第3話:泥まみれの訪問者。初めての『五感共有(フラッシュバック)』
本日3話目です!
続きは明日投稿しますー
――冷たい。痛い。苦しい。
私の小さな手のひらが、目の前に迫ってきた泥人形の霊に触れた、まさにその瞬間だった。
現実の私の自室の風景は、ガラスが砕け散るように一瞬にしてブラックアウトした。
代わりに脳髄へ直接叩き込まれたのは、暴力的なまでの『他者の記憶』――否、死の直前に焼き付いた、生々しい『五感』の奔流だった。
ざあざあと降りしきる、凍てつくような雨の音。
全身を打ち据える雨粒は氷のように冷たく、衣服を通り越して体温を容赦なく奪っていく。
泥だらけの地面に這いつくばっている。口の中には、じゃりじゃりとした土の感触と、酷く生臭い腐葉土の味が広がっていた。
息ができない。気管に泥水が入り込み、咳き込もうとするが、肺が言うことを聞かないのだ。
(なんだ、これは……!? 私が体験しているんじゃない。この霊が、死ぬ間際に感じた感覚か……!?)
前世で監察医として数え切れないほどの遺体を解剖してきた私だが、死者の感覚を追体験するなどという非科学的な現象は初めてだった。
だが、法医学者としての冷静な思考回路の片隅で、私はこの異常事態の中でも極めて精緻な情報の分析を試みていた。
――痛い。背中が、焼けるように熱く、そして痛い。
右の肩甲骨の下あたり。そこから、鋭利な何かが深々と内臓に向かって突き刺さっている感覚があった。
刃物が肉を裂き、肋骨を擦る嫌な振動が骨伝導で響く。
熱い液体が、背中を伝って泥濘へと流れ落ちていく。自分の血液だ。
呼吸をするたびに、胸腔内でゴボゴボという不吉な音が鳴る。
肺が破れている。気胸、あるいは血胸を引き起こしている。この息苦しさは、泥水を飲んだからだけではなく、肺が血液で満たされ、物理的に膨らむことができないからだ。
『……なんで……どうして……』
恐怖と絶望、そして強い怒りの感情が、濁流のように私の心へ流れ込んでくる。
背後には、誰かが立っている。
雨音に混じって、荒い息遣いと、泥を踏みしめる重い足音が聞こえる。
誰かに刺されたのだ。背後から、不意打ちで。
『……おれの……金……かえせ……』
刃物が引き抜かれる嫌な感覚。
薄れゆく意識の中で、視界の端に何かが映った。
それは、苔生した石積みの古びた枯れ井戸と、その傍らに立つ、見覚えのある形をした大きな樫の木だった。
そして最後に残ったのは、奪われたものへの執着と、裏切られたことへの底知れぬ無念だった。
「――っ、はぁっ、あぁっ!!」
私はベッドの上で激しく身をよじり、弾かれたように上半身を起こした。
荒い呼吸を繰り返し、シーツをきつく握りしめる。
全身はびっしょりと冷や汗に塗れ、心臓は早鐘のように激しく脈打っていた。
過呼吸気味になっている。私は両手で口元を覆い、意識的にゆっくりと息を吐き出すことで、自律神経の暴走を必死に抑え込んだ。
「はぁ……はぁ……、い、今のは……」
震える手で、自分の右の肩甲骨の下あたりに触れてみる。
当然だが、そこには傷などないし、血も流れていない。私の身体は、どこも損傷を受けてはいない。五歳の健康な、いや、少し運動不足で貧弱な幼女のままだ。
だが、脳髄にこびりついたあの痛覚と、泥の味、そして絶望感は、決して幻などではなかった。
『……わたしの……へそくり……』
ふと視線を上げると、私の手のひらに弾き飛ばされた泥人形の霊が、少し離れた空中でぷかぷかと浮いていた。
頭に錆びた包丁が刺さった、ずんぐりとしたディフォルメ姿。
先ほどまではただ不気味なマスコットにしか見えなかったそれが、今は全く違った意味を持って私の目に映っていた。
(……この霊は、背中を刺されて死んだ。それも、深い殺意を持った人間による他殺だ)
私はベッドの上に座り直すと、前世の法医学者・桐生玲司としての思考回路をフル回転させた。
