第2話:お人好し両親の負債と病弱な兄。そしてベッド周りの「お客様」
本日2話目です
霊的な存在。あるいは、超常的な現象。
前世で法医学という、徹底的に科学的かつ唯物論的な世界に身を置いていた私にとって、それは「あり得ないもの」の筆頭だった。
人間の死とは、単なる生体機能の不可逆的な停止に過ぎない。心臓が止まり、血流が絶え、脳細胞が壊死し、やがて有機物の塊へと還元されていく。そこに魂が抜け出す隙間などなく、ましてや未練を残してこの世を彷徨うなど、非科学的極まりないオカルト妄想だと切り捨てていた。
だが、現在。
私は、そのオカルト妄想に四方を完全に包囲されていた。
「……気のせいだ。これは夢だ。過労死したストレスが見せている、極めて悪質な脳のバグだ」
天蓋付きのベッドの上で、私は掛け布団を頭まですっぽりと被り、ガタガタと震えながら必死に自己暗示をかけていた。
布団の外からは、ひどく陰惨で、ねっとりとした気配が絶え間なく伝わってくる。
『……さむ、い……』
『……どこ……わたしの……』
鼓膜を直接震わせるのではなく、脳髄の奥底に直接響き渡るような怨嗟の呻き声。
そっと布団の隙間から外を覗き見ると、そこには昨夜から居座り続けている「お客様」たちの姿があった。
それは、どう贔屓目に見ても生きた人間ではない。半透明の黒いモヤで構成された、奇妙にディフォルメされた姿をしたナニカだ。
右側を漂っているのは、頭に深々と錆びた包丁が刺さった、ずんぐりとした泥人形のような霊。
左側に浮かんでいるのは、黒い毛玉のような塊に、無数の充血した眼球がぎっしりとへばりついている悪趣味な霊。
他にも、手足が異様に長い棒人間のようなものや、半分潰れたカエルのような形をしたものなど、大小合わせて五体ほどの奇妙な霊たちが、私のベッドの周囲をぷかぷかと浮遊している。
(……なんであんなマスコットみたいな、変にディフォルメされた姿なんだ? リアルな落ち武者とか血まみれの女じゃないだけマシだが、それでも不気味すぎるだろう。しかも、なんで私の部屋に集まってくるんだ!)
私は布団の中でぎゅっと目を閉じ、耳を塞いだ。
私はただ、静かに眠りたいだけなのだ。
前世で削りに削られた睡眠時間を取り戻すため、今世は息をするためだけに生き、ベッドの上で生涯を終えると決めたのだ。
それなのに、転生初日から霊障による深刻な睡眠妨害に遭うとは、神はどこまで私を過労させれば気が済むのだろうか。
結局、その夜は一睡もすることができず、朝日が窓から差し込むのと同時に、霊たちが陽光に溶けるようにフッと消え去るまで、私は布団の中で震え続ける羽目になった。
* * *
「おはよう、レイラ。今日も可愛いね」
「おはようございます、お父様」
寝不足でふらふらする足を引きずりながら一階の食堂へと向かうと、そこには我がアルザス家の当主であり、今世の父親であるギルバート・アルザスが、朗らかな笑顔で私を出迎えた。
金糸のような美しい髪と、私と同じアメジストの瞳を持つ、線の細い優男だ。
隣では、母であるエレノアが、甲斐甲斐しく朝食の配膳をしている。彼女もまた、貴族らしい気品と優しげな微笑みを絶やさない、美しい女性だった。
しかし、その優雅な振る舞いとは裏腹に、食卓に並べられた朝食は、目を覆いたくなるほど質素なものだった。
具のほとんど入っていない、水のように薄い塩味のスープ。
石のように硬く、酸味の強い黒パンがひとかけら。
そして、白湯。
(……前世の病院食の方が、まだカロリーも栄養価も高かったぞ。成長期の五歳児に与える食事ではないな、これは)
私は心の中で深い溜息をつきながら、硬い黒パンをスープに浸して無理やり柔らかくし、小さな口に運んだ。
アルザス家は、れっきとした貴族である。
領地も持っているし、爵位だってある。それにも関わらず、なぜここまで生活が困窮しているのか。
その理由は、両親の会話を聞いていればすぐに分かった。
「そういえばエレノア。昨日、領地に立ち寄ったという旅の商人から、素晴らしい投資話を持ちかけられてね。なんでも、遥か東の国で採れる『絶対に枯れない魔法の小麦』の種らしいんだ。これを領地に植えれば、皆が豊かになると思って、家にある金貨を全部渡して買い占めておいたよ!」
ギルバートは、一切の悪びれもなく、むしろ「自分は良いことをした」と誇らしげに胸を張った。
その言葉を聞いて、エレノアもまたパァッと顔を輝かせる。
「まあ、あなたったら! 領民たちのためにそこまで……! さすがは私の見込んだ素晴らしい旦那様ですわ。きっとその商人も、あなたに救われて感謝していることでしょうね」
私は、口に含んだスープを危うく吹き出しそうになった。
(……バカなのか? いや、圧倒的なバカだ。それ、前世でもよくある典型的な詐欺の手口だろうが! 『絶対に枯れない小麦』なんて、どこの遺伝子組み換え作物だ! そもそも、そんな魔法の種があるなら、商人はわざわざこんな辺境の没落貴族に売りに来ないで、王都の大商会に持ち込むはずだろう!)
