第7話:領内で起きた不審死。ひょいっと抱えられ、強制現場検証へ
――肺が、焼け焦げるように痛い。
呼吸をしようとあがくたびに、泥水が気管へと流れ込み、むせ返るような苦痛が全身を駆け巡る。
酸素を求める本能が暴走し、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打つ。
暗い水底へと沈んでいく絶望感。光が遠ざかり、鼓膜が水圧で圧迫される鈍い音。
それは、間違いなく人間が水中で命を落とす瞬間の、典型的な『溺死』の苦しみだった。
だが。
死の淵に立たされたその男の最期の記憶の中で、私の嗅覚は、ある強烈な違和感を捉えていた。
(……甘い? なんだ、この匂いは……?)
川の泥水や、生臭い藻の匂いではない。
むせ返るような、酷く人工的で、ねっとりとした『甘い花の匂い』。
水中に没しているはずなのに、なぜそんな匂いが鼻腔を突くのか。
致命的な矛盾を抱えたまま、男の意識は唐突にブラックアウトし、強制的な五感共有はブツンと途切れた。
「――っ、はぁっ、あぁっ!!」
現実世界に意識が引き戻された瞬間、私は大きく息を吸い込み、激しく咳き込んだ。
酸素が肺に流れ込んでくる感覚に、思わず安堵の涙が滲む。
「お、お嬢様!? 大丈夫ですか!?」
私を小脇に抱えていたメイドのココアが、慌てた様子で私を地面に下ろした。
彼女のヘーゼルナッツ色の大きな瞳が、心配そうに私を覗き込んでいる。
「も、申し訳ございません! やはり、お嬢様のような可憐な方には、水死体の放つ腐敗臭や凄惨な光景は刺激が強すぎましたね! ああ、私が配慮に欠けておりました!」
「ゲホッ、ゴホッ……ちが、う……そうじゃ、ない……っ!」
私は地面に四つん這いになりながら、必死に首を横に振った。
前世で数え切れないほどの遺体を解剖してきた元・監察医の私が、水死体を見た程度で卒倒するはずがない。
私が苦しんでいるのは、足首に纏わりついている『これ』のせいだ。
『……くる、しい……』
『……たす、けて……』
私の右足首を、泥水で構成されたドロドロの未練霊が、万力のような力でガッチリと掴んでいた。
周囲を取り囲んでいる数十人の領民たちや、私のすぐ傍にいるココアには、この異形の霊の姿は全く見えていない。彼らの目には、私が死体を前にしてショックでへたり込んでいるようにしか見えていないだろう。
(くそっ……! なんて重くて陰惨な未練だ。それに、この身を焦がすような冷気……!)
死者の未練が、私の『死の魔力』に引き寄せられ、実体を持たないはずの霊の執着が物理的な重みとなって私にのしかかっている。
私は、心底うんざりして天を仰いだ。
(帰りたい。今すぐここから逃げ出して、自室のふかふかのベッドに潜り込みたい。私は絶対に働かないと決めたんだ。死体の検死なんて、前世で一生分やったんだよ!)
だが、現実は非情である。
もし今、私がこの事件を放置して屋敷に帰ったとしても、この泥水の未練霊は間違いなく私についてくる。そして、毎晩毎晩、私のベッドの傍らで「苦しい、助けて」と怨嗟の声を上げ、私の安眠を完膚なきまでに妨害し続けるだろう。
究極のニート生活を維持するためには、この未練霊を成仏させる――つまり、この男の死の真相を暴くしかないのだ。
「……はぁ。残業代も出ないのに、最悪だ」
「お嬢様? 何か仰りましたか?」
「なんでもない。ココア、私を立たせてくれ」
私はココアの手を借りて立ち上がると、衣服の砂を払い、一つ深呼吸をした。
そして、五歳の可憐な少女の表情から、前世の法医学者・桐生玲司の冷徹な顔へとスイッチを切り替えた。
「ココア。今から私が指示を出す。お前は私の手足となって、その水死体を調べろ」
「えっ? し、死体を調べる、ですか? しかしお嬢様、そのような穢らわしい真似を……」
「いいからやれ。私はこれ以上、一歩も歩きたくないし、泥水で服を汚したくないんだ。それにお前、さっき『死体など私がウォーハンマーで粉砕します!』とか言ってたじゃないか。触るくらい平気だろう」
「あ、はい! 粉砕するのは得意ですが、調べるのもお任せください!」
ココアはなぜか嬉しそうに敬礼し、死体の方へと歩み寄った。
周囲の村人たちが、ギョッとして後ずさる。
「お、おい! アルザス家のお嬢様と、新入りのメイドが何をする気だ?」
「お嬢様、いけません! そのような不浄なものに近づいては!」
「お気になさらず! 我が主、レイラお嬢様は、不遇の死を遂げた憐れな魂を慰めるために、自ら検死を行われるというのです! なんと慈悲深いお方なのでしょう!」
ココアが勝手に美談に仕立て上げ、大声で村人たちに宣言した。
村人たちから「おおっ……!」「なんてお優しい、まるで聖女様だ……」という感嘆のどよめきが漏れる。
違う。私はただ、夜ゆっくり寝たいから仕方なくやっているだけだ。
勘違いが加速していくのを横目に、私は気を取り直して現場検証を開始した。
「よし、ココア。まずはその遺体を仰向けにひっくり返せ。優しくな」
「承知いたしました! ふんっ!」
