」
別の幹部が顔を歪めながら叫び声を上げ、システムの中枢である「天界の審判装置」のコア端末へと右手を突き出した。その掌から、周囲の空間を凍てつかせるような紫黒い雷光が奔流となってほとばしる。それは先ほどの個別の魔力弾とは比較にならない、コア端末の全出力を直結させた広範囲の処刑プログラムであった。空間全体が凄まじい気圧階梯の変動に耐えきれず、黒曜石の床面に無数の亀裂が走っていく。
「――或!」
風祭鈴音が鋭く叫び、一対の銀色の神楽鈴を激しく打ち鳴らした。鈴の音から放たれた冷ややかな霊的波長が、敵の放つ紫黒い雷光の直撃コースをわずかに逸らそうと空間の位相に干渉を試みる。しかし、コア端末の直結出力による圧倒的な物量の前には、単一の鈴音の共鳴だけでは防ぎきれないほどの圧倒的な質量差が押し寄せていた。
だが、或は微動だにしなかった。
その脳裏では、敵が放つ雷光の魔力回路が描く軌道と、足元に広がる黒曜石の床の魔導回路が、極限まで研ぎ澄まされた透明度の感覚の中で完全に一つの網目として結ばれていた。
「……遅いんだよ。システムに寄りかかって数を頼りにしているだけの連中には、自分の足元がどう抜けていくのかが見えていない」
或は低いトーンで冷徹に言い放つと、崩れかけた姿勢のまま右手首の青黒い呪印を力強く床面へと叩きつけた。
或の指先から滴り落ちた鮮血が、黒曜石のタイトルの溝に刻まれた金色の魔導回路の結び目へと染み込んでいく。瞬間、或が事前に懐から引き抜いておいた数枚の木簡呪符が、或を中心とした円環を描くようにして床面へ一斉に突き刺さった。
東洋の「火生土」の理と北欧の「ハガラス」の破壊刻印が、或の肉体に流れる血の周波数と同期し、地下深くを巡る神代回廊の霊脈の動線を逆方向へと強引にひっくり返す。
「――逆相陣、全開」
或の号令と共に、床面に突き刺さった木簡呪符から青白い逆相の光輪が凄まじい勢いで広がった。
幹部たちが放った紫黒い雷光の奔流が、或たちの頭上に到達したその刹那――足元から噴き上がった逆相の網目が雷光の基底コードを丸呑みし、その極大のエネルギーをそのまま地下の保守配線へと逃がして綺麗に相殺し尽くした。
ドォッ、と地底の底を揺るがすような鈍い爆音が中枢エリアの床下で幾重にも反響し、天界の審判装置のコア端末から伸びる無数の配線ケーブルが一斉に火花を散らしてショートを起こす。圧倒的な出力を誇っていたはずの処刑プログラムは、音もなくただの無機質な煙へと変わって四方に消え去った。
「馬鹿な……コア端末の直結出力が……吸収され、相殺されただと……!?」
幹部たちは自らの眼前に広がる光景に足元をすくわれ、恐怖に満ちた双眸で見開いたままその場にへたり込んだ。システムという絶対の神殿に立てこもっていたはずの者たちが、泥まみれの雑兵が敷いた手製の逆相陣の前に、わずか数瞬で論理的に丸裸にされていく。
風祭鈴音は一対の銀色の神楽鈴を優雅に構え直すと、その冷ややかな黒曜石の双眸で混乱に陥った幹部たちを見据え、冷ややかに言い放った。
「……見てごらんよ。あなたたちが絶対だと思い込んでいたその秩序は、私たちが持ち込んだ泥臭いハッキングの前では、ただの脆い砂の城にすぎないのさ」
背後に控えるネイティブの生徒たちも、それぞれの手元に握り締めた木簡呪符を構え、恐怖の代わりに静かなる反逆の気概をその瞳に宿して一歩ずつ前進した。
賀茂の或は荒い息を整えながら、血に染まった右手をゆっくりと引き抜いた。
右手首のサラシの下で脈打つ青黒い呪印の熱は未だに静まっていなかったが、その視線の先にある天界の審判装置のコア端末は、過負荷によるエラーコードを不気味に明滅させながら、沈黙の底へと沈みかけていた。システムの中枢そのものを内側から追い詰めた或たちの足元には、もはや恐れの色はなく、次なる標的を見据える冷徹な静寂だけが支配していた。




