第8話:溺死か、それとも? 肺に残った水と匂いが語る「完全犯罪」の綻び
空を飛ぶというのは、本来、人間にとってロマンに溢れた素晴らしい体験であるはずだ。
だが、何の安全装置もなく、ドワーフの美少女メイドに小脇に抱えられた状態で、高度十メートル以上の空中を放物線を描いて飛ぶとなれば話は別である。
「ひぃぃぃぃぃっ!? 落ちる! 死ぬ! また死ぬぅぅぅっ!!」
私の悲痛な絶叫が、初夏の青空に虚しく吸い込まれていく。
眼下には、見慣れた領地の風景がジオラマのように広がっていた。風圧で白銀の髪がバサバサと顔に叩きつけられ、猛烈な重力加速度が私の貧弱な三半規管を容赦なくかき回す。
「あはははっ! お嬢様、風がとっても気持ちいいですね! ご安心ください、私がお嬢様を落とすようなドジを踏むはずがありません!」
私を抱えているココアは、まるでスキップでもしているかのような満面の笑みを浮かべていた。
ドワーフの脚力というものは、いったいどういう物理法則で構成されているのだろうか。彼女が地面を蹴るたびに、大砲から撃ち出されたような爆発的な推進力が生み出され、私たちは文字通り『跳躍』だけで空を飛んでいた。
『ヒャハハハ! いいぞココア! もっと高く飛べ! ご主人様の顔が、死んだ魚みてえに白くなってるぜ!』
ルウの野次が、私の脳髄に直接響く。この影猫は精霊化したことで、私がどこにいようと念話を送ってくることができるようになっていた。今も、私の影の中にちゃっかりと潜り込み、この最悪の空中ドライブを特等席で楽しんでいるらしい。
(……この駄猫、後で絶対に三日三晩、マタタビ攻めの刑にしてやる……っ!)
前世で三十五年間、地に足をつけた真面目な医学者として生きてきた私の魂は、この理不尽な絶叫アトラクションの連続に限界を迎えようとしていた。
ズドォォォォンッ!!
やがて、アルザス家の屋敷の中庭に、隕石でも落ちたかのような凄まじい轟音と土煙が舞い上がった。
ココアは見事な着地を決め、私を優しく芝生の上に下ろした。
「さあ、お嬢様! 無事に屋敷に到着いたしましたよ!」
「うぇっ……おえぇぇ……っ」
私は芝生の上に四つん這いになり、えずきながら涙目で地面の草をむしった。
三半規管が完全にショートし、世界がぐるぐると回転している。
こんな理不尽な移動手段を強要されるくらいなら、自分の足でトボトボと歩いて帰った方が何万倍もマシだった。
「おや、レイラ? それにココアも。すごい音がしたけれど、一体どうしたんだい?」
騒ぎを聞きつけて、屋敷の中から父・ギルバートが呑気な顔をして出てきた。
そのすぐ後ろには、母・エレノアの姿もある。
そして――彼らのさらに奥。玄関ホールのあたりに、大きなトランクケースをいくつも抱え、足早に屋敷を出ようとしている中年の男の姿があった。
「あ、旦那様。実はお急ぎの商談が入りまして、私はこれにて失礼させていただきます。今回の幸せを呼ぶ壺の代金は確かにいただきましたので、どうかご心配なく……」
「おや、ザックさん。もう出発されてしまうのですか? せっかくですから、夕食でも……」
「い、いえ! 一刻を争う取引でして!」
脂汗をダラダラと流し、不自然なほど早口でまくし立てているその男こそが、ここ数年頻繁に立ち寄り、数日前から我が家に滞在している旅の商人・ザックだった。
2年前、私のバカな両親に『絶対に枯れない魔法の小麦』という名のただの雑草の種を売りつけ、大金をせしめた詐欺師である。
(……逃がすか。お前が逃げれば、私が毎晩未練霊に安眠を妨害されることになるんだぞ)
私は、まだフラフラする頭を必死に振って立ち上がり、ザックに向かってビシッと指を突きつけた。
「ココア! その男を逃がすな! 捕まえろ!」
「はい、お嬢様! たぁっ!」
私の命令が下った瞬間、ココアは弾かれたように跳躍し、ザックの目の前に立ち塞がった。
そして、彼の襟首をガシッと掴むと、ひょいっと空中に吊り上げた。
「な、なんだ!? 離せ、このメイド! 私はアルザス家の大事な客だぞ!」
