第26話 フェンリルの牙が砕く空間
賀茂の或は頭上の気配を読みに沈め、床板の隙間に指を掛けた。
旧図書館の冷気が一層重く床下を這い、凍りついた古書の破片が軋む音が頭上をよぎる。ヴォルフガング・リッターの巨体が最奥へと踏み込み、ヘレナの放つ絶対零度の領域に足を踏み入れた瞬間、空間そのものが軋むような異質な高圧が立ち込めた。或は右手首のサラシの下で脈打つ青黒い呪印の疼きを無視し、息を殺して起爆ノードに添えた指先に力を込める。
「――今だ」
或が床板の継ぎ目に差し込んだ木製呪具を押し込むと同時に、東洋の『火生土』の相生と北欧の『ハガラス』の破壊刻印が逆相で激しく噛み合った。床下の保守配線から迸った霊的スパークが、仕込んでおいた特殊な生薬と相まって、一瞬にして猛烈な気化熱と濃密な白煙の爆風を引き起こす。
ドウンッ、と旧図書館の床下を突き上げるような低い破裂音が轟き、最奥の空間は瞬く間に視界を完全に奪うほどの炭素粒子と高熱の白煙に包み込まれた。
「ふん、小賢しい真似を……!」
白煙の向こう側から、ヴォルフガングの野蛮な怒声が響いた。視界を遮る濃密な爆煙と気化熱の壁に対し、ヴォルフガングは一歩も引くことなく、両腕に装着した魔導ガントレット『フェンリルの牙』の爪を激しく噛み合わせる。その金属音が不気味な火花を散らすと同時に、ヴォルフガングの身体から放出された圧倒的な闘気の奔流が、暴風のような旋風となって周囲の白煙を丸呑みするかのように一気に掻き消した。
或が計算し尽くして作り出したはずの視界妨害の白煙は、狂犬の放つ暴力的な質量と闘気の前に、まるで朝霧のように跡形もなく吹き飛ばされた。
「視界が晴れたところで、それがどうしたというんだ、雑種!」
白煙を切り裂いて姿を現したヴォルフガングの黄色い双眸が、床下の隙間から這い出ようとしていた或の姿を捉えた。その野性的な直感は、或が仕掛けた罠の起点がどこにあるかを一瞬で見抜いていた。ヴォルフガングは凄まじい脚力でコンクリートの床を踏み砕き、音速を超える速度で或のいる床下スペースの真上へと飛びかかった。
ガシャアアッ! と、激しい破壊音とともに、或が足場としていた床下の木製パネルと保守配線のグリッドが、魔導ガントレットの一撃によって粉々に粉砕された。
「っ……!」
或は咄嗟に身を翻し、崩れ落ちる破片の隙間から暗渠の横道へと転がり出るようにして回避したが、爆風と衝撃波の余波が或の肩口を直撃した。自動回復の加護を持たない生身の肉体は、その強烈な打撃を受けてコンクリートの壁面に激しく叩きつけられ、口元から熱い鮮血が零れ落ちる。
「逃げ回るのが取り柄の小鼠か。だが、もうその逃げ道もここまでだ」
コンクリートの破片が細かな塵となって旧図書館の冷気の中に舞い散る中、賀茂の或は壁面に背中を預けたまま、必死に乱れる呼吸を整えていた。口元から零れ落ちた鮮血が、制服の襟元と凍てついた床面を赤く汚していく。自動回復の加護も、底知れぬ魔力タンクも持ち合わせない生身の肉体にとって、ヴォルフガング・リッターの放つ闘気の余波は、内臓の位置を無理やりずらすほどの圧倒的な質量を伴っていた。
右手首の厚いサラシの下で脈打つ青黒い呪印が、衝撃の反動に共鳴するかのようにジリジリと熱を帯び、神経の深部を引っ掻くような鈍痛を放ち続けている。しかし、或は奥歯で舌の側面を強く噛みしめ、その鉄錆の味を唯一の錨として意識の混濁を冷徹に押し戻した。
「……さすがに、あの怪物の直撃をまともに受ければ、骨の髄まで砕け散るか」
