第11話 学園管理ネットワークの隙間
夜の深まりとともに大和皇国・帝都第七特区の輪郭は冷徹な鉄色へと変貌していった。烏丸小路スラム街の濁った暗渠を渡る風は、高層ビル群がそびえる表通りの洗練された喧騒をすべて削ぎ落とし、ただ湿った泥と古いトタンの錆びた匂いだけを賀茂の或の鼻腔に運んでくる。或は古びた陰陽寮制服の襟元をしっかりと合わせ、右手首のサラシの下で脈打つ青黒い呪印の重苦しい疼きを奥歯で舌の側面を噛み締めることで鈍らせながら、静かに歩を進めていた。
風祭鈴音との間で結ばれた実利的な隠密同盟の残香が、懐にしまった木製のマスターキーの模造品から微かに漂ってくる。冷たい月光がアスファルトの表面に薄く広がった霜を照らし出す中、或は周囲の視線と自動警戒ドローンの魔導センサーの届かない路地裏の影を選び、皇神学園の巨大な敷地を囲む外壁へと近づいていった。
学園の外周には、転生者管理機構が誇る高位の位相結界が幾重にも張り巡らされている。表向きの正門や主要な出入口は、常にシステムに直結した自動防衛グリッドが稼働しており、生身の人間が足を踏み入れれば一瞬で存在そのものが炙り出される仕組みになっていた。しかし、鈴音から譲り受けたマスターキーの模造品には、かつてのネイティブたちが遺した古い呪術回路の周波数が精巧に刻み込まれている。
賀茂の或は外壁の影に身を寄せ、指先で木製の鍵の表面に刻まれたエルダー・ルーンの刻印をそっと撫でた。
「……システムがどれほど高尚な自動防御の網を張り巡らせていようが、その足元を支える保守用の配線が古びたネイティブの呪術回路に依存している以上、裏口の位相を逆算してこじ開けるのは難しくない」
或は低く呟くと、懐から一枚の血塗られた逆相ルーン呪符を取り出し、外壁の継ぎ目に走る古い霊的配線のノードへと慎重に押し当てた。
東洋の五行相生相克の理における「水」と「木」の循環をあえて逆相でねじり、学園の監視網が放つ魔力の周波数と同化させる。ジジジと嫌な乾燥音が微かに響いたが、或が奥歯で噛み締めた舌から伝わる鉄の味を頼りに霊力の出力を微調整すると、頑丈な位相結界の壁面にわずかな隙間――情報の出入りが途切れる盲点の空間がぷつりと浮かび上がった。
或はその隙間に身を滑り込ませ、音もなく皇神学園の敷地内へと足を踏み入れた。
敷地内の空気は、外側のスラム街とは異なり、不自然なほどに管理された冷徹な浄化魔力に満ちていた。手入れの行き届いた中庭の植え込みや、西洋風の壮麗な建築様式が組み合わされた学園管理棟のシルエットが、夜闇の中に冷たくそびえ立っている。しかし、その華やかな表側のデザインの裏側では、或の右手首の呪印が帝都全体の魔導インフラの狂ったノイズを拾い集め、神経の深部をチリチリと焼き焦がすような鈍痛を放ち続けていた。
(……ここから先は、管理機構の監視ログが最も密集する旧生徒会棟の裏口だ。鈴音の言っていた通り、表向きのセキュリティが強固であればあるほど、保守用の裏配線に生じるエラーの振れ幅も大きくなる)
賀茂の或は建物沿いの暗がりを選び、足音を完全に消しながら旧生徒会棟の裏口へと回り込んだ。
目の前には、分厚い鉄製の保守用扉が重々しく閉ざされている。通常であれば高位の識別コードを持った転生者しか開けることのでえないその扉の鍵穴に、或は鈴音から受け取った木製のマスターキーの模造品をゆっくりと差し込んだ。
カチリ、と古い歯車がかみ合うような乾いた音が響く。
