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転生者たちがチートに酔いしれる世界で、俺だけは生身の知恵と和洋折衷呪術でラグナロクを阻止する  作者: あやと


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第28話 絶望の谷底と泥の記憶

賀茂の或の指先が、冷え切った石畳の隙間にこびりついた乾いた泥の塊を抉り取るように、深く爪を立てた。全身の骨格がきしむような激痛と、内臓の位置が狂ったかのような鈍重な圧迫感が、呼吸をするたびに肺腑を内側から引き裂く。自動回復の加護も、底知れぬ魔力タンクも持たない生身の肉体にとって、ヴォルフガング・リッターの放つ闘気の余波と容赦ない暴行は、生存の限界線を完全に踏み越えるに十分すぎる質量を伴っていた。


頭上でうねる黄泉比良坂の紫黒い裂け目が吐き出す瘴気は、学園の中央広場を覆う鉛色の雲と混ざり合い、冬空の冷気をさらに鋭利なものへと変えている。その冷気の中で、ヴォルフガングは魔導ガントレット『フェンリルの牙』の鋼鉄の爪をジャリリと鳴らしながら、這いつくばる或の背後へと歩み寄った。


「……しぶとい雑種だな」


ヴォルフガングの低く響く野太い声には、呆れと、それを遥かに凌駕する獰猛な愉悦が入り交じっていた。ヴォルフガングは巨大な手づかみで或の煤けた制服の襟元を無造作に掴み上げ、地面から軽々と宙へと引き剥がした。


視界が縦に激しく揺れ、或の煤色の瞳に、不敵な笑みを浮かべるヴォルフガングの巨体と、鉄柵の向こう側で青ざめた顔で見つめる生徒たちの姿が歪んで映る。

ヴォルフガングはぐったりと首を垂れた或の顔の前に顔を寄せ、その黄色い双眸を嫌らしく細めた。


「どれほど小賢しい相剋の理を並べ立てようが、お前のようなシステムすらない雑種が、このフェンリルの牙の前にひれ伏す運命は最初から決まっていたのさ。……おい、どうした? さっきまでの威勢のいい口利きはどこへ行った。その泥まみれの口で、もう一度何かほざいてみろよ」


ヴォルフガングの吐き出す熱い息が、或の冷え切った頬を打つ。しかし、或は痛みに顔を歪めながらも、その冷徹な煤色の瞳をわずかに細め、ヴォルフガングの腕の筋肉の微細な痙攣と、ガントレットの回路から漏れ出る魔力の波長を執念深く見据えていた。


(……くそ……やはり、正面からの出力差では、奴の魔力回路を内部からハッキングしきるだけの位相の余裕がない……。俺の肉体が持つリソースの限界か……)


或の心内での冷徹な計算回路は、自らの肉体が迎えている致命的な破綻の予兆を正確に告げていた。

システムという名の甘ったれた加護に依存し、努力や血を流すことなしに神話の暴力を振るう転生者たち。その圧倒的な理不尽の前に、或が積み上げてきた和洋折衷の呪符結界術と泥縄式のハッキングは、ついにその限界の壁に激突した。自動回復の働かない生身の肉体は、失われていく血液の温もりとともに急速に感覚を麻痺させていき、思考の輪郭が曖昧な霧の底へ沈みかけていく。


「ハハハッ、無言か! それとも、もう二度と立ち上がれないほどの絶望に頭を支配されたか!」


ヴォルフガングは面白そうに大笑いすると、ぐったりとした或の身体をそのまま広場の石畳の上へと投げ捨てた。

ドスッ、という重い鈍い音が凍てついた広場に響き、或は泥と血にまみれた顔を伏せたまま、ピクリとも動かなくなった。


その或の姿を見た鉄柵の向こう側で、風祭鈴音は両手を魔導拘束具で縛られたまま、その黒曜石の双眸に初めて鋭い怒りと焦りの色を走らせた。しかし、管理機構のエージェントたちに両脇を固められているため、一歩も前に出ることはできない。

また、鉄柵のもう一方の端では、死の女神ヘラの神気の暴走による絶対零度の霜を足元にまとったヘレナ・フォン・エッダが、青白く変色した唇を噛み締めながら、倒れ伏す或の姿を信じられないような眼差しで見つめていた。ヘレナの胸の内で暴れ回る冷たい呪いの痛みなど忘れたかのように、彼女の細い指先は鉄格子の冷たい金属を強く握りしめ、何かを叫ぼうとして声にならない息を漏らしていた。