或は低いトーンで独りごちながら、崩れた床下の隙間から這い出るようにして姿勢を立て直した。視線の先では、魔導ガントレット『フェンリルの牙』を装着したヴォルフガングが、巨大な獣のような巨体を揺らしながらゆっくりと歩みを進めている。その銀色の短髪は爆風の余波でわずかに乱れていたが、その黄色い双眸に宿る狂気的な闘気は、先ほどよりもむしろ密度を増してギラギラと輝いていた。
ヴォルフガングは砕けた床板の破片を長靴のつま先でぞんざいに蹴り飛ばし、低く野太い笑い声を響かせる。
「ガハハハッ! いいぞ、今の爆風は少しだけ俺の退屈を紛らわせるには足りたらしい! だがな、小鼠、そんなちっぽけな気化熱の罠ごときで、このフェンリルの牙の突撃を止められると本気で思っていたのか?」
ヴォルフガングはそう言い放つと、両腕のガントレットの爪同士を激しく噛み合わせ、周囲の空気を引き裂くような耳障りな金属音を立てた。その金属の擦れ合う火花が、凍てついた旧図書館の暗がりの中で青白く明滅する。強大な魔力の奔流をその肉体に宿した転生者特権階級の処刑人にとって、或が泥を這いつくばって構築した五行の相生相克の罠など、ただの子供の悪戯に等しかった。
しかし、或はそんなヴォルフガングの圧倒的な威圧感に怯えるどころか、むしろその冷徹な煤色の瞳を細め、敵の足元と周囲の構造物を隙のない眼差しで観察し続けていた。
(……やはり、正面からの相剋によるハッキングでは、あのガントレットの物理的出力を完全に殺しきることはできないか。奴の肉体に蓄積されたフェンリルの神気は、通常の相生の理を外側から食い破るほどの質量を持っている)
或の脳裏で、これまでの戦闘で得られたデータと現在の状況が高速で計算されていく。このままでは、次の死の一撃が放たれた瞬間に、或の防衛網はすべて木端微塵に粉砕される。だが、或はまだ手札をすべて失ったわけではなかった。
最奥の暗がりでは、絶対零度のフィールドを放ち続けていたヘレナ・フォン・エッダが、頭を抱えて崩れ落ちた書架の残骸にもたれかかるようにして小さく身を震わせていた。彼女を内側から蝕む死の女神ヘラの神気は、ヴォルフガングの放つ闘気と共鳴するかのように、不気味な黒い霊力の波動を絶えず脈打たせている。このままでは、ヘレナの暴走とヴォルフガングの暴力が互いを触発し合い、旧図書館の基盤そのものが崩壊して烏丸小路スラムの路地ごと黄泉比良坂の底へ引きずり下ろされる最悪の連鎖が完成してしまう。
(……時間がない。奴の注意が完全に俺に向いているこの瞬間に、あの床下に仕掛けた最後の予備回路を起動する)
或は痛む右手を左手で強く押さえ込み、音を立てないように慎重に懐の奥へ指を滑り込ませた。そこには、古い霊木にエルダー・ルーン文字の破壊と拘束の刻印を刻み込んだ「手製の呪木」と、最後の一枚となった「血塗られた逆相ルーン呪符」が収められている。
ヴォルフガングは或の細かな手の動きを鋭い野性的な直感で察知し、その獰猛な笑みをさらに深く歪めた。
「おいおい、まだ何か隠し持っているのか? その血まみれのボロ切れをいくら並べ立てようが、お前のような雑種が積み上げた小細工など、俺の牙の前にはただの紙屑と同じだ。――そろそろお遊びは終わりだ、雑種。その頭蓋ごと、綺麗に噛み砕いてやるよッ!」
ヴォルフガングが凄まじい闘気を爆発させ、再び音速を超える踏み込みで或へと突進を開始した。魔導ガントレットの爪が空間の魔力を引き裂き、周囲の空気が激しくうねる。
逃げ場のない圧倒的な暴力が、一瞬にして或の鼻先へと迫る。
その絶対的な死の気配のなかで、或は奥歯で舌の側面を強く噛みしめ、最後の呪符を握りしめた指先に全霊の魔力を込めた。
(――今だ。この位相のずれを、相剋の網目で完全に貫く!)