「レイラ? 一体何をしているんだい? ザックさんは急いでいらっしゃるのに」
ギルバートが慌てて止めに入ろうとするが、私はそれを手で制した。
ちょうどその時、屋敷の正門から、村長に引き連れられた数人の衛兵たちが、血相を変えてなだれ込んできた。
「ギルバート様! 無礼を承知で踏み込ませていただきます!」
「そ、村長? 衛兵まで……一体どうしたというんだ?」
「レイラお嬢様のご指示で、殺人事件の容疑者を拘束しに参りました!」
村長の言葉に、ギルバートとエレノアはポカンと口を開け、空中に吊るし上げられているザックは顔面を土気色に染めた。
「さ、殺人事件だと……!? バカな、私が何をしたというんだ! 証拠もないのに、立派な商人を犯罪者扱いする気か!」
ザックは空中で足をジタバタと振り回しながら、悪あがきの抗議を叫んだ。
私は、深呼吸をして胃のむかつきを抑え込むと、優雅な足取りでザックの前に歩み寄った。
可憐な七歳の少女の皮を被った、三十五歳の元・監察医の尋問が始まる。
「証拠なら、ありますよ。商人のザックさん」
私は、甘く冷たい声で微笑んだ。
「つい先ほど、領地の南の川で、三十代の男性の遺体が上がりました。あなたもよくご存知のはずです。なぜなら、その男はあなたの『詐欺の共犯者』であり、あなた自身が手を下して殺した相手なのですから」
「なっ……!? で、デタラメを言うな! そんな男は知らないし、そもそもそいつは川に落ちて勝手に溺れ死んだんだろうが!」
ザックが唾を飛ばしながら反論する。
私は、待ってましたとばかりに口角を吊り上げた。
「ほう? まだ遺体の身元も死因も特定されていないのに、なぜあなたは、その男が『溺れ死んだ』と断言できるのですか?」
「あっ……!」
ザックの顔が、一瞬にして硬直した。
自ら墓穴を掘ったことに気づき、滝のように脂汗を流し始める。
「ま、まあいいでしょう。あなたの言う通り、村の皆は水死体を見て、事故で川に落ちて溺死したのだと思い込んでいました。ですが、法医学の――もとい、私の目は誤魔化せません。あの男は、決して水の中で溺れたのではありませんから」
私は、周囲に集まった衛兵や両親、そして空中のザックに向かって、はっきりと通る声で解説を始めた。
「第一の綻びは、『死斑』の位置です」
「しはん……?」
「ええ。人間が死んで心臓が止まると、血液は重力に従って体の低い方へと沈んでいきます。それが皮膚の表面に赤紫色のあざのように現れるのが死斑です。この死斑は、死後数時間から十数時間経つと、その位置に完全に固定されます」
私は、自分の手のひらをひらひらと動かしながら説明を続ける。
「水死体というものは、肺に空気が残っているため、頭や手足がだらりと下がり、基本的には『うつ伏せ』の状態で水に浮きます。もしあの男が川で溺れ死んだのであれば、血液は体の前側――つまり、顔やお腹のあたりに集まり、そこに死斑ができるはずです」
「…………」
「しかし、引き上げられた遺体には、体の『裏側』である背中や太ももの裏に、くっきりと死斑が固定されていました。これは、彼が別の場所で『仰向け』の状態で殺され、半日以上放置された後で、死体の処理に困った犯人によって川に投げ込まれたという何よりの証拠です」
私の理路整然とした推理に、周囲の大人たちは息を呑んで静まり返った。
五歳の幼女が、死体の変化のメカニズムをこれほどまでに正確に、そして冷徹に語っている異常さ。
だが、今の私にはそんな周囲の反応などどうでもよかった。
私が最優先すべきは、この事件をさっさと解決し、あの陰惨な未練霊を成仏させて、自室のベッドで安眠をもぎ取ることだけだ。
「そ、それがどうした! 百歩譲って誰かに殺されて投げ込まれたとして、それが私だという証拠にはならないだろうが!」
ザックが、顔を真っ赤にして吠える。
「ええ。ですが、第二の綻びが、あなたを犯人と特定しています。それは、『肺に残った水』と『匂い』です」
「匂い……だと?」