我が両親は、底抜けに人が良く、そして絶望的なまでに経済観念が欠如していた。
困っている人がいれば、たとえそれが明らかに怪しい相手であっても、疑うことなく手を差し伸べてしまう。
詐欺師からすれば、これほどカモりやすい相手はいないだろう。アルザス家が没落したのは、他でもない、この両親の『お人好しすぎる性格』が原因なのだ。
「ゲホッ、ゴホッ……! おはよう、父上、母上……レイラも、おはよう」
私が両親の無能っぷりに頭を抱えていると、食堂の扉が開き、一人の少年がゆっくりと歩いてきた。
私の三つ年上の兄、エリク・アルザスだ。
彼は私と同じ白銀の髪を持っているが、その顔色は蝋のように青白く、痩せ細った体は立っているのがやっとというほどに痛々しい。
「エリク! 無理をして起きてこなくてもよかったのに。ほら、温かいスープをお飲みなさい」
エレノアが慌ててエリクに駆け寄り、椅子に座らせる。
エリクは痛む胸を押さえながら、浅い呼吸を繰り返していた。
「ありがとう、母上……。でも、少しでも体を動かさないと、ますます動けなくなってしまいそうで……ゲホッ!」
激しい咳き込み。
私は、前世の法医学者としての目で、エリクの症状を冷静に観察した。
(呼吸器系の疾患か? いや、チアノーゼの兆候が見られる。唇や爪の先が紫がかっている。頸静脈の怒張も確認できる。この年齢での慢性的な咳と息切れ、そして顔の浮腫み……おそらく、先天性の重度な心疾患だ。心室中隔欠損症か、ファロー四徴症といったところか)
前世の現代医学であれば、適切な外科手術と投薬で十分に治療可能な病気だ。
しかし、この医療技術が未発達な中世ファンタジーレベルの世界において、それは実質的な「死の宣告」に等しい。
エリクが生きながらえているのは、教会の神官が施す高位の『治癒魔法』と、高価な『魔法薬』のおかげだった。
「エリク、心配しなくていい。お前の薬代は、父さんがなんとかするからな。少し領地の税を前借りして、王都から一番良いポーションを取り寄せてみせるよ」
「父上……申し訳ありません。僕の身体が弱いせいで、皆に迷惑を……」
エリクは、申し訳なさそうに俯いた。
私は、そんな兄を見て胸がチクリと痛むのを感じた。
エリクは、本当に優しい兄だ。私が前世のトラウマから部屋に引きこもりがちになっても、決して無理強いすることなく、いつもベッドの傍らで本を読んでくれたり、花を飾ってくれたりした。
この家族の中で、唯一まともな良識と知性を持っているのが彼だ。
(……お人好しで詐欺に騙されまくる両親。そのせいで膨れ上がる借金。そして、エリク兄様の莫大な薬代。我がアルザス家の財政状況は、まさに火の車というわけだ)
私は冷めたスープを飲み干しながら、己の置かれた状況の絶望的な厳しさを噛み締めていた。
このままでは、アルザス家は遠からず破産し、借金のカタとして領地を取り上げられるだろう。そうなれば、エリク兄様の治療も受けられなくなり、彼は確実に死ぬ。
そして何より――家がなくなれば、私が「一生ベッドの上でニートをする」という崇高な野望が、物理的に不可能になってしまうのだ。
(それだけは、絶対に避けねばならない。私の安らかな引きこもりライフのために、この家の財政をなんとかしなければ……だが、どうやって?)
