第6話:霊感ゼロ・怪力メイドの『ココア』襲来。私の快適なニート生活が物理で脅かされる
本日は1話のみです
人体構造の力学において、これは明らかなバグである。
前世で法医学者として数え切れないほどの人体構造を見てきた私――桐生玲司の常識に照らし合わせれば、目の前で起きている現象は物理法則に対する重大な反逆行為だった。
「ココア、頼む、私を下ろしてくれ! 首が、ネグリジェの襟が締まる……!」
「ふふっ、お嬢様は元気いっぱいで可愛らしいですね! ですが、旦那様から『レイラは部屋にこもりがちだから、しっかり外の空気を吸わせてやってくれ』と厳命されておりますゆえ! メイドとして、お嬢様の健康管理は最優先事項でございます!」
私の必死の抗議も虚しく、首根っこを掴まれたままの私の身体は、宙に浮いた状態を維持していた。
私を片手でひょいと持ち上げているのは、本日付けで私の専属メイドとして雇用されたドワーフの美少女、ココアである。
彼女の身長は、七歳になったばかりの私と大して変わらない。百二十センチあるかないか、といったところだ。可愛らしい栗色のツインテールに、フリルがあしらわれたクラシカルなメイド服。どこからどう見ても、深窓の令嬢か愛らしいビスクドールにしか見えない。
だが、その華奢な(ように見える)腕のどこに、人間一人を長時間片手で吊り上げ続ける筋力が秘められているというのか。
(……おかしい。いくら私が同年代に比べて華奢とはいえ、七歳ともなれば体重は二十キロ前後あるはずだ。それを、肩関節の屈曲と肘関節の伸展を維持したまま、微動だにせず片手でホールドし続けるなど……。どんな筋繊維の密度をしているんだ? ドワーフの骨格筋は、人間のそれとは根本的に構造が違うとでもいうのか!? これでも彼女は立派な『成人』なのだから、成長途中の私とはベースが違うとはいえ、異常すぎる!)
私は空中で手足をジタバタと振り回しながら、前世の医学的知識を総動員して彼女の肉体を分析しようと試みた。
しかし、そんな私の学術的探究心など知る由もなく、ココアは鼻歌交じりに屋敷の廊下を闊歩していく。
背中に背負われた巨大な戦鎚が、彼女が歩くたびにズシン、ズシンと重低音を響かせる。あれだけでも数十キロの重量はあるはずだが、彼女の足取りは羽のように軽かった。
「ああっ、私の聖域が……! 私の安息の地が遠ざかっていく……っ!」
私は、どんどん小さくなっていく自室の扉に向かって、涙ながらに手を伸ばした。
過去二年間。黒猫の精霊ルウを使い魔とし、『ベッドの上の司令塔』として完璧な在宅ワーク・システムを構築した私は、文字通り一歩も部屋から出ることなく、怠惰で優雅な生活を謳歌してきたのだ。
それが今怪力メイドの手によって、無惨にも破壊されようとしている。
「さあ、お嬢様! お庭に到着いたしましたよ! 太陽の光を浴びて、元気よく駆け回りましょう!」
バンッ! と勢いよく裏口の扉が開け放たれ、初夏の日差しが容赦なく私の視界に突き刺さった。
「ぎゃあああっ!? 目が、目がぁぁぁっ!!」
引きこもり生活によって完全に日光への耐性を失っていた私は、ドラキュラのように腕で顔を覆い、悲痛な叫び声を上げた。
紫外線は皮膚の天敵だ。いや、それ以前に、外気に触れること自体が私の美学(ニート魂)に反する。
「まあまあ、お嬢様ったら。そんなに眩しいですか? はい、特等席をご用意いたしましたよ」
ココアは私を、庭の大きな樫の木の木陰に置かれた、白いガーデンチェアの上にふわりと下ろした。
首根っこを解放され、私はゼェゼェと荒い息を吐きながら椅子の上で丸くなる。
(……恐ろしい。これがドワーフの身体能力か。力ずくで逃げようとしても、物理的に勝てる見込みは万に一つもない)
私が絶望的な戦力差に打ちひしがれていると、足元の草むらから、スッと黒い影が立ち上がった。
『ヒャハハハ! こいつは傑作だぜ、ご主人様! あの悪代官みてえにベッドでふんぞり返ってたお嬢ちゃんが、仔猫みてえに首根っこ掴まれて引きずり出されるとはな!』
影から現れたのは、私の腹心であり使い魔の黒猫精霊、ルウだった。
