第12話 生徒会棟の朝礼パニック
遠くの教会堂の鐘の音が、鉛色の雲が垂れ込める帝都第七特区の朝の空気を重く揺らした。
黄泉比良坂の紫黒い裂け目が吐き出す凍てつく瘴気は、夜明けの光をも濁らせ、皇神学園のそびえ立つ白亜の校舎群の表面に薄く青白い霜の結晶を張り付かせている。午前八時を告げる電子チャイムの代わりに、旧式を模した重厚なブザー音がキャンパス全体に響き渡ると、中央広場を取り囲むようにして制服姿の生徒たちがぞろぞろと集まり始めた。
賀茂の或は、その群衆の波のなかに紛れ込むようにして、中庭の隅に植えられた枯れかけた街路樹の影に立っていた。
血と泥に汚れた陰陽寮の制服ではなく、風祭鈴音を介して手に入れた一般生徒用の余剰品である濃紺のブレザーを纏い、或は右手首のサラシの下でズキズキと熱を帯びる青黒い呪印の痛みを奥歯で舌の側面を噛みしめることで押し隠している。昨夜、旧生徒会棟の記録管理室の排気口へ滑り込ませた木簡呪符は、帝都全体の魔導インフラを伝って神格化同盟の中枢回路へと完全に溶け込んでいるはずだった。
(……そろそろだ。昨夜仕込んだエラーの芽が、あの甘ったれた神民どもの管理端末でどのような悪夢を咲かせるか)
或は煤色の瞳を細め、中庭の中央にそびえ立つ神代回廊のモニュメントを見据えた。
モニュメントの周囲には、全校生徒を整列させるために自動警戒ドローンが低空で旋回し、不気味な電子音を立てながら青白いスキャン光を生徒たちの頭上に浴びせかけている。特権階級である転生者たちは一般の生徒から一歩引いた特等席――旧生徒会棟のテラスや講堂のバルコニーに陣取り、冷ややかな優越感を漂わせながら下の群衆を見下ろしていた。その最前列には、純白のゴシック風コートを身にまとったヘレナ・フォン・エッダの姿と、その傍らで腕を組む巨体のヴォルフガング・リッターの姿が確認できる。ヘレナは昨夜の暴走による疲労の色をわずかに残しながらも、相変わらずの高飛車な姿勢を崩さず、プラチナブロンドの長髪を冷たい風になびかせていた。
朝礼の開始を告げる学園長の形式的な挨拶が構内のスピーカーから流れ始めたその瞬間、異変は前触れもなく訪れた。
キィィィン……という、金属板を鋭利な刃物で引っかいたような耳障りな高周波のノイズが、キャンパス中に設置されたすべての魔導スピーカーと電子黒板から一斉に爆ぜた。
「なっ……なんだ今の音は……!?」
周囲で私語を交わしていた一般の生徒たちが驚愕して耳を塞ぎ、どよめきの波が中庭の群衆全体へと瞬く間に広がっていく。スピーカーの出力回路は焼き切れる寸前のような激しいスパーク音を立て、青白いインジケータの光が明滅から完全な赤色へと切り替わった。
中央広場にそびえる数基の巨大な電子黒板――普段は転生者管理機構の輝かしい功績や、生徒たちから徴収される魔力ポイントのランキングを優雅に映し出しているその画面が一斉に激しく乱れた。
パチパチと青白い火花が散り、システム全体の管理画面が崩壊していくような幾何学的なエラーコードの奔流が画面の表面を埋め尽くす。そして、そのノイズの合間に、神格化同盟の幹部たちが絶対の秘密として隠し続けていた「不正な魔力搾取のログ」の断片が、信じられないほどの解像度で全校生徒の目の前に大写しとなった。
『――区画ID:K-07烏丸小路スラム……霊力供出税割り振り超過……転用先:神代回廊実験炉……』
『――不正処理主体:生徒会役員ID-H.E.(ヘレナ・フォン・エッダ)……同期エラー発生率:98.4%……』
画面に映し出された数値の文字盤は、下級民から強制的に吸い上げた魔力の総量が上層の実験炉へ際限なく横流しされている実態を赤裸々に暴き出していた。さらに、各転生者たちがシステムから不正に割り当てられているチートスキルの維持コストが、一般生徒たちの微弱な魔力ポイントの強制徴収によって支えられているという生々しい裏の会計データが、中庭の全方位のディスプレイに容赦なく露呈したのである。
