第22話:安楽椅子探偵のカンニング
法医学において、『安楽椅子探偵』という言葉は、一見すると現場を汚さない不真面目な怠惰の代名詞のように思われがちだ。
しかし、前世で連日連夜、現場と解剖室を往復して泥と血液に塗れていた元監察医の私に言わせれば、真の鑑識眼と完璧なデータベースを所有する者にとって、わざわざ自分の足で現場を這い回ることすら過剰なエネルギー(カロリー)の無駄遣いである。
現場に残されたわずかな痕跡(物質的証拠)と、生体反応の論理的な矛盾、そして完璧な記録保管庫。その三つさえ揃えば、探偵はふかふかのシルクベッドの上から一歩も動くことなく、犯人の首元に寸分の狂いもなく容赦のない論理のメスを突き立てることができるのだ。
「……はぁ。アメリア、まだ特定できないの? 私の脳の処理スピードなら、すでに前世の臨床データベースと照合して容疑者を三人まで絞り込めているのだけど」
私はシルクベッドの上でクッションに深く顔を埋めたまま、怠惰の極みのような声を絞り出した。
私の頭上では、ココアが掲げる『古骨の陽傘』が、木漏れ日の眩しい光を完璧に遮断してくれている。
「も、申し訳ございません、お姉様……っ! 学園都市の禁書庫にアクセスし、薬術学科の全生徒の過去三ヶ月間の備品申請ログと、制服の縫製縫合データを並列処理でスキャンしておりますわ! あと五秒……いえ、三秒で完了いたします!」
私のベッドの左側に陣取ったアメリアが、古い魔導書を激しく発光させながら、大きな目の下の隈をピクリと動かした。彼女の額からは冷や汗が垂れており、私の期待に応えようと、その『禁書庫の鍵』の能力を極限までオーバークロックさせている。
「ヒャハハハ! ご主人様、ベッドの上でゴロゴロしながら犯人を追い詰めるなんて、相変わらず悪魔みたいな省エネ戦術だな! これぞ真の不労所得探偵だぜ!」
影から顔を出した黒猫のルウが、テーブルの上で前足を伸ばしながらニヤニヤと笑っている。
「静かにしなさい、ルウ。私の省エネ戦術を悪魔扱いしないで。これは『最小限の労働で最大効率の成果を上げる』という、法医学的かつ経済的な最適化よ。……ほら、クロエ、戻ってきたわね」
私がベッドの縁から視線を落とすと、私のシルクベッドが描く影の輪郭が、ぬらりと不気味に歪んだ。
そこから音もなく姿を現したのは、黒いフードを深々と被った少女――第零区分の特待生、クロエだった。
「……レイラ様、報告です……」
クロエは鈴を転がすような低い声で、影の中から一枚の小さな羊皮紙のメモを私の手元へ差し出してきた。
「演習林の西側、第二観測地点の木の上……。第一区分の『薬術学科三年』の生徒が一人、高倍率の遠遠鏡を使って、さっきの魔獣の死体の方角を凝視していました……。彼の右側のポケットは不自然に膨らんでおり、制服の第二ボタンが……確かに引きちぎられて紛失しています……」
「ご苦労様、クロエ。完璧な足踏み(スクープ)ね」
私はクロエの頭をそっと撫でてやった。クロエはフードの奥で頬を微かに染めると、満足そうに再び私のベッドの影の中へとスルスルと潜り込んで消えた。
「――お姉様! データ、完全に合致いたしましたわ!」
アメリアが歓喜の声を上げ、魔導書のページをバシッと叩いた。空中へ浮かび上がった青い光のホログラムに、一人の男子生徒の顔写真と詳細な個人データが投影される。
「第一区分・薬術学科三年、特待生筆頭候補――【ジュリアン・フォン・ボア】。実家は学園都市の巨大製薬ギルドを仕切るボア子爵家。彼が二週間前に禁書庫の特別閲覧権限を申請し、さらに薬品保管庫から『魔力励起ハーブの高濃度エキス』と『強酸性有機溶剤』を過剰申請していた事実を特定いたしましたわ!」
「完璧だわ、アメリア。これでパズルのピースは百パーセント揃ったわね」
私はクッションに顎を乗せたまま、冷徹なアメジストの瞳を細めた。
さあ、安楽椅子探偵のカンニング(論理的王手)の時間である。
「クロード教官。そこに突っ立って呑気にリンゴを噛み砕いている暇があるなら、そのジュリアンとかいう三年生を、今すぐこのベッドの前へ連行してきて頂戴」
「えー? 俺がわざわざ行ってくんの? レイラちゃん、俺一応担任なんだけどなぁ」
木の上で欠伸をしていたクロードが、死んだ魚のような目を私に向けた。
「お給料をもらっているのでしょう? 公務員なら働きなさい。それとも、私が今すぐこの演習林全体の『生の魔力』を吸い尽くす『絶対死域』を展開して、教官の持っているその美味しいリンゴを、水分ゼロのただの乾燥ゴミに変えて差し上げましょうか?」
私が指先を微かに動かし、漆黒の死霊魔力をちらつかせると、クロードは「わかった、わかったから! その物騒な魔力を引っ込めろって!」と冷や汗をかいて木から飛び降りた。
「ったく、10歳児のくせに脅し方がエグいんだよなぁ……。まあ、違法薬物の人体実験となると、学園の安全管理責任にも関わるしねぇ。ちょっと摘んでくるわ」
クロードの姿が、一瞬でかき消えるようにその場から消え去った。元・伝説の暗殺者らしい、音も気配もない超高速移動である。
ほんの数十秒後。
ドサッ!!!