ココアは、水を吸って優に七十キロを超えているであろう成人男性の遺体を、なんと『人差し指と親指だけ』でつまみ上げ、いとも簡単にクルンと仰向けにひっくり返した。
ボチャッ、と嫌な音を立てて泥水が跳ねる。
「……お前、本当にドワーフの落ちこぼれなのか? 筋力のパラメーターがバグってるぞ」
「えへへ、鍛冶の才能は皆無ですが、力仕事だけは誰にも負けません!」
屈託なく笑うココアの怪力に戦慄しながらも、私は遺体の状態を離れた場所から目でスキャンした。
三十代前半の男性。身なりは粗末で、どこからか流れてきた浮浪者か、あるいは日雇いの労働者のように見える。
顔は濡れた髪に覆われ、皮膚は水を吸って白くふやけている。
(……だが、やはりおかしい)
私は顎に手を当て、前世の知識と目の前の現象を照らし合わせた。
一般的な溺死の場合、人は水中でパニックに陥り、激しく呼吸をしようとする。その際、肺の中に水が入り込み、気道の粘液や空気と激しく撹拌されることで、微細な泡――いわゆる『泡沫』が形成され、口や鼻からカニの泡のように溢れ出すのが特徴だ。
しかし、この男の口元には、その泡沫が一切見られなかった。
「ココア。念のため、その男の口を開いて、中を確認してくれ。カニが吹くような細かい泡が残っていないか?」
「はい! ……あーん。いえ、お嬢様。口の中は泥水ばかりで、泡のようなものは見当たりません」
ココアが素手で死体の口をガバッと開き(村人たちがヒィッと悲鳴を上げた)、中を覗き込んで報告する。
これで第一の確証が得られた。
(口や気道に微細泡沫がないということは、この男は水中で『呼吸をしていない』。つまり、川に落ちた時点、あるいは投げ込まれた時点では、すでに死んでいたか、少なくとも仮死状態で呼吸が止まっていたということだ)
だが、先ほどのフラッシュバックでは、男は間違いなく肺に水が入る窒息の苦痛を感じていた。
死ぬ直前まで生きていて、水中で溺れる感覚を味わったのに、遺体には生きたまま溺れた痕跡がない。
この矛盾を解き明かす鍵は、ただ一つ。
「ココア。次は、遺体の『背中』と『お尻』のあたりを見てくれ。皮膚の色が、赤紫色に変色している部分はないか?」
「赤紫色の変色、ですか? 少々お待ちを……よいしょっと」
ココアは再び遺体を軽々と持ち上げ、背中側を確認する。
そして、目を丸くして声を上げた。
「お嬢様、すごいです! 仰る通り、背中や太ももの裏側が、まるであざのように広範囲に赤紫色に変色しています!」
周囲の村人たちが、どよめいた。
遺体を見もせずに体の裏側の変色を言い当てた私を、まるで超能力者でも見るような目で見ている。
「なるほど。やはりな」
私は心の中で、勝利を確信する冷たい笑みを浮かべた。
あの赤紫色の変色は、打撲によるあざではない。『死斑』だ。
心臓が停止し、血液の循環が止まると、血液は重力に従って体の低い部分へと沈降していく。それが皮膚を通して赤紫色に見えるのが死斑である。
死斑は、死後およそ半日から十数時間経過すると、その位置に完全に固定され、姿勢を変えても移動しなくなる。
(この男の死体は、川で『うつ伏せ』の状態で発見された。溺死体は頭や手足が重いため、基本的にはうつ伏せで浮くものだ。もし川の中で死んだのであれば、重力に従って体の前側――顔や胸、お腹のあたりに死斑ができるはずだ)
だが、現実には、体の『裏側』である背中に死斑が固定されていた。
これが意味する医学的事実は、極めて残酷で明確なものだった。
「村長さん」
私は、群衆の中で青ざめている初老の村長に向かって、静かに声をかけた。
五歳の幼女とは思えない、低く落ち着き払った声色が響く。
「この男は、川に落ちて溺れたのではありません。何者かに殺害され、別の場所で『仰向け』の状態で半日以上放置された後……死体の処理に困った犯人によって、この川に投げ込まれたのです」
「なっ……!? さ、殺人でございますか!?」
村長が腰を抜かしそうになり、村人たちの間に悲鳴に近いどよめきが広がった。
無理もない。のどかな辺境の領地で、死体遺棄を伴う殺人事件など前代未聞だろう。
「お、お待ちください、レイラお嬢様! 確かに背中のあざのことは不思議ですが、それだけで殺人と断定するのは……どこかで足を滑らせて気絶し、たまたま川に落ちたという可能性も……」
「事故ではありません。その証拠に、この遺体からは『あるはずのない匂い』がしているはずです」
私は断言し、足元の草むらに潜んでいる黒猫の精霊、ルウに向かって視線を送った。
普通の人間には見えないルウは、やれやれと肩をすくめながら、遺体の顔の近くへと歩み寄った。
『おいおい、俺様は元大泥棒であって、死体の匂い鑑定士じゃねえんだぜ? まあ、ご主人様の頼みとあらば嗅いでおくが……クンクン』
ルウは遺体の鼻先や、濡れた衣服の襟元に鼻を近づけ、何度か匂いを嗅いだ。
そして、黄金色の瞳をスッと細める。
『……ビンゴだ、ご主人様。川の生臭い泥の匂いに混じって、かすかだが強烈な匂いがこびりついてる。これは……安物の香油なんかじゃねえ。特殊な環境でしか育たねえ、魔力を含んだ花の匂いだ』
(どんな匂いだ?)
