第5話:元大泥棒の黒猫精霊『ルウ』誕生! これが私の在宅ワーク
続きは明日です!
前世において、私は徹底した唯物論者であった。
法医学という極めて科学的かつ論理的な学問を修め、人間の死を『生命活動の不可逆的な停止』という物理現象としてのみ捉えてきた。魂の存在など信じていなかったし、ましてや死者が未練を残してこの世を彷徨うなど、三流のオカルト小説の中だけの話だと切り捨てていたのだ。
しかし、転生という最大のオカルトを経験し、さらには怨念の塊のような『泥人形の霊』に安眠を妨害されるという事態に直面して、私の強固な科学的信条は脆くも崩れ去った。
そして今、私の目の前で起きている現象は、私の残されたわずかな常識すらも粉々に打ち砕こうとしていた。
『……ふぁ〜あ。いやぁ、お嬢ちゃんのおかげで、長年の胸のつかえがスッキリ取れたぜ。ありがとな』
ふかふかのベッドの上。
私の足元にちょこんと座り、まるで人間のような流暢な言葉で話しかけてきたのは、漆黒の毛並みを持つ一匹の猫だった。
闇を切り抜いたかのような深い黒のシルエットに、黄金色に輝く大きな二つの瞳。ピンと立った耳と、しなやかにうねる長い尻尾。
それは、つい先ほどまで私の周囲を飛び回っていた、あの気味の悪い『頭に包丁が刺さった泥人形』が、超高密度の魔力の塊として凝縮し、新たな姿へと再構成された結果だった。
「……猫が、喋った?」
私は、五歳の愛らしい顔を盛大に引き攣らせながら、呆然と呟いた。
そんな私を見て、黒猫は喉の奥で『クックッ』と器用に笑い声を漏らす。
『なんだい、その間抜けな面は。あんだけの見事な推理をベッドの上から展開して、俺の死の真相とへそくりの在り処をピタリと言い当てた名探偵にしちゃあ、随分と驚きに耐性がないじゃねえか。まあ、無理もねえか。俺自身、自分がこんな姿になって実体化するなんて思ってもみなかったからな』
黒猫は、後ろ足で耳の裏をカリカリと掻きながら、さも当然のように言葉を紡ぎ続ける。
幻聴ではない。確かにこの猫は、私と意思の疎通を図っている。
脳内に直接響く念話などではなく、声帯を震わせて周囲の空気を振動させる、物理的な音声として。
「……お前、あの泥人形なのか? 未練が晴れたなら、普通は光になって天に昇るとか、そういうシステムなんじゃないのか?」
『俺だってそう思ってたさ。お嬢ちゃんの見事な種明かしを聞いて、俺のへそくりが裏切り者の仲間に奪われてなかったって知った瞬間、ドロドロに淀んでた恨み辛みがスゥーッと消えていったんだ。あぁ、これでやっと眠れるってな』
黒猫は、黄金の瞳を細めて、窓の外の青空を見上げた。
『俺は生前、裏社会じゃそれなりに名の知れた泥棒だったんだよ。どんな厳重な金庫からも音もなく宝を盗み出すってんで、『幻影』なんて大層な二つ名で呼ばれてた。だが、最後の仕事の直後、金に目が眩んだ新米の相棒に背後から刺されちまったのさ』
「……それで、致命傷を負いながらも必死に逃げて、あの枯れ井戸の横に宝を隠した、と」
『ああ。だが、自分が宝を守り抜いたって事実を知らないまま死んじまったから、金への執着だけが残って、あんな無様な泥人形になっちまった。お嬢ちゃんが俺の誇りを取り戻してくれたんだ。本来なら、あのまま綺麗に成仏してたはずなんだが……』
黒猫はそこで言葉を切り、スッと目を細めて私を真っ直ぐに見据えた。
その視線には、野生動物特有の鋭さと、人間の老獪さが入り混じっていた。
『お嬢ちゃん、あんた……とんでもない『魔力』を持ってるな?』
「魔力?」
『ああ。ただの魔力じゃねえ。死を引き寄せ、魂を縛り付ける、とびきり濃密で純度の高い『死の魔力』だ。俺の魂が天に昇ろうとした瞬間、あんたの体から漏れ出てるその魔力にガッチリと捕まって、気付いたらこうして精霊みてえな姿に作り替えられてたってわけさ。まるで、極上の蜜に囚われた羽虫みたいにな』