彼は黄金色の瞳を細め、腹を抱えるようにして芝生の上を転げ回って笑っている。
「……ルウ、お前。使い魔なら主の危機を救え。あのメイドの顔を引っ掻いて、私の逃走経路を確保しろ」
『無茶言うなよ。あのドワーフ娘、霊感はおろか、魔力を感知する能力が文字通り『ゼロ』なんだぜ?』
ルウは、呆れたようにため息をついた。
『俺たち精霊や未練霊の姿は、魔力を持たない普通の人間には見えねえ。それでも、気配とか寒気くらいは感じるもんだ。だが、あの娘はそういう次元じゃねえ。俺が目の前で踊ろうが、悪霊が耳元で呪詛を囁こうが、全っく気づきもしねえんだ。俺が手出ししたところで、蚊が止まった程度の認識で、無意識に張り手されて俺が消滅させられるのがオチだぜ』
「使えない精霊め……!」
私はギリッと歯を噛み締めた。
霊的な存在であるルウにとって、物理特化で霊感ゼロのココアは、ある意味で最悪の天敵だった。
「あら、お嬢様? 誰とお話しされているのですか?」
ガーデンテーブルにティーセットを並べていたココアが、不思議そうに首を傾げて私を見た。
彼女の視線の先にはルウがいるのだが、当然ココアの目には映っていない。
「……猫だ。そこに、黒くて生意気な猫がいるだろう」
「猫ちゃんですか?」
ココアは目をぱちくりと瞬かせ、ルウがいる空間を見つめた。
そして、パァッと顔を輝かせる。
「まあ! お嬢様には『見えないお友達』がいらっしゃるのですね! 妖精さんでしょうか? なんて純粋で可愛らしいのでしょう……! 私、感動いたしました!」
「違う! 妖精とかそういうメルヘンな脳内フレンドじゃない! 元大泥棒の陰険な精霊だ!」
「ふふっ、お名前はなんていうのですか? 猫ちゃん、私にも撫でさせてくださいな〜!」
ココアは満面の笑みでしゃがみ込み、あろうことかルウの顔面がある虚空に向かって、太い指をわしゃわしゃと動かし始めた。
当然、彼女の手はルウの半透明の体をすり抜ける。
『うぉっ!? ちょ、おい! やめろ、変な風圧が来る! 筋肉の圧がすごいんだよ!!』
ルウは悲鳴を上げて、慌てて私の椅子の下へと逃げ込んだ。
ココアは空を切る自分の手を見つめ、「あれ〜? 逃げられちゃいましたねぇ」と呑気に笑っている。
(……ダメだ、話が全く通じない。このメイドの辞書に『霊的現象』という概念は存在しないらしい。私を可憐で純粋な、想像力豊かな少女だと完全に勘違いしている)
私は深く、重いため息をつき、温かい紅茶の入ったカップを両手で包み込んだ。
まあいい。外に出されたのは不服だが、ここで大人しくお茶を飲んでいれば、そのうち部屋に戻る口実も作れるだろう。
日光の当たらない木陰であれば、ギリギリ許容範囲だ。私は極力エネルギーを消費しないよう、椅子に深く腰掛けて目を閉じた。
――しかし、私のそのささやかな平穏の時間は、わずか数分で打ち砕かれることとなった。
「旦那様!! 大変でございます、ギルバート旦那様!!」
屋敷の裏門の方から、庭番のトムが血相を変えて駆け込んできた。
そのただならぬ悲痛な叫び声に、私はビクッと肩を震わせ、ココアもティーポットを置く手をピタリと止めた。
騒ぎを聞きつけたのか、屋敷の中から父・ギルバートが慌てた様子で飛び出してくる。
「どうしたトム! そんなに慌てて。また畑にイノシシでも出たのかい?」
「違います! 川です! 領地の南を流れる川の下流で……死体が、人間の水死体が上がったんでさぁ!!」
「なっ……死体だと!?」
ギルバートが絶句し、庭の空気が一瞬にして凍りついた。
私の脳内でも、警鐘がガンガンと鳴り響いた。
(……死体、だと?)
前世で幾度となく耳にしたその単語。
法医学者としての冷徹な思考回路が、反射的に状況のプロファイリングを開始しようとする。
水死体か。発見からの死後経過時間は? 腐敗の進行度は? 身元を示す遺留品は? 肺への水の浸入具合は?
(いや、待て! ストップだ、私! 前世の職業病を引きずってどうする! 私は今世、絶対に働かないと決めたのだ。死体など絶対に見たくないし、解剖なんて言語道断だ!)