木製の鍵に刻まれたエルダー・ルーンの刻印が青白く一瞬だけ発光し、鉄の扉を縛り付けていた魔導ロックの位相が内部から綺麗に相殺された。或が軽く押し込むと、音もなく扉が内側へと開き、中から冷え切った電子機器の排気熱と、オイルの混じった人工的な臭いがふわりと流れ出してきた。
或は身をかがめて内部へ滑り込み、重い扉をそっと元の位置に戻して内側から施錠した。
旧生徒会棟の内部は、外の静けさとは打って変わって、微細な電子音と魔導端末の駆動音が絶え間なく反響する空間であった。廊下の天井に設置された古い空調ダクトや、壁面に剥き出しで這わされた魔導配線の束が、青白いインジケータの光をチカチカと明滅させている。或は周囲の視線を避けるように通路の陰へ身を潜め、懐から取り出した古びた木簡呪符の束を指先で軽く弾いた。
その時、頭上の通気口から、聞き覚えのある傲慢な高笑いと、低く威圧的な話し声が降ってきた。
「――おい、ヘレナ。今回の特区中央での空間崩壊の件、管理機構の本部から回ってきた始末書の割り振りはどうなっている。このままだと、私たちの管理区画から算出される魔力搾取のノルマにまで穴が空ちまうぞ」
「ちょっと、そんなに大声を出さないでよ、ヴォルフガング……! あの時のバカげた暴走のせいで私の純白のコートは泥だらけになったし、精神的な疲労だってまだ回復しきってないんだからね。それに、下級生の割り振りの調整なんて、あなたみたいな筋肉バカが適当に書類を書き換えておけば済む話じゃないの」
賀茂の或は息を呑み、足元の影にさらに深く身を沈めた。
声の主は、神格化同盟の下級幹部として学内の実権を握るヘレナ・フォン・エッダと、その側近として振る舞う特務部隊の面々であった。少し離れた場所にある生徒会棟2階の記録管理室の内部で、彼らは学内の一般生徒から徴収する魔力ポイントの割り振りや、特区南部のスラム街へ割り当てるはずの復旧予算のデータを不正に操作している最中らしかった。
記録管理室の開け放たれたドアの隙間から、青白い端末の光が廊下の床に細長く漏れ出している。
室内の中心には、帝都全体の魔導インフラと直結した巨大なメーン端末が鎮座し、その周囲でヘレナが不機嫌そうにプラチナブロンドの髪をかき上げながらキーボードを叩いていた。その傍らでは、ヴォルフガングの影を思わせる巨体の男が、魔導ガントレットの爪を時折カチリと噛み合わせながら、退屈そうに書類の束をめくっている。
(……連中め、烏丸小路の住民から吸い上げた魔力をさらに上層の実験炉へ回すための不正操作を、こんな夜中に平然とやっているというわけか。システムに選ばれた特権階級様がやることは、いつだって自分たちの利権の泥仕合だな)
賀茂の或は冷徹な煤色の瞳を細め、胸中で静かに毒づいた。
直接的な暴力で彼らを叩きのめすことは今の目的ではない。先ほどの交差点での戦闘で或の肉体が負った消耗は小さくなく、ここで無駄な正面衝突を起こせば、学園全体の警備網を完全に呼び寄せる結果になる。しかし、彼らが今まさに操作している不正な魔力搾取の端末こそが、或がこの生徒会棟へ潜入した最大の標的であった。
或は音を立てぬように靴底の感触を殺し、壁の影伝いに記録管理室の開いた窓の真下へと這い寄った。
部屋の奥では、ヘレナが冷ややかな笑みを浮かべながらメーン端末の画面を叩いている。
「ふん、下級民どもがどうなろうと知ったことじゃないわ。私たちが神話の再構築を進めるためのエネルギーさえ足りていれば、この学園の生徒なんて全員ただの消耗品にすぎないんだから。……ねえ、そう思わない?」
「ガハハ、その通りだ。文句があるなら、あの雑種の陰みたいにこの手で踏み潰してやればいいのさ」