――しかし、誰もがその場に絶望の沈黙を強いられる中、倒れ伏した或の意識の底では、記憶の断片が激しい旋風となって巻き上がっていた。


冷たい泥の匂いと、下水の腐敗臭。

そして、すべてが奪われたあの日の夜の記憶が、或の脳裏を容赦なく逆流していく。


幼少期、帝都第七特区南部の烏丸小路スラム街。

トタン屋根の隙間から冷たい雨が打ち付ける薄汚れた板の間に、或はうずくまっていた。かつて陰陽寮の下級官吏であった父親は、転生者たちの台頭によって職を追われ、酒浸りになりながらも夜な夜な古い北欧の伝承と陰陽道を書き殴ったノートを抱えたまま、ある日突然、黄泉比良坂から溢れ出したフェンリル級の魔獣の影に呑み込まれて消えた。病弱だった母親も、スラムの底でわずかな薬草と粗末な呪符を売り歩くうちに、冷酷な管理機構の重税と瘴気の澱みの中で息を引き取った。


食卓にあったのは、濁った水道水と、配給された硬い乾燥芋を塩辛い味噌汁でふやかしただけの泥臭い粥だけだった。

きれいな玩具も、転生者たちが持っているような発光する電子端末も、或の手に入ったことは一度たりともなかった。あるのは、スラムの片隅で拾い集めた虫食いの古文書の切れ端と、ボロ切れの和紙を折り畳んで作る不器用な式神の折り方だけだった。


(……親父が遺したノートの端くれには、東洋の五行と北欧のルーンが同じ根から生えていると書かれていた。……だが、どれほど知識を積み上げようが、どれほど血の滲むような思いで呪符を縫い付けようが、天からシステムという名のチートを授かった連中の前では、俺たちの努力なんて最初からゴミ屑と同じだというのか……)


意識の澱みの中で、或の指先が再び痙攣するようにピクリと動いた。

泥まみれの手のひらが、固い石畳の冷たさを痛いほどに捉える。

生きて、この理不尽な世界をひっくり返す。転生者どもを引きずり下ろし、汗と血を流す人間の営みこそが世界の真理であると証明する。そう誓って烏丸小路の泥水をすすり続けてきたはずだった。

だが、そのすべての執念と計算が、目の前の絶対的な暴力の前に、いま音を立てて砕け散ろうとしている。


システムを持たない。レベルという概念もない。加護も、奇跡も、運命の救済すらも、最初から或の手の中には存在しなかった。

あるのは、すり減った下駄の音と、血に染まった数枚のボロ切れの呪符だけ。


(……俺のやってきたことは、すべて間違いだったのか……? この冷たい地べたを這いずり回るだけの泥臭い生き様は、結局のところ、あの狂犬の一蹴りで踏み潰されるだけの無様な足掻きでしかなかったというのか……)


脳裏に広がるのは、すべての光が失われた底知れぬ絶望の谷底だった。

救いを求めるように心の中で反芻していた古の祝詞やルーンの詠唱は、もはや途切れ途切れのノイズと化し、心内から完全に消え去っていく。自己の無力感と、拭い去れない敗北の現実だけが、冷徹な霧のように或の意識のすべてを白く塗りつぶしていった。


その或の右手首の厚いサラシの下では、これまで絶望の淵に呼応するように激しく脈打っていた青黒い呪印が、まるで燃料を使い果たした残り火のように、ひときわ不気味な閃光を最後に放ったまま、急速にその熱を失い沈黙へと向かっていく。


神殺しの呪詛を宿す禁忌の回路すらもが、この圧倒的な絶望の前ではただの冷たい傷跡へと還っていくかのようだった。


「――どうした、これで終わりか? 散々大口を叩いておいて、結局最後は地べたを這いずるだけの小鼠だな」


ヴォルフガングは、微動だにしない或の姿を見下ろしながら、侮蔑の色をにじませた冷徹な嘲笑を投げつけた。


ヴォルフガングが冷ややかな鼻息を吐き捨て、倒れ伏す或の身体から無造作に視線を外したその時、凍てついた中央広場の空気は一層重く、澱んだ鉛色に沈み込んでいた。鉄柵の向こう側で身を寄せ合うネイティブの生徒たちは、もはや声をあげる気力すら奪われ、冷たい石畳の上に落ちる自分たちの影に怯えるようにうつむいている。


管理機構のエージェントたちが放つ威圧的な魔力の残響は、広場のあちこちで微細なノイズを上げながら明滅していた。その中で、両手を魔導拘束具で縛られた風祭鈴音は、首筋を締め上げられた痛みを堪えながら、足元に転がる銀色の神楽鈴へと冷ややかな視線を落としている。彼女の黒曜石の双眸には、或が泥の中に沈んでいく光景が映し出されていたが、その表情は諦めではなく、或が残した監査ログのデータが帝都全体の末端端末へと波及していく未来への確信を、かろうじてつなぎ止めるかのような静かな硬質さを保っていた。