五歳の病弱な令嬢に、まともな労働などできるはずがない。
そもそも、私は絶対に働きたくないのだ。外に出て汗水垂らして働くなど、言語道断である。
「……はぁ。とりあえず、今は寝よう。睡眠不足は万病の元だ。頭脳労働は、質の高い睡眠の後に限る」
私は食事を早々に切り上げると、両親と兄に挨拶をして、自室へと戻ることにした。
問題は山積みだが、焦っても仕方がない。まずは昨夜の寝不足を解消し、すっきりとした頭で今後の対策を練るべきだ。
* * *
しかし、私のそのささやかな願いは、自室の扉を開けた瞬間に無残にも打ち砕かれた。
「……嘘だろう」
昼間だというのに、部屋の中には薄暗い影が落ちていた。
いや、影ではない。
窓のカーテンをしっかりと閉め切った薄暗い室内。そこには、昨夜私のベッドを取り囲んでいた、あの奇妙な未練霊たちが、再び集結していたのだ。
『……さ、むい……』
『……かえして……』
頭に包丁が刺さった泥人形。目玉だらけの黒い毛玉。
それらが、私の帰還を待ちわびていたかのように、ふんわりと空中に浮かび上がり、再び私のベッドの周囲を旋回し始めた。
どうやら彼らは、昼夜を問わず、私がベッドに近づくと湧いてくるシステムらしい。
(ふざけるな……! これじゃあ、昼寝すらできないじゃないか!)
私は頭を抱え、ベッドシーツを強く握りしめた。
うるさい。気味が悪い。そして何より、彼らが放つ陰湿な気配のせいで、背筋が寒くて全く落ち着かない。
これでは、私の理想とする「ふかふかのベッドでの快適なニート生活」など、夢のまた夢だ。
『……いたい……いたいよぉ……』
特に、あの頭に包丁が刺さった泥人形の霊。
こいつが一番厄介だった。他の霊が一定の距離を保って浮遊しているのに対し、この泥人形だけは、やけに私に執着し、じりじりと距離を詰めてくるのだ。
『……わたしの……おか、ね……』
「っ……! 来るな、あっちへ行け!」
脳髄に直接響く声が、徐々に大きくなっていく。
泥人形の霊は、ズルズルと空気を引きずるような鈍い音を立てながら、ベッドの上に座り込む私の顔のすぐ近くまで接近してきた。
腐葉土と、酷く錆びた鉄の匂いが鼻を突く。
マスコットのような外見をしているが、その奥に潜む怨念の深さは、前世で数多の殺人現場を見てきた私ですら、本能的な恐怖を覚えるほどに重く、昏いものだった。
『……かえして……わたしの……へそくり……』
「うるさいっ! 私の安眠を妨害するな!」
極度の睡眠不足と、安息の地を奪われた怒り。
我慢の限界に達した私は、恐怖を怒りで塗り潰し、反射的に手を伸ばした。
本来、物理的な実体を持たないはずの霊魂。
それに触れることなど不可能だという常識すら忘れ、私はその泥人形の霊を乱暴に払いのけようと、小さな手のひらを押し付けた。
――その瞬間だった。
ドクンッ、と。
私の心臓が、まるで前世で死を迎えたあの時のように、大きく跳ねた。
私の手のひらが泥人形に触れた箇所から、莫大な情報量の『何か』が、神経回路を逆流して脳髄へと直接流れ込んできたのだ。
「……あ、がっ!?」
視界が、ぐにゃりと歪む。
自分の部屋の景色が消し飛び、全く別の光景が脳内に強制的に上書きされていく。
それは、ただの映像ではない。
冷たい雨の感覚。顔に張り付く泥の感触。
血の味。息ができない絶望的な窒息感。
そして、背後から突き刺された、燃えるような鋭い痛み。
――これは、この霊が死の直前に味わった、最期の『五感』?
強制的なフラッシュバックの濁流に飲み込まれながら、私は恐怖のあまり声すら出せず、ただ暗闇の底へと真っ逆さまに堕ちていった。




