第2話「魔の森と黒衣の魔法使い」
森の入り口を越えた途端、それまで激しく打ち付けていた雨は、幾重にも重なり合う巨大な木の葉に遮られた。
代わりに、ひんやりとした濃い霧が地面を這うように立ち込め、周囲の風景を白く曖昧に塗り替えていく。
鬱蒼と茂る樹木はどれも途方もなく太く、見上げるほどの高さまで枝を広げており、わずかな日の光さえも分厚い葉の天井に阻まれて届かない。
周囲は不気味なほどに静まり返り、風が枝を揺らすかすかな音だけが、耳の奥でくぐもって響いていた。
空気はひどく冷たく、湿った腐葉土と古い苔の匂い、それに名も知らぬキノコが放つ独特の甘い香りが入り混じって鼻を突く。
歩みを進めるたびに、柔らかな腐葉土の層に靴底が沈み込み、粘りつくような音が足元から上がった。
地表を這うようにうねる太い木の根を乗り越え、棘のある低い茂みを避けて進むうち、リゼットの体力は限界に近づきつつあった。
雨に濡れた衣服は氷のように冷たく体に張り付き、奪われ続ける体温を補うために全身が勝手に小刻みに震えている。
膝はガクガクと頼りなく揺れ、かじかんだ手は布袋の紐を握っているのかどうかの感覚すら失いかけていた。
どこまで歩いたのか、どれほどの時間が経過したのかもわからない。
ただ、後ろを振り返っても、自分が歩んできた足跡はすでに濃い霧に飲み込まれ、元の世界へと続く道は完全に閉ざされていた。
それでも、なぜか足は止まらなかった。
冷たい石畳の上の軽蔑の視線よりも、この息が詰まるような暗闇の方が、ずっと心安らかに感じられた。
不意に、背後の濃い霧の奥で、何かが茂みをかき分ける音がした。
風の音ではない。
ずっしりとした重みを持つ生き物が、湿った落ち葉を踏み砕きながらゆっくりと近づいてくる足音だった。
リゼットは足を止め、恐る恐る振り返った。
霧が渦を巻きながら晴れたその先に、低い唸り声が鼓膜を震わせるように響いた。
暗闇の中に、血のように赤い二つの光が浮かび上がる。
霧の中から姿を現したのは、大人の背丈ほどもある巨大な狼のような獣だった。
黒く硬そうな毛皮は濡れそぼち、逆立っている。
太く逞しい四肢が地面をしっかりと掴み、剥き出しになった鋭い牙からは、粘り気のある唾液が糸を引いて滴り落ちていた。
魔物。
古い絵本の中でしか見たことのない、人間を容易く引き裂く恐ろしい存在が、明確な殺意と飢えを含んだ目でリゼットを真っ直ぐに見据えている。
逃げなければ。
頭ではそう理解しているのに、足は地面に深く根を張ったようにぴくりとも動かなかった。
恐怖で喉が引きつり、呼吸の仕方を忘れたように息が止まる。
心臓が痛いほど激しく打ち鳴り、冷や汗が背筋を伝い落ちた。
魔物が後ろ足に力を込め、太い筋肉を躍動させて地面を強く蹴った。
鋭い爪が空気を切り裂く音を立てて、リゼットの顔面へと迫ってくる。
死ぬ。
つらいことばかりだった自分の人生が、ここで終わる。
リゼットはぎゅっと目を閉じ、せめて痛みを感じないようにと体を固く強張らせた。
◆ ◆ ◆
しかし、覚悟した引き裂かれるような痛みは、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに、閉じたまぶたの裏を焼き尽くすような強烈な光が視界を白く染め上げた。
直後、空気をビリビリと揺るがす轟音と、肌を焼くような熱を帯びた突風が全身を激しく打ち据えた。
思わず顔を背け、腕で頭をかばう。
鼻腔を突いたのは獣の生臭い臭いではなく、何かが一瞬で焼け焦げたような強烈な匂いだった。
周囲の空気が急速に冷え、静寂が再び森を包み込む。
恐る恐るゆっくりと目を開ける。
そこには、自分を喰らおうとしていた巨大な魔物の姿は跡形もなかった。
ぬかるんだ地面が丸くえぐり取られたように消失し、黒い焦げ跡から白い煙が静かに立ち昇っているだけだ。
そして、その煙の向こう側に、一人の男が立っていた。
周囲の暗がりよりもなお深い、闇そのものを切り取ったかのような漆黒の長い外套をまとった長身の青年。
月明かりを集めたような銀糸の滑らかな髪が、霧をはらんだ風に静かに揺れている。
彫刻のように端正な顔立ちに浮かんでいるのは、氷のように冷徹で、一切の感情を感じさせない表情だった。
彼は焦げた地面を一瞥すると、ゆっくりとした足取りで歩み寄り、リゼットの数歩手前でぴたりと立ち止まった。
見下ろす瞳は、星のない深い夜空を思わせる美しい藍色をしていた。
「こんなところで死にたがりか。虫けらのように食い殺されるのを待つ趣味でもあるのか」
低く、しかし驚くほどよく通る声が静かな森に響いた。
冷え切った刃のような口調に、リゼットは肩をびくっと震わせた。
男は軽蔑するような視線を投げかけていたが、ふと、その動きを止めた。
彼の藍色の瞳が、リゼットの顔から、彼女の全身をすっぽりと包み込む周囲の空間へと移る。
端正な眉間に、微かなしわが寄った。
常に冷徹であったはずの彼の瞳に、初めて驚きと戸惑いが入り混じったような色が浮かび上がる。
彼は一歩前に踏み出し、信じられないものを見るように目を細めた。
「お前……その異常なほどの魔力、一体何だ?」
魔力。
その言葉の意味が理解できず、リゼットはただ呆然と男を見上げることしかできなかった。
生まれた時から無いと言われ続け、それが理由ですべてを奪われてきた。
自分が魔力を持っているなど、あり得るはずがない。
何か言葉を返そうと口を開きかけたが、限界を超えていた体が言うことを聞かなかった。
足から急激に力が抜け、視界がぐらりと歪む。
糸の切れた操り人形のように、リゼットの体は冷たい地面へと向かって崩れ落ちた。
完全に闇に沈む直前、黒い外套の腕が素早く伸びてきて、冷え切った体を強く抱き留める温かい感触だけが、かすかに記憶に刻まれた。