先ほどの『五感共有』で得た情報は、ただの恐怖体験ではない。解剖台に乗せられたご遺体が語る以上の、極めて重要かつ直接的な医学的所見の宝庫だった。
(まず、凶器についてだ。背中から突き刺された感覚、そして引き抜かれた時の抵抗感……あれは片刃の刃物。おそらく、刃渡り十五センチから二十センチ程度の、ごく一般的なサバイバルナイフか、それに類する狩猟用の短剣だ。この泥人形の頭に刺さっている包丁のイメージは、殺害に使われた凶器そのものではなく、『刃物で殺された』という死因が具象化したシンボルに過ぎないのだろう)
私は、震えが収まってきた両手を膝の上で組み、じっと泥人形を観察した。
(刺創の深さは、感覚から推測して少なくとも十センチ以上。右肩甲骨の下方、第5肋間から第6肋間付近から侵入し、右肺の下葉を貫通している。急速な呼吸困難と胸腔内出血の感覚があったことから、肺動脈、あるいは奇静脈などを損傷した可能性が高い。致命傷だ。刺されてから数分以内に失血性ショック、あるいは緊張性気胸で死亡したはずだ)
死因と凶器のプロファイルは完了した。
問題は、なぜこの男が殺されたのか、そして、なぜ私の部屋に現れたのかだ。
「……おい、お前」
私は、泥人形に向かって声をかけた。
五歳の可憐な少女に似つかわしくない、低く凄みのある声が出た。
「お前は、誰かに殺されたんだな。雨の降る泥濘の中で、背後から。相手は仲間か? 何かのトラブルに巻き込まれたのか?」
霊に話しかけるなど正気の沙汰ではないと自分でも思うが、相手が私の安眠を妨害している以上、放置するわけにはいかない。
泥人形は、私の声に反応したのか、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
そして、先ほどと同じく、脳内に直接怨嗟の声を響かせる。
『……かえして……おれの……へそくり……』
「……へそくり?」
私は眉をひそめた。
先ほどのフラッシュバックの最後にも、『おれの金』という強い執着の感情が渦巻いていた。
この男の未練は、自分を殺した犯人への復讐ではなく、『隠したお金』にあるらしい。
(……待てよ? フラッシュバックの最後に見た景色、あれはどこだ?)
私の脳裏に、死の直前の男の瞳に映った光景が鮮明に蘇る。
苔生した石積みの枯れ井戸。
枝振りの良い、大きな樫の木。
その配置には、見覚えがあった。というより、見慣れていた。
私の部屋の窓から見下ろすことができる、このアルザス家の中庭の端にある風景そのものだったのだ。
(そうか、そういうことか! この男は、外で死んだ見ず知らずの人間じゃない。数年前……おそらく私が赤ん坊の頃あたりに、この屋敷に忍び込んだ『泥棒』だ!)
点と点が線で繋がっていく。
男は、どこかで盗んだ金、あるいはこの屋敷から盗み出した金品を、一旦庭の枯れ井戸の周辺に隠した。
しかし、その直後に仲間割れが起き、隠し場所を吐かせる前か後かは分からないが、背後から刺されて殺されたのだ。
そして、遺体はおそらく犯人によってどこかへ隠蔽されたか、夜陰に乗じて運び去られたのだろう。だが、金への執着という未練だけが、この屋敷に泥人形の霊として縛り付けられ、魔力の高い私の元へと引き寄せられてきたというわけだ。
(なるほど、完全に理解した。つまり、あの枯れ井戸の周辺には、まだ犯人すら持ち去っていない『へそくり』が眠っている可能性が高い)
私の脳内に、今朝の食卓の光景がフラッシュバックした。
具のないスープ、硬い黒パン。
詐欺師に騙され続けるお人好しな両親。
そして、顔色を悪くして咳き込んでいた、優しい兄・エリクの姿。
我がアルザス家は、絶賛大貧困のどん底にある。このままでは家は取り潰され、兄は薬を買えずに死に、私のニート生活も崩壊する。
(もし、その『へそくり』を見つけ出せば、少しは家の足しになるのではないか?)