黒猫の言葉に、私は思わず自分の小さな手のひらを見つめた。
死の魔力。魂を縛り付ける。
前世の医学の知識には全くない、このファンタジー世界特有の禍々しい概念。
だが、言われてみれば腑に落ちる部分もあった。私が泥人形に触れた瞬間に起きた『五感共有』。あれも、私の内に秘められた未知の能力が引き起こした現象だったのだろう。死の直前のヒリヒリとした恐怖と絶望を、文字通り骨の髄まで味わわされるあの感覚は、単なるオカルト現象で片付けられるほど軽いものではない。
(……とはいえ、自分の能力の全貌など、今はどうでもいい)
私は、法医学者としての冷静な思考を素早く切り替えた。
重要なのは、この喋る黒猫が、私の平和なニート生活に益をもたらすのか、それとも害をなすのか、という一点のみである。
「なるほど、事情は分かった。だが、私の部屋に居座るつもりなら、一つ条件がある。私は静かな環境で、誰にも邪魔されずに永遠にベッドの上でダラダラしたいんだ。少しでも私の安眠を妨害するなら、今すぐ窓から庭の池へ放り投げるぞ」
『ひゅぅ、怖い怖い。物語から抜け出してきた妖精みてえに可愛い見た目してんのに、中身は随分と冷め切ったオッサンみたいなガキだぜ』
黒猫はニヤリと笑い、私のベッドのシーツにすりすりと体を擦り付けた。
『心配すんな。俺はもう怨霊じゃねえ。あんたの魔力で生まれた『精霊』だ。つまり、俺の命綱はあんたが握ってるようなもんさ。逆らう気なんてこれっぽっちもねえよ。それに……俺を傍に置いておけば、絶対に損はさせねえぜ?』
「ほう? 元泥棒の精霊が、私に何のメリットをもたらすというんだ?」
『俺の能力は、生前の泥棒としての嗅覚が精霊として昇華したものだ。ずばり、『お宝の匂いが分かる』のさ。金貨、宝石、価値のあるマジックアイテム。そういう金目のものがどこにあるか、俺の鼻は絶対にごまかせねえ。数キロ先からでも嗅ぎ分けてみせるぜ』
ピクリ、と。
私の前世の社畜根性と、今世での極貧生活によるトラウマが、その言葉に激しく反応した。
(……お宝の匂いが分かる、だと?)
私はベッドの上に正座し、黒猫を値踏みするように見下ろした。
現在、庭の枯れ井戸から発見された『へそくり』によって、アルザス家は一時的に破産の危機を免れたはずだ。両親の借金は返済でき、兄エリクの高価な薬も当面は買い続けることができるだろう。
だが、根本的な問題は何も解決していない。
我が両親は、底抜けにお人好しで、絶望的なまでに経済観念が欠如している。放っておけば、またすぐに怪しい詐欺師に騙され、全財産を失うことは火を見るより明らかだった。
私の至福のニート生活を維持するためには、継続的かつ、私が一切労働しなくても済むような『不労所得のシステム』を構築する必要があったのだ。
「……証明してみせろ。お前のその能力が、本物かどうか」
私が顎で促すと、黒猫は『任せな』と自信満々に胸を張り、ベッドからピョーンと床に飛び降りた。
そして、部屋の隅に向かって鼻をクンクンと鳴らしながら歩き出し、古い本棚と壁のわずかな隙間に前足を突っ込んだ。
カリンッ、と小さな金属音が響く。
『ほらよ。三年前に、あんたの親父さんが落として必死に探してた『銀貨』だ。埃まみれだが、ちゃんと価値はあるぜ』
黒猫が口にくわえて持ってきたのは、間違いなく一枚の銀貨だった。
私は、その銀貨を受け取り、そして黒猫の黄金の瞳をじっと見つめ返した。
私の脳内で、完璧なビジネスモデルが一瞬にして組み上がっていく。
(……この黒猫が宝の匂いを嗅ぎつける。そして私は、ベッドの上から家族や使用人にその場所を教え、掘り出させる。私は一歩も歩くことなく、一切の肉体労働をすることなく、安全で快適な部屋の中から指示を出すだけで、莫大な富を継続的に得ることができる……!)