「おい……なんだこれ……? 俺たちのポイントが勝手に削られてるって……どういうことだよ……!?」
「嘘だろ……? 特権階級の連中が使ってるあの強力なスキルの維持費、全部俺たちの魔力から引かれてたってのか……!?」
一般の生徒たちの間に、これまでにない激しい動揺と怒りのざわめきが爆発的に広がった。
これまで「神に選ばれた特権」として無条件に崇め奉られてきたシステムの実態が、あまりにも露骨な搾取の構造として目の前に突きつけられたのだ。生徒たちは恐怖と不信に満ちた目を互いに向け合い、バルコニーに陣取る生徒会役員たちの方へと一斉に視線を向けた。
旧生徒会棟のテラス。
ヘレナ・フォン・エッダの顔から、血の気が一瞬にして引いていった。彼女は自らの手元の端末ディスプレイに映し出されたエラーコードの山と、全校生徒に晒された不正ログの断片を目の当たりにし、左耳のプラチナのピアスを指先で引きちぎりそうになるほど強く引っ張った。
ウソよ……! なんでこのタイミングで、私たちが夜通し調整したはずのログが表に出るのよ……っ!』
ヘレナはパニックに陥り、潤んだ赤い双眸を大きく見開いたままその場でよろめいた。傍らに立つヴォルフガングも、自慢の魔導ガントレットの爪をギリギリと鳴らし、怒りのあまりその巨体をわなわなと震わせている。
「ふざけやがって……! どこのどいつだ、俺たちの管理端末にこんな泥臭いバグを仕込んだのは……ッ!」
ヴォルフガングの野獣のような咆哮が講堂の屋根を震わせたが、もはやその怒号が全校生徒の動揺を抑え込むことはできなかった。情報の非対称性によって保たれていた絶対的な権威の壁に、今や取り返しのつかない大きな亀裂が走り始めていた。
賀茂の或は、その中庭の喧騒とパニックの渦中に身を置きながら、周囲の生徒たちの動揺を冷徹な煤色の瞳でじっと観察していた。
胸の奥で、微かな勝利の感触が冷たく広がる。システムに依存し、自分たち以外の人間をただの消耗品の歯車としか見ていなかった連中が、自分たちの作り上げた虚飾のロジックの足元をすくわれ、狼狽える姿は最高峰の喜劇に等しかった。或は右手首のサラシを親指の腹で軽く押さえ、過剰な笑みがこぼれそうになるのを冷たい息とともに飲み込んだ。
「……騒ぎの質がいい。システムがいかに高尚な仮面をかぶっていこうが、一度その裏の配線に泥を塗りたくってやれば、この有様だ」
或は低く呟き、周囲の生徒たちがパニックに紛れてざわめく隙間を利用して、さらに校舎の影へと身を滑らせようとした。
その時、群衆の足元を縫うようにして、静かに近寄ってきた一つの影があった。
「――見事な手際だね、賀茂の或」
鈴の音を思わせる冷ややかで整った声が、或の耳朶をかすめた。
振り返ると、そこに立っていたのは風祭鈴音であった。彼女は一対の銀色の神楽鈴の柄を優雅に指先で転がしながら、チリリンと小さく乾いた音を鳴らしている。周囲の生徒たちがパニックに狂う中で、この少女だけは微塵も動揺を見せず、その冷徹な黒髪を揺らしながら或の横顔をじっと見上げていた。彼女の足元には魔導ログを傍受するための古い端末が隠されており、その画面には学園側が慌てて全システムの強制シャットダウンを試みているエラーの波形がリアルタイムで映し出されている。
「……お前か。この中庭の群衆のどよめきを聞いても、随分と余裕だな」
或は視線を前方に据えたまま、低いトーンで鈴音へと応じた。
「余裕なんてものじゃないさ。私たちが昨日交わした実利的な同盟が、想像以上の速度で配線の根本を焼き切ってくれたものだから、感心しているのさね。……ほら、上のバルコニーを見てごらんよ。あの気高い神民様たちが、いよいよ本格的にパニックを起こして自滅の道を歩み始めている」
鈴音の視線の先では、旧生徒会棟のテラスから慌てて駆け下りてきた管理機構の査察官たちが、全校生徒の前に姿を現し、血相を変えながら魔導マイクを奪い合っていた。
