第24話:初めての校外学習と、路地裏の泥人形
生化学的な観点において、高分子有機物によって構成された繊維構造体――すなわち高級寝具というものは、極めてデリケートな「生きた標本」に等しい。
どれほど優れた吸湿性や体圧分散性能を誇る至高の枕であっても、人間の頭皮から分泌される微量の皮脂、呼気に含まれる水分、そして空間中に浮遊する雑菌や魔力粒子の沈着によって、その内部構造は確実に劣化していく。前世の法医学教室においても、劣化した寝具に繁殖したダニや真菌の胞子を長期間吸入し続けた結果、慢性的な呼吸器不全やアレルギー性ショックを引き起こして解剖台へ送られてきた症例を、私は幾度となく目にしてきたのだ。
だからこそ、手に入れたばかりの至高のマジックアイテム『幻の最高級マンドラゴラ安眠枕』の品質を永久保存するためには、定期的なメンテナンスが絶対不可欠だった。
古代マンドラゴラ繊維の柔軟性を保ち、かつ防腐・防虫・芳香効果を最大限に発揮させるための「特殊調合アロマハーブ」――それを購入するため、私は今世で初めて、学園都市の一般商業区へと繰り出すことになったのである。
「ふんふふ〜ん♪ 休日の青空の下、お嬢様をベッドごと担いでお買い物なんて、メイド冥利に尽きますわね!」
「ココア……お願いだから、段差を越える時はもう少しサスペンション(膝のクッション)を利かせて頂戴。マイベッドのバネが軋むたびに、私の三半規管が車酔いのサインを脳幹へ送っているわ」
私はシルクベッドの上でふかふかの毛布に包まれ、可憐な生足を組んでクッションに顎を乗せていた。
私の頭上には、地中の古骨を微弱な死霊魔力で再構築した『古骨の陽傘』が差しかけられており、学園都市の初夏の強い日差しを完璧に遮断している。
私たちが進むのは、王立学園の正門を抜けた先に広がる、学園都市随一の大通り『白亜の大通り』だった。
石畳の両脇には、ガラス張りの華やかなカフェや高級ブティック、世界各地の魔導具や魔法薬を扱う専門店がずらりと軒を連ね、休日を楽しむ学生や裕福な市民たちで溢れかえっている。
当然、そんなきらびやかな大通りの中央を、小柄なドワーフメイドが「巨大な天蓋付きベッド」を軽々と担ぎ、その上で白銀の髪を持つ人形のように可憐な美少女が寝そべっているという光景は、道ゆくすべての人々の視線を釘付けにした。
「お、おい……見ろよ、あれ……」
「ベッドごと移動してるぞ……!? 病人の搬送か?」
「いや、見ろよあの髪と肌……めちゃくちゃ美少女じゃないか……!?」
「でも、なんでパジャマ姿でベッドの上に……?」
すれ違う貴族の学生や商人たちが、一様に目を丸くして立ち止まり、ヒソヒソと驚愕の声を漏らしている。
だが、前世で何千体もの遺体と向き合い、羞恥心の神経回路が完全に摩耗している元監察医の私にとって、他人の視線など空気中のチリ同然だった。
「ヒャハハハ! ご主人様、すれ違う奴らがみんな鳩が豆鉄砲食らったような顔してやがるぜ! 天下の王立学園の特待生様がベッドで街中を練り歩くんだ、そりゃあ見世物小屋より目立つってもんだ!」
私の影からひょっこりと顔を出した黒猫のルウが、前足を擦り合わせながら下卑た笑い声を上げた。