ヘレナの傲慢な台詞とヴォルフガングの野卑な笑い声が、夜の静寂を切り裂くように室内に響く。
その隙を或は微塵も逃さなかった。ヘレナとヴォルフガングが端末のディスプレイから視線を外し、部屋の反対側にある保管庫のほうへと歩みを進めた瞬間、或は素早く窓の隙間に身体を寄せた。
或の右手には、鈴音との共同作業を想定して仕込んでおいた特製の「木簡呪符」が握られていた。
その表面には、東洋の五行の相生関係と北欧のエルダー・ルーンの破壊刻印が極めて微細な線で彫り込まれており、システムの中枢回路に直接滑り込ませることで、データの論理構造を根本から狂わせるための致命的な「エラーの芽」が仕込まれている。
(……システムがいかに強大な絶対性を誇っていようが、そのデータの出入り口である排気口の物理的構造まで神格化されているわけじゃない。泥臭い手製の木簡一枚で、その甘ったれた管理ネットワークの歯車を盛大に噛み砕いてやれる)
或は息を潜め、メーン端末の冷却用排気口のグリッドめがけて、木簡呪符を滑らかな手つきでシュッと投げ入れた。
カチリ、と内部の金属製ファンに木簡の端が軽く触れ、微弱な霊的スパークが青白い光を放って内部へと吸い込まれていく。
次の瞬間、メーン端末の巨大なディスプレイ画面が不気味な赤紫色のノイズに一瞬だけ包まれ、データの流れる速度がガクンと落ちた。
「……ん? なんだ今の……?」
ヘレナが不審そうに足を止め、自分の操作していた端末のキーボードを激しく叩き直した。しかし、或が仕込んだ木簡呪符はすでに端末の内部回路の深部へと溶け込み、全校生徒の魔力搾取ログと不正な割り振りのデータ構造を内部からじわじわと書き換え始めていた。
「どうした、ヘレナ。システムのエラーか何かか?」
「わからないわ……急にデータの同期処理が重くなって、さっき書き換えたはずの烏丸小路の搾取ノルマの数値が勝手に変動してる……! ちょっと、これじゃあ明日の朝礼の時に全校生徒向けの監査ログへデータが跳ね返りかねないわよ……!」
ヘレナの青い瞳に、わずかな動揺と焦りの色が浮かび上がった。彼女の背後でヴォルフガングも眉をひそめ、巨体の腕を組みながら端末の画面をのぞき込む。これまで絶対的な優位と特権に酔いしれてきた彼らにとって、自分たちの管理するシステム内部で起きた小さな異変は、想像以上の恐怖と不条理の足音として感じられたはずだった。
だが、彼らがその原因を突き止めるより早く、或はその場から音もなく身を翻していた。
「……見えないネズミがどこかに紛れ込んでいるようね……っ! おい、誰かいないの、このフロアのセキュリティを再スキャンしなさい!」
背後でヘレナの鋭い叫び声が響き渡る中、賀茂の或は旧生徒会棟の裏口の扉を音もなくすり抜け、夜の冷気が立ち込める中庭の影へと完全に姿を消していた。
中庭の冷たい夜気は、旧生徒会棟の内部から漂ってきた人工的なオゾンと機械油の臭いを洗い流すように、或の肺腑に冷たく染み入った。
植え込みの深い影に身を潜めた賀茂の或は、背後で微かに響くヘレナの鋭い叫び声と、慌ただしく駆け回る警備ドローンの駆動音を耳にしながら、右手首のサラシを無意識のうちに指先でキツく巻き直した。半神半魔の崩壊の名残である青黒い呪印は、端末の排気口へ木簡呪符を滑り込ませた瞬間の反動を受けてか、まるで生き物のようにジリジリと熱を帯びて皮膚を引っ掻いている。
(……騒ぎになるのは時間の問題だな。だが、奴らがそのエラーの出所を探っている間に、こちらの仕込んだノイズはすでに学園全体の地下配線へ染み渡っている)
