第37話 神話ハッキングの極意と決戦
帝都第七特区の深部、神代回廊の実験炉の中枢エリアを覆っていた鉛色の静寂は、一筋の血が床を伝う微かな水音によって破られた。
崩壊しかけた黒曜石のタイルの上で、賀茂の或の指先が再びピクリと痙攣するように動く。その動作は、機械仕掛けの歯車が噛み合うようなぎこちないものだったが、死の淵へと沈みかけていた生体磁場が、再び現実の重力へと引き戻されるための確かな導火線であった。
或の肉体は極限の損壊状態にあった。
右手首のサラシの下で脈打つ青黒い呪印は、自らの血肉と北欧原初ルーンを強制接続した代償として、神経の端々を炭化させるような持続的な熱を放ち続けている。肋骨の古傷は呼吸のたびに摩擦音を立て、内臓を圧迫した。だが、意識の闇の底で或の生存本能を支えていたのは、恐怖でも諦念でもなく、システムという絶対の理に対する冷徹なまでの反逆心だった。
(――まだだ。……俺の肉体が完全に灰になる前に、あの回路の結び目をもう一度だけ、逆相の理で引き直さなければならない)
或の煤色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。
視界の端で、ヴォルフガング・リッターの異形と化した肉体が、天界の審判装置の配線ケーブルに絡みついたまま微動だにせず沈黙している。かつて「フェンリルの牙」の圧倒的な暴力とチートスキルの物量で帝都を蹂躙した狂犬は、自らの魔力回路の逆流と或のハッキングによって、システムへの帰依を完全に剥ぎ取られた空虚な肉の塊と化していた。その周囲では、先ほどまで空間を支配していた紫黒い瘴気が、或が血を代償に打ち込んだ逆相ルーン呪符の連鎖反応によって、まるで不純物を焼き尽くす白銀の炎に洗われるように急速に薄れていく。
だが、中枢エリアの崩壊は止まっていなかった。
天界の審判装置のコア端末は、機能不全を起こしながらも、深部に刻まれた古のプログラムを自己修復しようと、無数のエラーコードを電子の断末魔のように明滅させている。そのエラーコードの配列こそが、神格化同盟がこの大和皇国の人間たちから霊力を搾取し、神話の黄泉還り(ラグナロク)を演出するための根幹コードであった。
賀茂の或は、地面に突き立てた左手で黒曜石のタイルを掴み、全身の骨格が悲鳴を上げるのを無視して強引に上体を起こした。
喉元から競り上がってきた血の塊をそのまま床へと吐き出し、或は冷徹な眼差しをコア端末のメインバルブへと据えた。
「――神話ハッキングの極意を、ここで完遂する」
或の掠れた低い声が、崩落寸前の空間に響く。
或は自らの右手首に巻かれた血塗られたサラシを、残された左手で力強く引き剥がした。そこには、赤黒い朱墨と生々しい血の痕跡で焼き付けられた、東洋の五行相生相克と北欧のエルダー・ルーン文字が幾重にも交差する『神話ハッキングの回路』がむき出しになって露出していた。その呪印は、死の縁を渡ってきた或の脈動に合わせて、周囲の大気の霊圧を強引に吸い込み、青白い高周波のアークを散らし始める。
或は、その右腕を天界の審判装置のコア端末の中枢へ向けて、迷うことなく突き出した。
瞬間、或の精神は肉体の枠組みを離れ、システム全体の巨大な魔導ネットワークへとダイレクトに接続された。
脳裏に流れ込んできたのは、大和皇国全域を縛り付ける無数の魔力搾取の網目であり、何万人もの現地人から吸い上げられた霊力の潮流であった。それは神々が描いた「終末のシナリオ」の巨大な設計図であり、通常の人間であればその膨大な情報量と神話的圧迫感だけで精神が焼き切れるほどの呪詛の奔流に他ならない。
(――ふざけた設計図だ。人間をただの消耗品の歯車として扱い、神々の遊戯のために世界を二度も三度も焼き直すなどと……!)