「騒がしいわね、ルウ。他人の網膜に私がどう映ろうと、私の体力の温存と安眠枕のメンテナンス以上に優先される事項はないわ。それより、お宝の匂いはどうなの? 目的の薬草店は見つかったかしら」
「へへっ、任せな! この先の路地を一本入った角にある『青い月光亭』って店だ。あそこには王宮御用達の最高級乾燥ラベンダーと、古代樹の防腐樹液がしっかりストックされてるぜ。金貨の匂いもプンプンしやがる!」
「上出来よ、ルウ。ココア、あの角を右へ曲がりなさい」
「了解いたしました、お嬢様! 薬草店へ向けて、進路右へヨーソローですわ!」
ココアが豪快に方向転換し、華やかな大通りから一本外れた、少し薄暗いレンガ造りの裏路地へと足を踏み入れた。
大通りの喧騒が一瞬で遠のき、古い石壁が作り出す冷たい日陰が私たちを包み込む。
――その時だった。
ゾワリ、と――。
私の首筋の産毛が、一瞬にして逆立った。
ただの気温低下ではない。大気中の生体魔力が急速に腐敗し、強烈な「死の波動」と「怨嗟の残滓」が渦を巻いている時にしか生じない、ネクロマンサー特有の霊的悪寒。
「……止まりなさい、ココア」
「はいですわ? どうかなさいましたか、お嬢様?」
ココアがピタリと足を止める。
霊感ゼロのココアには何も見えていないようだったが、私の冷徹なアメジストの瞳と、影の中のルウには、路地の奥から漂ってくる「異様な気配」がはっきりと感知できていた。
『おい、ご主人様……。この路地の奥、ただ事じゃねえぞ。血とヘドロと……それと、この前の中間試験の演習林で嗅いだ、あの不快な【合成魔薬の腐敗臭】が濃密に漂ってきやがる……!』
ルウが背中の毛をブワッと逆立て、低く唸り声を上げた。
ズズズ……、ベチャリ……。
路地裏の湿ったゴミ箱の陰から、何かが這いずり出てくる不気味な音が響いた。
そこに姿を現したのは、人間ではなかった。
全身がドロドロとした黒い泥とタールで構成された、人の形を模した不気味な塊――【未練霊】だった。
その泥人形の胸の中央には、人間用の医療器具とは思えないほど巨大な、無骨な『金属製の自動注射器』が、心臓を貫くように深々と突き刺さっていた。
「……う……ぁ……。熱い……身体が……燃える……っ……。助けて……僕の……魔力を……奪わないで……っ……」
泥人形は、ボロボロと黒い泥の涙をこぼしながら、助けを求めるように虚ろな腕を伸ばし、私のシルクベッドの縁へと縋り付いてきた。
もちろん、霊体であるためベッドが泥で汚れることはない。だが、その霊から放たれる凍てつくような無念と激痛の思念波が、私の脳幹を激しく揺さぶった。
「お、お嬢様? なんだか急にベッドの周りの空気がひんやりしてきましたわね? エアコンの故障かしら?」
「ココア、呑気なことを言ってないで、あのゴミ箱の裏を改めなさい。……急ぎなさい。そこに『本物の肉体(被害者)』が転がっているわ」
「えっ!? へ、へいっ!」
私の切迫した声に、ココアは表情を引き締め、ベッドをその場に降ろすと巨大なウォーハンマーを構えてゴミ箱の裏へと駆け寄った。
そして、積まれた木箱を怪力で軽々と跳ね除けた瞬間、ココアが息を呑むのが分かった。
「お、お嬢様……っ! 人が……生徒が倒れておりますわ! 息が……息がほとんどありません!」
私はシルクベッドから素早く身を起こし、ココアが差し出したスリッパを履いて地面へと降り立った。