これだ。これぞまさに、前世のブラック企業も真っ青の、究極の『完全在宅ワーク』である。
現場に出向いて泥に塗れる必要はない。私はただ、ふかふかのベッドの上で、安楽椅子探偵ならぬ『ベッドの上の司令塔』として君臨すればいいのだ。
「……ふふっ。ふふふふっ」
『……なんだいお嬢ちゃん。急に悪い顔して笑い出して。可愛い顔が台無しだぜ?』
「お前の名前は『ルウ』だ」
私は、ベッドの上から身を乗り出し、黒猫――ルウの頭をガシッと掴んで引き寄せた。
「これよりお前は、私の忠実な下僕であり、最高のビジネスパートナーだ。私に一生、ベッドの上で何不自由ない怠惰な生活を送らせるために、その鼻をフル稼働させて世界中の金目のものを嗅ぎつけろ。いいな?」
『……へっ。了解だ、我が悪魔のようなご主人様。俺の極上の鼻で、あんたのベッドの下を金貨の山にしてやるよ』
私とルウは、互いに悪代官のような邪悪な笑みを浮かべ、固い握手――いや、小さな手と黒い前足でハイタッチを交わした。
こうして、前世の過労死監察医と元大泥棒の精霊による、最凶の『引きこもり在宅ワークコンビ』が結成されたのである。
* * *
――それから、二年という歳月が流れた。
私は七歳になり、相変わらず儚げで可憐な(そして致命的に運動不足な)美少女として、順調に成長していた。白銀の髪は艶を増し、アメジストの瞳は微睡むたびに神秘的な輝きを放っている。
あの枯れ井戸のへそくり事件以降、我がアルザス家の財政状況は劇的に改善された。
借金は完済し、エリク兄様には王都から取り寄せた最高級の魔法薬を毎日飲ませることができるようになった。おかげで、兄様の顔色には少しずつ血の気が戻り、短時間なら庭を散歩できるくらいには体力が回復しつつある。
そして何より、私とルウによる『在宅お宝発掘事業』は、極秘裏に大成功を収めていた。
「ルウ、今日の成果は?」
『領主の館の裏山にある古い祠の下から、年代物の魔石を三つ。それから、隣町の廃墟の床下から、盗賊が隠したらしき金貨の入った革袋を一つだ』
「上出来だ。またトム(庭番)に、妖精さんの夢のお告げがあったと言って掘りに行かせろ」
部屋のベッドの上で寝転がりながら、私はルウが嗅ぎつけたお宝の情報を整理し、巧みに家族や使用人を誘導して回収させていた。
両親は相変わらず怪しい商人に引っかかりそうになるが、その度にルウが匂いで『偽物の粗悪品』を見抜き、私が子供の無邪気さを装って取引をぶち壊すことで、被害を未然に防いでいる。
おかげで、私の『絶対に働かない、一生ベッドの上で暮らす』という崇高な野望は、完璧に達成されつつあった。
毎日、ふかふかのベッドで目が覚めるまで眠り、美味しい食事をベッドまで運ばせ、暇になればルウと雑談をし、また眠る。
控えめに言って、最高の人生である。
前世で擦り切れるまで働いた私への、神様からのささやかなご褒美なのだと、心から感謝していた。
……そう。
私は完全に油断していたのだ。
この完璧な引きこもり生活を、物理的に根底から破壊する『最悪の脅威』が、すでに我が家の玄関を跨いでいたことに。
「レイラ! 起きてるかい?」
ある日の午後。
いつものようにベッドで微睡んでいた私の部屋の扉が開き、父・ギルバートが満面の笑みで入ってきた。