或の意識の深部で、冷徹な怒りが凍てつくような炎となって燃え上がった。
或は自らの血脈に流れる陰陽道の理と、北欧の古文書から叩き込んだ破壊と再生のルーン文字を武器に、その巨大なネットワークの根幹コードへと逆相のパッチを叩き込んでいく。
――バチリ、と中枢エリアの空間が激しい閃光を放った。
或がシステムの中枢へ直接介入し、ヴォルフガングの残滓および神格化同盟のチートシステムの根幹コードを論理的に書き換え始めたその刹那、コア端末の周囲を護っていた幾重もの防衛結界が、内側からの同期エラーを起こして一斉に粉々へと砕け散った。
システムは、生身の人間である或を「エラー」として排除しようと、全出力の強制消去プログラムを起動させた。紫黒い雷光が或の肉体を焼き尽くそうと幾重にも奔流をなして殺到する。
しかし、或は一歩も引かなかった。
むしろ、その攻撃のエネルギーすらも、右手首の呪印を通じて自らの血流へと引き込み、逆相の網目を介してシステム全体の基底コードへと逆流させる。
「……お前たちがどれほど高潔な神話を騙ろうが、端くれの人間が作った配線である以上、泥縄式の逆相パッチでいくらでもバグらせてやれるんだよ!」
或の怒号と共に、右手首の青黒い呪印が太陽の如き強烈な閃光を放った。
東洋の五行における『金克木』と『火克金』の相剋関係を、北欧の『ハガラス(破壊)』のルーン刻印と無理やり同期させた論理的バグの奔流が、コア端末の内部回路を根底から食い破っていく。
ジジジ、パチパチパチ――!
天界の審判装置のコア端末を構成していた無数の素焼きの灯火皿と金色の魔導回路が、一斉に高熱を発して溶け落ちていく。
システムに依存し、無限の特権を享受してきた神格化同盟のチートシステムの根幹は、いまや或が仕掛けた泥臭いハッキングによって、その論理的整合性を完全に失い、自重に耐えかねて内部から崩壊を始めていた。
そして、決定的な瞬間が訪れた。
逆流した呪詛のフィードバックと、或が床面のあちこちに仕込んでいた手製の逆相ルーン呪符の連鎖爆発が、コア端末の心臓部を完璧なタイミングで捉えたのだ。
轟音――!
中枢エリアの空間そのものが巨大な産声を上げるように揺らぎ、天界の審判装置のコア端末が、眩いほどの白銀の閃光の中に完全粉砕された。
飛び散る黒曜石の破片と、焼き切れた配線ケーブルの束が、まるで嵐の後の落葉のように床一面へと降り注ぐ。コア端末が吐き出していた紫黒い瘴気は、或の放った逆相の網目に完全に呑み込まれ、霧散するようにして消え去っていった。
その瞬間、皇神学園の校舎を、そして帝都第七特区の空を長年にわたって重く縛り付けていた理不尽な神話的圧迫感が、まるで嘘のようにスッと霧散していく。
上空でうねっていた黄泉比良坂の裂け目の光が弱まり、凍てつくような冷気の階梯がみるみるうちに常温の空気へと戻っていくのが肌で感じられた。
或は、崩れ落ちたコア端末の残骸の前に膝をついたまま、荒い息を整えていた。
全身の神経を焼き尽くされたような倦怠感と、骨格の軋む激痛が、或の肉体を容赦なく襲う。しかし、その煤色の瞳に映る世界には、もはや転生者たちの傲慢なシステムの影はなく、ただ静かで泥臭い、現実の夜明け前の空気だけが満ちていた。
或はゆっくりと右手を引き抜き、サラシのほどけた血まみれの腕を重そうに持ち上げた。
右手首の呪印から発せられていたあの異常な熱はすでに消え去り、残されたのはただの深い火傷の痕と、静かに脈打つ自らの生身の心音だけだった。
「……終わったか」
或は低く呟き、床に転がった木製の破片を足元で軽く踏み砕いた。
だが、安堵の余韻に浸る間もなく、或の右手首の呪印が再び、先ほどとは異なる奇妙な脈動を打った。
完全に粉砕されたはずの天界の審判装置のコア端末の残骸。その足元の黒曜石のタイルの割れ目から、まだ消えきっていない紫黒い微光が、まるで呼吸をするように明滅している。
(――……ほう。コア端末のガワが壊れようとも、システムを支えていた最深部の霊脈そのものは、まだこの地層にしがみついているというわけか)
或は微かに歪んだ笑みをその唇に浮かべ、地面に突き立てていた左手に力を込めた。
粉砕された中枢エリアの天井からは、先ほどまでの激しい振動が嘘のように収まり、代わりに外気を通す冷たい微風が流れ込んできている。だが、その冷気の流れに混じって、或の鋭敏な感覚は、床下の暗渠の奥深くから這い上がる「別の気配」を捉えていた。