――だが、肝心の或自身の意識は、冷酷なまでにその現実から切り離されようとしていた。


脳裏の奥底で、モノクロームの霧が何重もの渦を巻いて広がる。視界の端にあったはずの色彩はすでに失われ、見えるのは冷たい石畳の幾何学的な模様と、自らの傷口から滲み出して凍りつき始めた赤黒い染みだけだった。呼吸のたびに胸の奥で鋭い痛みが走るが、それすらも遠くの出来事のように輪郭が曖昧になっていく。


(……そうだ。俺の肉体は、ただの生身の器にすぎない……。転生者どものような、あらかじめ神話の加護で満たされた特権的な魔力タンクなど最初から持っていなかった……)


心内の独白は、千切れた糸のように途切れ途切れとなり、思考を組み立てるための冷徹な計算回路すらもが霜に覆われるように凍りついていく。かつて烏丸小路スラム街の暗渠の底で、両親の温もりを失った夜に覚えた絶対的な孤独感が、再び冷たい津波となって或の魂を押し包んだ。


どれほど古のルーン文字を学び、どれほど正確に東洋の五行の理を和紙に縫い付けようとも、天から降ってきたシステムという理不尽な物量の前では、人間の手で紡がれる知恵など砂上の楼閣にすぎなかったのだという敗北感が、心の底の最も深い場所に重く沈み込んでいく。


助けを求める周囲の叫び声や、ヴォルフガングが周囲のエージェントたちへ放つ傲慢な指示の言葉は、まるで水面の下から響いてくるように濁った残響となって或の耳をかすめるだけであった。もはや他者との繋がりを保つための気力は一切残されておらず、或は完全に孤絶した絶望の谷底へと一人きりで突き落とされていた。


しかし、その意識が完全に途絶える寸前の暗闇の中で、或の右手の指先が、冷え切った石畳の硬い溝をもう一度だけ痙攣するようにわずかに引っかいた。


凍てついた中央広場の石畳に打ち捨てられた賀茂の或の肉体は、もはや自重を支えることすらできず、重力に従うだけの冷たい質量と化していた。煤色の制服の背中は自らの血と路地の泥にまみれ、呼吸のたびに胸の奥でひしゃげた肋骨が肺胞を突き刺すような鋭い痛みを訴える。それでもなお、或の右手の指先は痙攣するような細かな震えを伴いながら、足元の硬い石の割れ目を必死に掴み続けようとしていた。


その或の無様な有様を冷ややかな視線で見下ろしていたヴォルフガング・リッターは、ガントレットの牙を鳴らしながら鼻で冷たく笑い飛ばした。


「おいおい、いつまでその泥水を這いずり回るつもりだ、雑種。お前のその足掻きを見ていると、踏み潰された虫けらが最後に残す痙攣と何ひとつ変わりやしないぞ」


ヴォルフガングの嘲笑の響きは、鉛色の空の下で凍りついた生徒たちの怯えた沈黙の中に深く吸い込まれていった。管理機構のエージェントたちは周囲の警戒網を固めたまま微動だにせず、鉄柵の向こう側で風祭鈴音は両手の拘束具を食い込ませながら、その冷徹な黒曜石の双眸で石畳の上の或を凝視し続けている。


或の脳裏に広がるモノクロームの暗闇の中では、かつて烏丸小路スラム街の暗渠の底で聞いた雨の音が、激しい耳鳴りと混ざり合って幾重にも反響していた。

システムという名の絶対的な加護を持たず、ただ古びた古文書の切れ端と自らの血だけを頼りに這い上がってきたこれまでの日々が、走馬灯のようにではなく、ただ砕けた瓦礫の破片のように次々と意識の底を掠めていく。

――親父が遺したあの虫食いのノート。北欧のエルダー・ルーンの破壊の刻印と、東洋の五行の相生相克が、いかに美しく理路整然と結びついていようとも、今この現実に突きつけられた圧倒的な暴力の物量の前では、紙切れ一枚の軽さと何ら変わらなかったというのか。


(……そうだ。俺のやってきたことは……最初からすべて、神々の遊戯盤の上で踊らされていただけの無意味な道化芝居にすぎなかったというのか……)


胸の内に澱むのは、救いようのない空虚感と、全身の神経を痺れさせるような耐えがたい倦怠感であった。

助けを求める周囲の気配も、ヴォルフガングの足音が立てる冷徹な鉄の響きも、もはや或の意識の境界線の外側へと押し流されていく。心内でかろうじて形を保っていた古の陰陽道の祝詞や、ルーンの相剋を逆算する冷徹な計算回路も、完全に水底へと沈み込んで途絶えてしまった。


もはや、立ち上がるための理由はどこにも残されていなかった。

全身の骨が悲鳴を上げる肉体の限界と、自らの知恵の無力さを突きつけられた精神の完全な崩壊が、或をすべての光が届かない絶望の谷底へと深々と突き落としていく。


冷え切った石畳の上に投げ出された或の指先から、最後に残っていた力がゆっくりと抜け落ちていった。


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