第9話「崩壊する驕り」
リゼットが魔の森の塔で穏やかで満ち足りた日々を過ごしている頃、かつて彼女を追放したヴァレンティア侯爵家と隣接するレオンの領地は、未曾有の危機に直面していた。
事の発端は、領地の地下深くを流れる「魔脈」の異常な活性化だった。
通常、魔脈は大地に豊かな実りをもたらす穏やかなエネルギーの源だが、数十年に一度、原因不明の暴走を起こすことがある。
暴走した魔脈は地表に強烈な瘴気を噴出させ、それに当てられた動物や虫けらたちは、理性を失い狂暴な魔物へと変貌してしまうのだ。
最初の異変は、領地の端にある小さな農村で報告された。
「畑を耕していた農夫が、巨大化した野犬に襲われた」という一報を皮切りに、被害は瞬く間に領地全域へと拡大していった。
空を覆うほどの巨大な鳥の魔物が家畜をさらい、森から溢れ出した魔物の群れが街道を封鎖し、物流は完全に麻痺した。
次期領主であるレオンと、その婚約者となったマリアンヌは、当初この事態を軽く見ていた。
「心配することはない。私とマリアンヌの魔力があれば、これしきの魔物などすぐに一掃できる」
レオンは領民たちの前で自信満々に宣言し、マリアンヌもまた、美しいドレスの裾を揺らしながら得意げに微笑んでいた。
「ええ、私にお任せなさい。お姉様のような無能とは違うのだから、あっという間に片付けてみせますわ」
彼らは数十人の私兵を率いて、魔物が最も密集しているとされる東の森へと討伐に向かった。
しかし、彼らの慢心はすぐに打ち砕かれることとなった。
森の入り口に到達した彼らを待ち受けていたのは、瘴気を吸って通常の数倍に巨大化した、数百頭にも及ぶ魔物の群れだった。
硬い外殻に覆われた猪の魔物、鋭い爪を持つ猿の魔物、そして空からは酸を吐く怪鳥が絶え間なく襲いかかってくる。
「な、なんだこの数は……!」
レオンは慌てて炎の魔法を放った。
彼の放った火球は先頭の魔物数体を焼き焦がしたが、後から後から湧き出してくる魔物の波の前では、焼け石に水でしかなかった。
「マリアンヌ! 君の魔法で広範囲を吹き飛ばすんだ!」
「や、やっていますわよ! でも、魔力が……!」
マリアンヌは必死に杖を振り回し、風の魔法で魔物を吹き飛ばそうとしていたが、彼女の魔法は華やかで見た目が美しいだけで、実戦での殺傷能力は驚くほど低かった。
彼女の魔力は測定器の数値を上げることに特化した、いわば「見掛け倒し」の性質を持っていたのだ。
防衛戦は瞬く間に崩壊した。
私兵たちは次々と魔物に押し潰され、悲鳴を上げて逃げ惑う。
レオンとマリアンヌも、泥まみれになりながら命からがら城へと逃げ帰るしかなかった。
その後も魔物の進行は止まらず、ついに城の防壁のすぐ外にまで迫っていた。
ヴァレンティア侯爵家の当主も加わり、緊急の作戦会議が開かれたが、絶望的な報告が次々と上がるだけだった。
「もはや、我々の手に負える事態ではありません……」
年老いた騎士団長が、疲労困憊した様子で頭を下げた。
「近隣の領地にも援軍を要請しましたが、どこも自国の防衛で手一杯で、兵を出せないとの返答です。このままでは、あと数日で城門が突破され、領地は壊滅します」
重苦しい沈黙が会議室を支配した。
レオンは血走った目でテーブルを睨みつけ、マリアンヌは爪を噛みながら震えている。
「……伝説の魔法使いに、頼るしかない」
父親である侯爵が、絞り出すような声で言った。
魔の森の奥深くに住むとされる、世界最強の魔法使い。
かつて国を滅ぼしかけた厄災を一人で退けたという伝承が残る、生ける伝説。
「しかし、彼は人間嫌いで、決して人前には姿を現さないと言われています。それに、魔の森はすでに魔物の巣窟と化しており、近づくことすら……」
「だからといって、ここで黙って死を待つのか!」
レオンが怒鳴り声を上げた。
「私が行く。私の全財産を差し出しても、必ず彼を連れてくる!」
それは、領主としての責任感から出た言葉ではなく、ただ自分の命と地位を守りたいという利己的な執念だった。