「我が家も少し豊かになってきたからね。お前の面倒を専門に見てくれる、新しい専属メイドを雇ったんだよ! とっても働き者で、しかも信じられないくらいお給料が安かったんだ!」
父の言葉に、私は嫌な予感を覚えて体を起こした。
安物買いの銭失い。父が『安かった』と言う時は、大抵ろくでもないものを掴まされている時だ。
「さあ、入っておいで。今日からお前が仕える、レイラだよ」
父の呼びかけに応じ、部屋に入ってきた『それ』を見て、私は少しだけ意表を突かれた。
そこに立っていたのは、私とさして変わらない背丈の、小柄な少女だったからだ。
栗色の髪を可愛らしいツインテールに結び、大きなヘーゼルナッツ色の瞳をぱちくりとさせている。フリルが多めのクラシカルなメイド服に身を包んだその姿は、まるで精巧に作られたビスクドールのように愛らしい。
ただ、その可愛らしい見た目に反して、彼女の背中には不釣り合いなほど巨大な、無骨な鉄の塊のような『戦鎚』が背負われていた。
「はじめまして、お嬢様。本日からお世話をさせていただきます、ドワーフの『ココア』と申します。ドワーフでありながら鍛冶の才能が全くない落ちこぼれですが、粉骨砕身、お仕えいたします!」
鈴を転がすような、甘く可愛らしい声。
そして、ふわりと広がるメイド服のスカートを摘んで、優雅なカーテシー(お辞儀)を披露する。
一見すれば、ただの小柄で可憐なメイドだ。ドワーフという種族でありながら、これほどまでに可愛らしい容姿をしているのは珍しい。しかも、これで立派な『成人』なのだという。
私は、少しだけ警戒を解いた。
(なんだ。小柄なドワーフの美少女か。鍛冶の才能がないから安かったというわけだ。このサイズのメイドなら、私がベッドで寝ていても邪魔にならないし、問題ないだろう)
そう高を括った私が、致命的な過ちを犯していたことに気づいたのは、その直後のことだった。
「さあ、レイラお嬢様! 本日はお日柄も良く、絶好のお散歩日和です! いつまでもベッドに引きこもっていては、お体に障りますよ! さあ、外の空気を吸いに行きましょう!」
ニコニコと愛らしい笑顔を浮かべたココアが、トテトテと軽い足取りで私のベッドに近づいてきた。
そして、彼女の白く細い腕が、私の体に伸びてきた瞬間。
「え……?」
「よいしょっと!」
ふわり、と。
私の体が、重力を完全に無視したかのように空中に持ち上がった。
ココアは、可愛らしい顔立ちのまま、まるで綿毛でも摘むかのように、片手で私の襟首をひょいっと摘み上げたのだ。
抵抗する間もない。私の貧弱な体重など、彼女にとっては空気と同義であるらしかった。
「お、おい! 待て、離せ! 私はベッドから一歩も動かないと決めているんだ! というか、片手で人を持ち上げるな! お前のその細腕のどこにそんな筋肉が隠されてるんだ!?」
「ふふっ、お嬢様は照れ屋さんですねぇ。さあ、行きましょう!」
「人の話を聞けぇえええええ!!」
私の悲痛な叫びは、霊感ゼロ・恐怖心ゼロ、そして常軌を逸した『圧倒的な怪力』を持つドワーフの美少女メイドの耳には、全く届いていなかった。
ドワーフ特有の筋密度を甘く見ていた。この可愛らしいメイドは、間違いなく物理法則を超越した筋肉の化け物だ。
私の理想のニート生活は今、圧倒的な物理の暴力によって、窓から青空の下へと強制連行されようとしていた。