『――た、只今のノイズおよびデータ露出は、外部の悪質なハッキングによるテロ行為です! 生徒の皆様はただちに端末の画面から目を背け、教室へと速やかに退避しなさい……!』
うわずった査察官の声がスピーカーから空疎に響くが、一度目の当たりにしてしまった搾取の真実を前にして、生徒たちの足が元に戻ることはもはやなかった。不信感の種はすでに撒かれ、転生者たちの絶対的な支配に対する冷ややかな視線が中庭のあちこちから突き刺さっている。
風祭鈴音は神楽鈴の柄を指先で一回転させ、ふっと小さく鼻で笑った。
「学園長や生徒会の上層部は、これを外部のテロとして処理して何とかごまかそうと必死けれどね……そんな小手先の隠蔽工作で、一度揺らいだ特権の信頼が元に戻ると本気で信じているのだから滑稽なものさ。……さて、賀茂の或。彼らがこの混乱を鎮めるために次に何をしてくるか、あなたにはもう予想がついているはずだね」
鈴音の問いかけに、或は煤色の瞳をさらに鋭く光らせた。
「……ああ。自分たちの管理体制に穴が空いたと知れば、連中が真っ先にやることは犯人の特定じゃない。学内すべての生徒の荷物と端末をひっくり返し、反逆の証拠を血眼になって探し出すことだ」
「その通り。全校一斉の強制持ち物検査と、ネイティブ生徒たちに対する徹底的な尋問が、今日の午後のスケジュールにねじ込まれることになる。私たちが手に入れたマスターキーや、あなたが使った木簡呪符の切れ端でも見つかれば、その場で即座に『存在の消去』という名の処刑が待っているというわけさ」
鈴音の言葉には微塵の怯えもなく、むしろこれから始まる心理戦と情報戦に対する冷徹な闘志が宿っていた。
或はポケットの中で、自らの指先を麻の布袋の中に滑り込ませた。昨夜作成した血塗られた逆相ルーン呪符の冷たい感触が、或の生身の指先を通じて確かな現実感を伝えてくる。システムがいかに暴走し、転生者たちがパニックに陥ろうとも、彼らが繰り出してくる次の物理的・組織的な抑圧に対して、或と鈴音はすでに次の手を用意していた。
「……ふん、全校一斉の持ち物検査か。連中のそのお粗末な捜索能力で、私たちの泥縄式の呪符がどこまで見つけられるか見ものだな」
或は冷徹な笑みをその唇の端に浮かべ、中庭の群衆の向こう側で慌ただしく動き回る管理機構の査察官たちを見据えた。
風祭鈴音は、銀色の神楽鈴の柄を優雅な手つきでクルリと回し、チリリンと乾いた清涼な音色を中庭の喧騒の中に落とし込んだ。周囲の生徒たちがパニックと不信のざわめきに身を任せて右往左往しているのとは対照的に、この少女の足元に広がる空間は、まるで真空の膜にでも包まれているかのように異様なほどの静けさを保っている。鈴音の黒髪が冷たい朝の風に揺れ、その冷徹な黒曜石のような双眸が、混乱の渦中にある生徒会棟のテラスへと向けられた。
「……彼らが次に講じる手立ての輪郭がはっきりと見えたね、賀茂の或。私たちネイティブの底辺層から吸い上げた魔力ポイントで贅沢をむさぼっていた特権階級の連中が、自分たちの正当性を誇示するために、真っ先に何を差し出すか……答えは明白さ」
鈴音の言葉には、システムに対する底知れぬ嘲笑と、長年踏みにじられてきた者特有の冷徹な現実認識が滲み出ていた。或はポケットのなかに滑り込ませた左手の指先で、昨夜作成した血塗られた逆相ルーン呪符の硬質な和紙の感触を確かめながら、低くうめくように返した。
「ああ。自分たちの管理網に穴が空き、不正のログが全校生徒の目の前に晒されたとなれば、奴らのプライドはズタズタに引き裂かれているはずだ。……奴らにとって最も耐えがたいのは、システムそのものが間違っていると証明されることではなく、自分たちの選ばれた特権が『泥臭い下級民のハッキング』によって暴かれたという事実そのものだからな」
或のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、旧生徒会棟のテラスに設置された高出力の魔導スピーカーから、耳障りなハウリング音とともに新たなアナウンスが響き渡った。
先ほどまでうわずった声を上げていた査察官のそれに代わり、もっと低く、威圧感に満ちた冷徹なトーンが構内の空気を一瞬で凍りつかせる。それは神格化同盟の中枢に座す高位の転生者――生徒会副会長を務める男の、一切の慈悲を排した決定の宣告であった。
『――全校生徒に告ぐ。直前のネットワーク異常および不正データの露出は、学内の秩序を揺るがす重大なテロ行為と断定された。これより学園管理機構の全権限をもって、全校舎および全生徒の居住区画に対する非常事態査察――すなわち、全校一斉の持ち物検査および魔力回路の強制スキャンを即時発動する』
そのアナウンスが響いた瞬間、中庭を埋め尽くしていた一般生徒たちの間に、さらなる恐怖の波が走った。
「なっ……持ち物検査だと……!? そんなの聞いてないぞ……!」
「おい、冗談じゃない……俺たちのカバンの中には、非合法の魔導触媒や闇市で買った呪符が入ってるやつだらけだぞ……!」
生徒たちの悲鳴に近い怒号がそこかしこで爆発するが、旧生徒会棟の屋上や周囲の回廊から、武装した自動警戒ドローンの群れが威圧的な赤色灯を点滅させながら一斉にせり出してきた。その圧倒的な武力とシステム的な強制力の前では、どれほど群衆がざわめこうとも、逃げ場などどこにも存在しない。特権階級の側が誇示する絶対的な管理の網が、今まさに容赦なくすべての生徒の首元へと締め付けられようとしていた。
風祭鈴音は、その緊迫した空気を肌で感じ取りながらも、微塵も動揺する色を見せず、むしろ楽しげにすら見える冷徹な笑みをその唇の端に浮かべた。
「……ほら、言った通りになっただろう? 奴らの考えることは、いつだってワンパターンで、暴力の押し売り以外に脳がないのさ。さて、賀茂の或。この学内が完全な査察の網に包まれる前に、私たちは自分たちの足場をしっかりと固めておかなければならないね」
鈴音はそう言うと、手元にあった古い魔導端末の画面を素早くスワイプし、学園の裏ネットワークのルーティング回路を瞬時に書き換えた。彼女が神楽鈴の柄を軽く叩くたびに、周囲の空間に張り巡らされていた微小な霊的ノイズが幾重にも重なり合い、或と鈴音の姿を一般生徒たちの視界から絶妙に溶け込ませていく。それは、神格化同盟が誇る最新鋭の監視ドローンですら容易には看破できない、極めて高度で泥臭い隠密の結界技術であった。
賀茂の或は、周囲の慌ただしい群衆の動きと、刻一刻と迫り来る査察官たちの足音を全身の五感で捉えながら、煤色の瞳をじっと据えた。
右手首のサラシの下で脈打つ青黒い呪印は、学園の魔導インフラが全校査察のために出力を急激に引き上げたことで、再び熱を帯びて或の皮膚を焦がすような痛みを放ち始めている。しかし、その痛覚こそが、甘ったれた幻想や神話の加護などという不条理な欺瞞をかなぐり捨て、今まさに現実の戦いの只中にいることを或に証明する唯一の楔であった。
「……全校一斉の持ち物検査か。連中のその凝り固まった査察の網が、私たちが仕掛けた裏の配線と、懐に隠し持った泥縄式の呪符の網目をどこまで見抜けるか、じっくりと味あわせてやるとしよう」
或は低いトーンで呟き、懐の奥にしまい込んだマスターキーの模造品と、血塗られた逆相ルーン呪符の束をそっと指先で確かめた。
頭上で不気味にうねる黄泉比良坂の紫黒い裂け目は、査察の混乱に沸く学園の喧騒を冷ややかに見下ろすように、さらに重く冷たい瘴気をその巨体から吐き出し続けている。システムが強いる理不尽な抑圧と、生身の人間が知恵と血を絞って築き上げた反逆のネットワークが激突する次なる舞台へ向け、或は群衆の影から静かに身を翻し、校舎の裏手へと続く冷たい石畳の通路へと言葉もなく足を踏み出していった。