突進の勢いに伴う気圧の変化が、或の頬の皮膚を刃物のように切り裂いた。魔導ガントレット『フェンリルの牙』の爪が放つ銀色の光が、旧図書館の薄暗い天井の梁を不気味に照らし出す。
(――間に合う、か)
或の煤色の瞳に映るヴォルフガングの巨体は、すでに眼前まで迫っていた。しかし、その圧倒的な速度と質量に対抗するため、或はあらかじめ計算に入れていた床下の保守回線に左手を突っ込み、指先で木製の呪具の起爆ノードを力強く弾いた。
ガシャアアッ、と、先ほどまで或が背中を預けていた壁面のコンクリートが、ヴォルフガングの放った一撃によって完全に抉り取られ、膨大な瓦礫の破片が四方八方へと飛び散る。直撃こそ免れたものの、発生した凄まじい衝撃波が或の肉体を激しく押し飛ばし、或は凍りついた床面を転がるようにして数メートル先へと弾き飛ばされた。
「ぐっ……!」
咽喉の奥からせり上がってきた血の塊を、或は荒い息とともに歯を食いしばって飲み込む。自動回復の加護などない生身の肉体が受けた代償は大きかったが、その泥にまみれた右手が握りしめていた「最後の一枚の血塗られた逆相ルーン呪符」は、しっかりと掌の中で異様な熱を帯びて脈打っていた。
「ガハハハッ! 逃げ足だけは一人前だな、雑種! だが、その足掻きがいつまで持つか見ものだぜ!」
ヴォルフガングは追撃の手を緩めず、ガントレットの爪から迸る闘気をさらに引き絞り、次なる突撃の姿勢へと移行する。その背後では、ヘレナ・フォン・エッダが放つ絶対零度のフィールドがさらに拡大し、床面の氷が幾何学的な結晶を広げながら旧図書館の基礎構造を内側から凍てつかせていっていた。
(……奴の闘気の密度が上がった分だけ、ガントレットの内部回路に生じる魔力の歪みも大きくなっている。どれほど圧倒的な暴力の化身であろうと、基礎の配線を逆相で引っぱたかれれば、内部から崩壊するという理屈に変わりはない)
或は痛む全身の関節を強引に動かし、床面に散らばった崩れた木簡の破片と血塗られた逆相ルーン呪符を素早く拾い上げた。頭上でうねる黄泉比良坂の裂け目から零れ落ちる瘴気と、冷酷な死の女神ヘラの気圧階梯が混ざり合い、空間そのものが軋むような重圧を放ち続けている。
もはや正面から戦うためのリソースは残されていない。だが、この極限の崩壊状態を利用し、烏丸小路スラムの地下水脈へと通じる保守回線のアンカーを逆相で共鳴させることができれば、あの狂犬の野蛮な突撃を一時的にでも足止めし、この包囲網の網目をすり抜けるための決定的な隙を作り出すことができる。
或は血に染まった呪符をしっかりと握り締め、凍てついた床面に片膝をついたまま、不敵で冷徹な笑みをその唇の端に浮かべた。
(――さあ、特権階級の処刑人よ。お前のその無敵の牙が、俺が仕掛けた泥臭いハッキングの網目でどこまで砕け散るか、最後までたっぷり見せてやるよ)
頭上でヴォルフガングが放つ狂気的な咆哮が旧図書館のドーム状の天井を震わせる中、或は静かに次の呪文の詠唱をその肺腑の奥底へと沈めていった。