手慣れた動作でポケットから『検死用シルク手袋』を取り出し、細く白い指先にはめる。
木箱の陰に倒れていたのは、仕立ての古い、擦り切れた特待生用の制服を着た一人の少年だった。年齢は十四、五歳ほど。平民出身の貧しい特待生だろう。
少年の顔色は土気色を通り越して青白く、呼吸は浅く不規則な下顎呼吸――典型的な、死の直前に見られる臨床的兆候を示していた。
そして、少年のすぐ脇の石畳には、泥人形の胸に刺さっていたものと寸分違わぬ、割れた『金属製自動注射器の残骸』と、紫色の怪しい薬液のシミがべっとりと残されていた。
「ルカがここにいれば応急処置をさせるところだけど……今は私がやるしかないわね。ココア、少年の気道を確保しなさい。舌根沈下を起こして窒息しかけているわ」
「了解ですわっ!」
ココアが少年の顎を持ち上げ、気道を広げる。
私は膝をつき、少年の首筋――頸動脈へと手袋越しに指を当てた。
「脈拍数は毎分四十以下……重度の徐脈。体温は三十五度を下回っているわね。……だが、不自然だわ。体温が低下している割に、全身の毛細血管が激しく拡張して点状出血を起こしている……」
私は割れた注射器の破片へと視線を移した。
ガラス片の内側に付着した紫色の残渣。その化学的な組成と、少年に何が起きたのかを正確に把握するためには、推論を重ねるよりも、最も直接的な手段を取るのが最善だった。
「ルウ、周囲の警戒を。人払い結界の残滓を維持しなさい」
『おうよ! 誰も近づかせねえぜ!』
「……アメリアのデータベースが恋しいところだけど、文句を言っても始まらないわね。死霊術の基礎応用――【五感共有】」
私は手袋を外した右手の指先を、少年の首筋に残る「生々しい注射痕」と、落ちていた金属注射器の破片へと、同時に重ね合わせた。
――瞬間。
視界が、暗転した。
ドクンッ……!
強烈な心臓の拍動音と共に、私の全感覚が、数十分前のこの路地裏で少年の肉体が味わった【絶望の記憶】へと強制同期された。
(くっ……! 相変わらず、ろくでもない追体験ね……!)
冷たい雨上がりのレンガの匂い。
背後から突然伸びてきた、革手袋の冷徹な感触。口を塞がれ、抵抗する間もなく路地裏の奥へと引きずり込まれる浮遊感。
『暴れるなよ、特待生のクズが。お前のような身寄りのない平民の魔力は、大賢者様の偉大なる研究のための最高の「触媒」になるんだから光栄に思え』
耳元で囁かれる、嘲笑を含んだ男の低い声。
制服の袖口に見えるのは、薬術学科の上級生が身につける高級な金糸の刺繍。
直後――首筋に走る、焼きごてを押し当てられたような鋭利な激痛。
プスリ、と金属針が皮膚を貫き、頸静脈へとダイレクトに怪しい紫色の液体が注入される。
『――ガッ、あ……ぁぁぁぁぁっ!?』
少年の喉から漏れる、声にならない悲鳴。
その瞬間、血管を通って全身へと流れ込んできたのは、耐え難い「劇薬の暴力」だった。
薬品が心臓に達した瞬間、魔力回路が狂ったように暴走を始める。
全身の血液が沸騰したかのような凄まじい灼熱感。細胞の一つひとつが強制的に引き裂かれ、魔力を極限まで搾り取られていく感覚。心臓が毎分二百回を超える異常な速度で痙攣し、脳の血管が一本ずつブチブチと弾け飛ぶような圧迫感――!