或は煤色の瞳を細め、旧生徒会棟の外壁から離れて、皇神学園の敷地内を巡る暗い通路へと足を踏み出した。
夜の学園は一見すると静まり返った優美なキャンパスの装いを保っているが、その足元を支える地脈と魔導インフラの網目は、或が仕込んだ木簡呪符のノイズによって確実に内側から蝕まれ始めていた。表向きのシステムは完璧な管理体制を誇示しているものの、その実態は、現地人から搾取した魔力と都合の良い数字の帳尻合わせで辛うじて継ぎ合わされた、ひび割れた器にすぎない。
或は周囲の警戒網を欺くために、再び懐から一枚の隠蔽用の呪符を取り出し、自らの生体磁場を周囲の空間の位相と同化させた。
下駄の音を一切立てず、建物の影と暗渠の冷気が漂う排水溝の脇を縫うようにして、或は学園の外へと通じる抜け道へ向かって慎重に移動していく。
ふと、学園の中央広場を通りかかった時、或は足を止めた。
広場の中央には、転生者管理機構が建立した巨大な「神代回廊のモニュメント」がそびえ立っている。純白の大理石と発光するクリスタルで作られたその美しい建造物は、夜空に浮かぶ黄泉比良坂の紫黒い裂け目の下で、冷たい青白い光を絶えず放ちながら、帝都全体を威圧するかのように君臨していた。モニュメントの周囲には、自動警戒ドローンが一定の間隔で旋回し、そのカメラアイは少しの不正も見逃すまいと鋭い光を放っている。
モニュメントの真下に立つと、或の右手首の呪印が先ほどよりも一段と強く脈打った。
地下深くから這い上がる古の地脈のうねりと、モニュメントの頂点から放たれるシステム魔力の周波数が、或の肉体に刻まれた神殺しの呪詛を呼び覚ますかのように激しく共鳴している。それは、生身の人間が踏み込領域の境界線を知らせる警告のようでもあった。
「……神の奇跡だの、システムによる救済だのと言い張る連中が作り上げた城壁も、結局はこういう冷たい石と、俺たちが血を流して搾り取られた魔力の残滓で出来ているにすぎない」
或はモニュメントの冷たい影に向かって、低く乾いた笑いを漏らした。
恐怖や気後れなどという感情は、烏丸小路スラム街の泥水の中で両親を奪われた幼い日々にとうにすり潰して置いてきた。今ここにあるのは、理不尽な神話の暴力と不条理な特権階級の仕組みそのものを、自らの手で作った泥縄式の呪符とハッキングで根底から引きずり下ろすという、冷徹で揺ぎない意志だけである。
或は視線をドローンの軌道から外し、再び外壁の継ぎ目に作った小さな隙間へと身を滑り込ませた。
皇神学園の位相結界を抜け出し、冷え切ったスラム街の夜気へと戻った瞬間、肌を刺すような泥炭の悪臭が再び或を包み込んだ。
頭上でうねる黄泉比良坂の裂け目は相変わらず不気味な紫黒の瘴気を吐き出し続けているが、その下で暮らす人々の営みは、明日も変わらず過酷な労働と泥臭い生存の繰り返しに満ちている。或は自分が仕込んできたエラーの芽が、翌朝の朝礼という決定的な瞬間にどのような波紋を広げるのかを静かに噛みしめながら、足取りをさらに速めた。
或が身を隠す烏丸小路スラム街の廃屋――その暗がりへと戻る道すがら、夜明け前の冷たい静寂の向こう側から、遠くの教会堂の鐘が鈍い音を立てて響き渡った。
その響きは、甘ったれた神話の時代が終わりを告げ、血と知恵の交錯する現実の朝が確実に近づいていることを告げる、静かなる予兆の音色であった。或は懐の奥にしまったマスターキーの模造品にそっと触れ、荒れた路地裏の深い影の中へと完全に溶け込んでいった。