安眠の確保と、実家の財政難の解消。
これは、一石二鳥の素晴らしい取引だ。
とはいえ、私が泥だらけになって庭を掘り返すなど言語道断である。私は、生涯働かないという誓いを立てたのだ。外に出て汗水垂らして泥遊びをするなど、私の美学に反する。
「……ふふっ。どうやって労働せずに金を手に入れるか、完璧な作戦を思いついたぞ」
私がベッドの上で腕を組み、名探偵気取りで悪い笑顔を浮かべていた、その時だった。
「レイラ? 起きているかい? なんだか大きな声が聞こえた気がしたけれど……」
コンコン、と控えめなノックの音とともに、扉の向こうから兄のエリクの声が聞こえてきた。
私は慌てて表情を緩め、五歳の可憐な少女の顔を作り直した。
「お兄様! 起きていますよ。どうぞ入ってきてくださいな」
ギィ、と古びた扉が開き、エリクが顔を覗かせた。
彼は相変わらず青白い顔をしていたが、私がうなされているのを聞きつけて、わざわざ様子を見に来てくれたらしい。
「よかった。怖い夢でも見たのかと思って心配したよ。気分は悪くない?」
「ええ、大丈夫ですわ。それよりお兄様、聞いてくださいな! 私、とっても不思議な夢を見たんです!」
私はベッドの上にちょこんと正座し、目をキラキラと輝かせながら、前世で培った接待用の作り笑顔――もとい、無邪気な妹の演技を全開にした。
「不思議な夢?」
「はい! あのね、妖精さんが夢に出てきて教えてくれたんです。お庭にある、古い枯れ井戸のところに、『キラキラのお宝』が隠してあるんだよって!」
「お宝、かい?」
エリクは目をパチクリと瞬かせた。
当然だ。五歳の妹がいきなりそんなメルヘンチックなことを言い出せば、普通は「子供の夢想だ」と笑って流すだろう。
だが、私は引き下がらない。
「ええ! 絶対にあるんです! だからお兄様、一緒にお宝探しゲームをしましょう? お父様やお庭番のトムも呼んで、みんなでスコップを持って探すんです!」
「ふふっ、お宝探しゲームか。レイラがそんなに外で遊びたがるなんて珍しいね。いつもはベッドから出たがらないのに」
「よ、妖精さんがどうしてもって言うんです!」
私は頬を膨らませて必死に訴えた。
エリクは優しく微笑むと、私の頭をポンポンと撫でた。
「分かったよ。レイラがそこまで言うなら、僕もお宝探しに付き合うよ。父上たちにも声をかけてみるね。でも、僕はあまり力仕事はできないから、応援係になっちゃうけれど」
「はい! それで十分ですわ!」
エリクが部屋を出て行くのを見送ると、私は再びベッドの上に寝転がった。
ふかふかの枕に頭を沈め、天井の天蓋を見上げながら、私はニヤリと唇の端を吊り上げた。
(完璧だ。これでお兄様や父上たちが、勝手に庭を掘り返して『へそくり』を見つけ出してくれる。私はこの安全で快適なベッドの上から一歩も動かずに、安眠と小銭を手に入れられるというわけだ)
労働は他人に任せ、果実だけをいただく。これぞ、プロのニートの極意である。
私は、空中でぷかぷかと浮かぶ泥人形の霊に向かって、優雅に手を振った。
「安心しろ、泥人形。お前の未練、私がベッドの上から華麗に晴らしてやるからな」
私の安眠と、アルザス家の財政再建のための、初めての『安楽椅子探偵』が今、始まろうとしていた。