『ねっとりとした、頭の芯が痺れるような甘い匂い。間違いない、こいつは南の密林でしか採れねえ違法な麻薬成分を含む花、『甘美の毒花』の精製液の匂いだぜ。裏社会じゃ、相手を昏倒させたり、幻覚を見せたりするのに使われる代物だ』
ルウの報告に、私はすべてのパズルのピースが完璧に組み合わさるのを感じた。
男は、川で溺れたのではない。
犯人によって『甘美の毒花』の薬液をかがされ、あるいは飲まされ、幻覚と呼吸困難に陥ったのだ。
薬効によって肺の筋肉が麻痺し、空気を吸えない窒息の苦痛。それが、フラッシュバックで私が感じた『溺れる感覚』の正体だった。
水のない場所で、男は陸に上がった魚のようにあがき、そして甘い匂いに包まれながら息絶えた。
犯人はその後、遺体を仰向けのまま半日ほど隠し、死斑が固定された後に、事故に見せかけるために夜陰に乗じて川へ投げ込んだ。これが、この事件の『完全犯罪の綻び』の全貌である。
「ココア。その男の襟元や口元を嗅いでみてくれ。泥の匂いに混じって、何か甘ったるい花の匂いがしないか?」
私の指示に、ココアは素直に鼻を近づけた。
「クンクン……あっ! 本当です、お嬢様! 川の匂いとは違う、なんだか頭がクラクラするような甘い匂いが少しだけします!」
ココアの証言に、村長たちの顔色がさらに土気色に変わった。
私は、ココアに抱き抱えられるようにして現場を後にしようとしながら、群衆に向かって決定的な一言を放った。
「犯人は、特殊な毒薬を使ってこの男を殺害し、川に偽装遺棄しました。そして、そのような珍しく高価な毒薬を持っている人間は、この閉鎖的な領内にはただ一人しかいません」
私の視線の先には、屋敷の裏手、来客用の馬車が停められている方向があった。
そこには数年前から、私のバカな両親に『絶対に枯れない魔法の小麦』などという詐欺商品を売りつけに来ている、いかにも胡散臭い旅の商人が今年も滞在しているはずだ。
「村長さん。今すぐ衛兵を集めて、うちの屋敷に滞在している『商人』の荷物を改めなさい。甘い匂いのする小瓶が見つかれば、それが動かぬ証拠です」
ざわめきが怒号へと変わり、村人たちが一斉に屋敷の方へと走り出す。
私の右足首を掴んでいた未練霊の力が、スーッと抜けていくのを感じた。
真相が暴かれ、犯人が特定されたことで、男の無念が晴れようとしているのだ。
(ふふっ、完璧だ。一歩も歩かず、死体にも触れず、メイドと猫を使った究極のアウトソーシング検死。これでようやく、私の安眠は守られる……)
私がベッドでの極上の二度寝を夢見て、勝利の笑みを浮かべていたその時。
ココアが、感極まったようにポロポロと大粒の涙を流し始めた。
「レイラお嬢様……! お嬢様は、ただ部屋でゴロゴロしているだけの怠け者かと思っておりましたが、違ったのですね……!」
「え?」
「この憐れな死者の無念を晴らすため、その類まれなる頭脳を隠し持ちながら、あえて俗世を避けておられた……! ああ、なんという気高く、慈悲深く、そして天才的なお方なのでしょう! 私、ココアは一生、お嬢様にお仕えし、そのお体を物理でお守りいたします!!」
「いや、違う。私はただ寝たいだけで――」
「さあ、お嬢様! 事件は解決いたしました! 屋敷に戻って、犯人が捕まるのを特等席で見届けましょう! たぁぁぁぁっ!!」
ドゴォォォン!! という地響きとともに、ココアは私を抱えたまま、常軌を逸した跳躍力で空高く舞い上がった。
「ぎゃあああああっ!! 揺れる! 酔う! だから物理で運ぶのをやめろぉぉぉっ!!」
美しい青空の下、私の悲痛な叫び声が領地にこだまする。
前世の法医学知識による華麗な謎解きは成功したものの、私の平穏な引きこもりライフは、この怪力メイドの重すぎる忠誠心によって、さらに騒がしく物理的な脅威に晒されることとなってしまったのだった。