『おい、薬の濃度が高すぎたか? チッ、心停止を起こしやがった。……まあいい、魔力の抽出データは取れた。死体はそのまま路地に放置しておけ。野良犬の餌にでもなるだろ』
冷酷に吐き捨てられ、遠ざかっていく足音。
視界が急速に黒く染まり、指先から感覚が失われていく。
冷たい石畳の感触。胸の激痛。そして――「死にたくない、誰か助けて」という、魂の最後の叫び。
――プツリ。
感覚が、途絶えた。
「……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!!」
私は激しい動悸と共に手を離し、肩で荒い息を吐いた。
額から冷や汗が吹き出し、十歳の小さな胸が早鐘のように激しく打っている。
「お、お嬢様っ!? 大丈夫ですか!?」
ココアが慌てて私を支え、背中を優しくさすってくれた。
「……ええ、大丈夫よ。ただ、人間のクズの臨床実験を特等席で見せられただけだわ」
私は荒い呼吸を整えながら、冷徹極まりない光を宿したアメジストの瞳で、倒れている少年の全身を見据えた。
前世の監察医としての頭脳が、五感共有で得たデータをミリ単位で解析し、正確な病態生理を導き出す。
「ココア、聞きなさい。この少年は、まだ完全に死体にはなっていないわ。急性薬物中毒による『仮死状態(ショック性心不全)』よ」
「ま、まだ助かるのですか!?」
「ええ。超高濃度の『魔力励起エキス』によって心筋が急性痙攣を起こし、血圧が急降下して意識を失っているだけよ。……ルウ、お前の影の力で、この少年の首筋の注射痕から残存している紫色の薬液の魔力を吸い出しなさい!」
『へいっ、任せな! 毒気の魔力なら、俺の影の胃袋で全部飲み干してやるぜ!』
ルウが影となって少年の首筋に張り付き、ジュウジュウと音を立てながら、体内に残る毒性の魔力を急速に吸引し始めた。
同時に、私は少年の胸部へ手を当て、心臓マッサージを開始した。
「ココア、私の指示に合わせて少年の胸骨を正確に圧迫しなさい。深さは五センチ、リズムは一分間に百回よ。お前の怪力を三パーセントにセーブして、骨を折らないように慎重に押し込みなさい!」
「了解いたしましたわ、お嬢様! ドワーフの精密マッサージ、執行いたします!」
ココアの正確無比な力加減による心臓マッサージと、ルウの毒素吸収が合わさり、数分後――。
「……ケホッ、ゴホッ……っ!!」
少年が大きく咳き込み、肺に酸素を取り込んで弱々しく目を開けた。
瞳孔の対光反射が戻り、唇にわずかな赤みが差す。
「ふぅ……。自発呼吸の再開を確認。これで心停止による脳死の危機は脱したわね」
私は額の汗を拭い、泥人形の未練霊へと視線を向けた。
胸に注射器の刺さっていた泥人形は、自身の本体が息を吹き返したことで、その姿を徐々に薄れさせ、感謝するようにペコリと一礼して、ふわりと私の『毒見鳥の銀指輪』の中へと吸い込まれていった。
指輪の宝石が微かに光を増し、私の基礎魔力が底上げされたのを感じる。
未練の解消によるステータスの上昇だ。
しかし、私の心には達成感など一ミリもなかった。
あるのは、前世の社畜時代にも感じたことのない、底知れぬ「静かな怒り」だけだった。
「……許せないわね」
「お嬢様……?」
私の氷のように冷たい呟きに、ココアが息を呑んだ。
「学園都市の白昼堂々、貧しい学生を拉致して違法な魔薬を打ち込み、魔力を搾り取ってゴミのように路地裏に捨てる……。おまけに、せっかくの私の休日のアロマハーブ買い出しと、最高級枕のメンテナンス時間をこんな生々しい救急医療で台無しにしてくれたわ」
私は立ち上がり、シルクベッドの上へと戻ると、冷酷な光を放つ瞳で路地の奥を睨みつけた。
「五感共有で、犯人の特徴は完全にプロファイリングできたわ。着ていた制服、調合されていた薬品の匂い、そしてあいつらが口にした『大賢者様』という言葉……」
『ヒャハハハ! ご主人様、完全にキレちまったな! あの演習林の事件から、全部一本の線で繋がってやがるぜ!』
ルウが私の肩の上で不敵に笑う。
「ココア、この少年を学園の救護所へ搬送するよう、クロード教官に緊急連絡を入れなさい。……そして、寮にいるアメリアと第零区分の連中に招集をかけるわよ」
「は、はいっ! 作戦会議ですわね!」
「ええ。私の平穏な安眠を脅かし、休日の労働を強要した『吸血魔薬の密売組織』……その巣窟を、ベッドの上から一歩も動かずに徹底的に解剖して、根こそぎ叩き潰してあげるわ」
私の、絶対に働きたくない平穏な学園ニート生活。
休日の路地裏で拾った一つの命と、暴かれた恐るべき薬物犯罪の痕跡は、学園都市の暗部に潜む巨大な悪意を白日の元へと引きずり出す、安楽椅子探偵レイラの本格的な逆襲捜査の幕開けを告げていたのである。