私はブルブルと首を横に振り、この厄介事から物理的な距離を取るべく、そっと椅子から立ち上がり、抜き足差し足で屋敷へ戻ろうとした。
死体がある場所には、必ずと言っていいほど『未練霊』がいる。
今の私は、霊を引き寄せる特異体質(ネクロマンサーの才能)を持っているのだ。現場になど近づけば、どんな強力な未練を背負い込まされるか分かったものではない。
「レイラお嬢様!!」
背後から、ココアの凛とした、しかしどこか弾んだ声が響いた。
嫌な予感がして振り返ると、ココアの目はランランと輝き、背中の巨大な戦鎚を片手で軽々と握りしめていた。
「不審死ということは、川に恐ろしい魔物が出たのかもしれません! あるいは、盗賊の仕業か! どちらにせよ、領地の危機です! お嬢様をこんな危険な屋敷に一人残していくわけにはまいりません!」
「……は? いや、一番安全なのは鍵をかけた私の部屋のベッドの中だ。だから私は部屋に――」
「さあ、お嬢様! 私がお守りいたします! 共に現場へ急行いたしましょう!!」
「話を聞けぇぇぇぇっ!!」
私の抵抗の言葉は、またしても暴力的なまでの怪力によって物理的に封殺された。
ココアは私の腰を片腕でガッチリと抱え込むと、まるで小脇にラグビーボールでも抱えるかのような身軽さで、屋敷の塀をドスンッ! と跳躍して飛び越えた。
「うわあああああっ!? 高い! 速い! 揺れるぅぅっ!!」
景色が猛スピードで後方に飛び去っていく。
ココアの脚力は、馬車よりも速かった。私の貧弱な三半規管が悲鳴を上げ、胃の中の紅茶がシャッフルされる。
足元では、ルウが『ヒャハハハ! 最高の乗り心地だな!』と野次を飛ばしながら並走している。
「ココア、頼む! 降ろして! 吐く! 私、死体なんて見たくないの!!」
「大丈夫ですお嬢様! 死体など、私がこのウォーハンマーで粉砕して見せますから!」
「死体を損壊するな!! 前世の私の仕事(検死)が増えるだろうが!!」
もはや自分が何を叫んでいるのかも分からないまま、私はただ絶望の涙を流し続けた。
やがて、川のせせらぎと、人々のざわめく声が聞こえてきた。
領地の南を流れる川の岸辺。そこには、すでに数十人の領民たちが集まり、青ざめた顔で一点を見つめていた。
ココアは人だかりの最後尾にピタリと着地し、私を脇に抱えたまま「道を開けてください! お嬢様のお通りです!」と声を張り上げた。
モーゼの十戒のように、ざわめいていた村人たちが道を開ける。
その道の先に横たわっていたのは、水を吸って膨張した衣服を纏う、一体の男性の遺体だった。
顔は濡れた前髪で覆われ、肌は土気色に変色している。
(……ひどい有様だ。水死体の特徴的な巨人様観(ガス膨張)はまだ見られないが、皮膚の漂白とシワの形成から見て、死後数時間は水中にいたな。いや、待て。何かおかしいぞ)
見たくないと言いながらも、私の眼球は勝手に遺体の状態をスキャンし始めていた。
溺死体特有の、口元からの微細な泡沫状の液体の流出が見られない。それに、川岸に引き上げられた遺体の姿勢に、妙な硬直感が――。
だが、私を真の恐怖に陥れたのは、法医学的な遺体の所見ではなかった。
『……くる、しい……』
『……たす、けて……』
遺体の上に、覆い被さるようにして『それ』はいた。
全身からボタボタと泥水を滴らせ、ぬちゃぁりとした粘液質の黒いモヤで構成された、人の形を保っていない異形の未練霊。
周囲の村人やココアには、全く見えていない。
だが、私の目にははっきりと見え、私の耳には脳髄を直接引っ掻くような怨念の声が響いていた。
そして。
未練霊の、ぽっかりと空いた空洞のような二つの目が、真っ直ぐに私――レイラ・アルザスを捉えた。
『……みつ、けた……』
ゾクリ、と。
私の脊髄を、氷柱を突き立てられたような圧倒的な悪寒が駆け抜けた。
未練霊が、私の『死の魔力』に引き寄せられ、ズルリと手を伸ばしてくる。
ココアの脇に抱えられた状態の私には、逃げる術はない。
泥水で構成された冷たい手が、私の細い足首をガシリと掴んだ。
――ドクンッ。
心臓が跳ね、視界が弾け飛ぶ。
二度目となる、【一瞬の五感共有】の濁流が脳内に流れ込んできた。
息ができない。喉の奥に冷たい水が流れ込み、肺が焼け焦げるように痛む。
水の中でもがく感覚。光が遠ざかっていく絶望。
ここまでは、典型的な溺死の苦しみだ。
だが、その死の恐怖のどん底で、私の嗅覚は『あるはずのない匂い』をはっきりと捉えていた。
(……甘い? 川の泥水の中で……なぜ、こんなにも強烈な『甘い花の匂い』がするんだ……!?)
肺に水が満たされていく窒息の苦痛と、鼻腔を突くむせ返るような甘い匂い。
矛盾する二つの感覚が脳内で激突し、私は意識が真っ白に染まっていく中で、一つの残酷な真実に辿り着いていた。
この男は、ここで溺れて死んだのではない。別の場所で殺され、捨てられたのだ、と――。
目が、目がああああああっ!!!