「人間が水中で溺れる時、パニックに陥って激しく呼吸をしようとします。その際、肺の中に水が入り込み、気道の粘液と激しく混ざり合うことで、口や鼻から細かいカニのような泡――『微細泡沫』が溢れ出します。しかし、あの遺体の口には、それが一切ありませんでした」
私は、ザックを真っ直ぐに見据えた。
「遺体は、川の水を吸い込んでいなかった。つまり、水に入る前にすでに呼吸が止まっていたのです。そして、あの遺体の衣服には、川の生臭い泥の匂いに混じって……むせ返るような、強烈に甘い花の匂いがこびりついていました」
その瞬間、ザックの喉から「ひぃっ」という短い悲鳴が漏れた。
「『甘美の毒花』。南の密林でしか採取できない、高価で特殊な毒薬。これをかがされた人間は、強烈な幻覚を見ながら肺の筋肉が麻痺し、陸の上にいながらにして『水中で溺れるような窒息の苦痛』を味わいながら死に至る……」
私は、ココアに吊るされているザックに一歩近づき、トドメを刺すように言い放った。
「あなたは、詐欺の利益の分配で揉めた相棒を、この高価な毒薬で殺害した。自分の手を直接汚さず、事故に見せかけるために。そして、死斑が固定された夜中に遺体を川へ投げ捨てた。そうでしょう?」
「ち、違う! 私はそんな毒薬など持っていない! デタラメだ、言いがかりだ!」
ザックが必死に首を振って否定する。
だが、その抵抗もすでに私の計算通りだ。
『ご主人様。一番デカい黒い革のトランクの、底の裏地だ。そこに隠しポケットがあって、強烈な甘い匂いがプンプンしやがるぜ』
私の影の中から、ルウの確信に満ちた念話が飛んでくる。
精霊の嗅覚は絶対だ。証拠は、今まさに彼が持ち去ろうとしていた荷物の中にある。
「衛兵さん。彼が持っている一番大きな黒いトランクの、底の裏地をナイフで裂いてみてください。そこに、決定的な証拠が隠されているはずです」
「は、はいっ!」
私の指示に、衛兵の一人が慌ててザックの荷物を調べ始める。
ナイフで革の裏地を引き裂くと、そこから小さな木箱が転がり落ちた。
箱の中には、ドス黒い液体が入ったガラスの小瓶と、分け前で揉めたのであろう数枚の金貨が隠されていた。
「あ……あぁっ……」
小瓶が発見された瞬間、ザックの顔から完全に血の気が引いた。
小瓶の蓋の隙間から、あの強烈な『甘美の毒花』の匂いが微かに漂い始める。
言い逃れのできない、完全な物的証拠だった。
「ギ、ギルバート様! この男はやはり、とんでもない殺人鬼です! すぐに縛り上げろ!」
「くそっ……! くそぉぉぉぉぉっ!!」
村長の怒号とともに、衛兵たちがザックを取り囲もうとした。
その時だった。
ザックの目に、追い詰められた獣のような、凶悪な殺意の光が宿った。
彼は懐から、隠し持っていた鋭利な短剣を素早く引き抜き、空中で自分の体を捩って、ココアの手を振りほどいた。
そして、地面に着地するなり、獣のような咆哮を上げて、私に向かって一直線に突進してきたのだ。
「ふざけるなァ! たかが七歳のクソガキが、なぜ俺の完璧な計画を……! お前だけでも道連れにしてやるッ!!」
血走った目で短剣を振りかざし、私に迫り来るザック。
殺意の塊。
前世でも、解剖室で逆上した遺族に刃物を向けられたことはある。だが、七歳の幼女の反射神経では、迫り来る成人男性の凶刃を避けることなど到底不可能だった。
(あ、これ、また死んだかも)
私は、スローモーションのように迫り来る刃先を見つめながら、走馬灯のように前世と今世の記憶を脳内で駆け巡らせた。
働き詰めで過労死し、今世ではニートになろうとしたのに、結局面倒事に巻き込まれて殺される。
なんて救われない人生(二回目)だろうか。
私は、絶望とともにギュッと目を瞑った。
――しかし。
私の体に、冷たい刃が突き刺さることはなかった。
代わりに聞こえてきたのは。
「……私の大切なレイラお嬢様に、その汚い刃を向けるとは……万死に値します」
地獄の底から響いてくるような、低く、冷酷で、圧倒的な怒りを孕んだ『メイドの声』だった。