それはヴォルフガング・リッターという個体が残した肉体の残滓であり、同時に、システムが自らを修復するために無意識に呼び寄せた「神話の影」の残り香であった。
「……まだ足りないか。お前たちのその甘ったれた神話の理は、この程度の逆流ではまだ完全に息の根が止まらないらしい」
或は低く呟きながら、痛む右腕のサラシをもう一度きつく巻き直した。
生身の肉体に神話の理を強制接続した負荷は、或の神経の深部を依然として焦がし続けているが、その足元を支える大地は、もはや転生者たちのシステムに一方的に踏みにじられるだけの脆弱な土台ではない。或が血を流して刻み込んだ逆相ルーンの網目は、帝都の地下霊脈に確かな根を張り、この狂った世界に「人間が選択するための隙間」をこじ開けていた。
或は崩れかけた中枢エリアの床面からゆっくりと立ち上がり、煤色の瞳を遠くの出口へと向けた。
中枢エリアの床の亀裂を這う紫黒い微光は、先ほどまでの荒々しい脈動を失い、まるで息絶えた獣の神経のように痙攣しながら冷たい石畳の上で萎えていった。
天界の審判装置のコア端末の残骸から立ち上っていたオゾン臭混じりの白煙が、頭上の崩落した天井から流れ込む夜明け前の冷気に煽られ、薄汚れた灰色の渦となって宙に溶けていく。
賀茂の或は、その煙の向こうに転がる巨大な異形の塊を見据えた。
ヴォルフガング・リッターの肉体は、システムとの強制同期が断ち切られたことでその形状を維持できなくなり、灰色の粘土のように崩れている。その周囲に散らばる魔導ガントレット『フェンリルの牙』の残骸は、もはや魔力を失ったただの錆びついた鉄屑にすぎなかった。強大なチートスキルと理不尽な暴力を笠に着て世界を蹂躙した特権階級の処刑人は、泥臭い知恵と血の呪符によってその根幹から論理的に屈服させられた。
「……ハッ」
或は乾いた息を吐き出し、口元に付着した血を荒々しく手の甲で拭い去った。
右手のサラシの下に刻まれた青黒い呪印は、限界を超えたハッキングの負荷によって未だに焼けるような鈍痛を放っている。しかし、その痛覚そのものが、或がシステムに依存しない「生身の人間」としてこの現実に踏み留まっているという確かな証拠でもあった。
足元で不気味に明滅を続けていた最後の微光が、パチパチと乾いた小さな音を立てて完全に消滅する。
その瞬間、帝都第七特区の深部を覆っていた重苦しい霊的圧力が、まるで分厚い水面を突き破るようにして霧散した。上空の黄泉比良坂の裂け目から絶えず降り注いでいた冷酷な神気の階梯が途切れ、街の空気を支配していた凍てつくような寒さが急速に和らいでいく。
或は痛む右腕をかばいながら、崩れかけた黒曜石の床を踏みしめて一歩前へ進んだ。
その視線の先、中枢エリアの隅にある保守回線の出口へと続く鉄扉の隙間から、青みがかった夜明け前の光が微かに差し込んでいる。それは、神話の強制的な再構築によって閉ざされていたこの帝都に、本当の現実の時間が戻りつつあることを告げる最初の予兆だった。
(――……外の空気は、どうなっている)
或は低い足音を響かせながら、瓦礫の散らばる通路へと足を踏み入れた。
頭上の配管からは、もう高圧の電子ノイズは漏れてこない。代わりに、遠くの街路から聞こえてくるのは、防災無線の警報音ではなく、夜明けの訪れを告げるかすかな街のざわめきと、下水路を流れる冷たい水音だけであった。
或は保守回線の壁面に沿って歩を進め、古い配管室の隅に放置されていた麻の布袋と予備の木簡呪符を拾い上げた。
指先は震えていたが、呪符を扱う手並みに迷いはなかった。もしここで管理機構の残党や、システムの自己修復プログラムの余波が再び牙を剥いてくれば、用意した最後の血塗られた逆相ルーン呪符をいつでも起動させるための準備を整えておく。それが、泥の中で這いずり回る者たちの生存本能だった。
通路の曲がり角を抜けると、風祭鈴音と合流するために定めていた地下保守口の空間へと通じる鉄の格子戸が見えてきた。
その向こう側では、冷たい外気の流れに混じって、或の帰還を待つかのような静かな気配が微かに揺らいでいる。
或は足を止め、荒れた呼吸を整えると、右手首のサラシをもう一度だけ指先でしっかりと締め直した。
頭上でうねる黄泉比良坂の裂け目はまだその影を残しているが、その下で息づく帝都の街並みは、もはや神々の遊戯場ではなく、名もなき人間たちが自らの足で歩むための現実の土地へと変わりつつある。
或は煤色の瞳に冷徹な静寂を湛えたまま、夜明けの光が漏れる保守口の格子戸へと、重い足取りで歩みを進めた。