「ぬわぁぁぁぁっ!? な、なんだ!? 何が起きた――!?」
演習林の草むらから、悲鳴と共に一人の男子生徒が叩きつけられた。
綺麗な金髪を乱し、豪華な薬術学科の制服を着こなした上級生――ジュリアン・フォン・ボアその人だった。彼を首根っこから掴んで放り投げたクロードが、「はい、連行完了〜」と呑気に手を振っている。
「ク、クロード教官!? いきなり何をされるのですか! 私は三年生の生徒ですよ! こんな地下の欠陥品どもの前に連れ出して――」
「静かにしなさい、うるさいわね」
ジュリアンの怒号を、私の氷のように冷たい一言が遮った。
ジュリアンがハッと息を呑み、視線を上げた。
そこにいたのは、ココアが担ぐシルクベッドの上で、ふかふかのクッションに身を預けたまま、可憐な指先で日傘の骨を弄んでいる私――白銀の髪を持つ10歳の少女だった。
私の左右には、重低音の呪詛を撒き散らす屍蝋化怨霊と、目の下に隈を浮かべたアメリア。周囲には妖刀に手をかけるシデンや、巨大なハンマーを構えるココアといった、第零区分の劇薬たちが逃げ場を塞ぐように立ち塞がっている。
「な……なんだ、この異様な空間は……!? おい、欠陥品ども、私を誰だと思っている! ボア子爵家の次期当主にして――」
「ジュリアン・フォン・ボア。お前が演習林の奥で密かに試作型『吸血魔薬』の投与実験を行っていた動かぬ証拠を、今から法医学的に突きつけてあげるわ。大人しく聴取に応じなさい」
「は……!? き、吸血魔薬だと……!? 何のことだ、証拠もないくせに適当な言いがかりを――」
「証拠なら、お前のその惨めな肉体と持ち物に山ほど残っているわよ」
私はクッションの上から、冷酷な執刀医の眼差しでジュリアンを指差した。
「第一に、お前の右側のポケットの膨らみ。そこに入っているのは、空気圧式の『自動金属注射器』の予備カートリッジね。お前の服の右ポケットの縫い目が、重さに耐えきれずに下方向へ三ミリほど引きつれているわ」
「なっ……!?」
「第二に、お前の制服の第二ボタンの消失。さっきの黒脊狼の死体のすぐ横のぬかるみに、お前が落としていった同じ刺繍の金糸ボタンと、割れた試薬瓶のガラス片が沈んでいたわ。アメリアのデータベースによれば、そのボタンの糸の配色は、薬術学科三年の特待生だけに許された特殊な仕様よ」
ジュリアンが自身の胸元へ手をやり、顔から一瞬で血の気を引かせた。
「第、第三に……これが最も決定的な『法医学的物理証拠』よ」
私はふーっと小さな溜息をつき、ジュリアンの手元を冷たく見つめた。
「お前の右手の食指と中指の爪の間に、微かに残っている紫色の沈殿物。……それは、お前が自作した試作魔薬の主成分である『魔力励起ハーブ』を煮詰めた際に生じる、特有の樹脂性タールよ。そのタールは水では落ちず、アルコールでしか分解できない。お前は実験が失敗して急いで現場を離れたから、指先の洗浄を怠ったわね?」
「ひっ……! 指先……!? そんな、爪の間の微小な汚れまで……見ていたというのか……!?」
ジュリアンがガタガタと全身を震わせ、自身の右手を見つめて後退した。
一歩も動かず、魔法すら使わず。
ただの臨床観察とデータ照合のみで、密売組織の末端である上級生の犯罪行為を、文字通り言い逃れのできないレベルで完璧に証明してみせたのだ。
「フッ、素晴らしい。一歩も動かずに敵の罪状を確定させ、退路を完全に断つ。レイラ殿の『安楽椅子検死』、まさに神業なり」
シデンが感銘を受けたように頷き、刀の柄をカチリと鳴らした。
「さあ、ジュリアン先輩? 言い訳はもう通用しないわよ」
私はベッドの上で足を組み直し、アメジストの瞳から絶対零度の冷気を放った。
「お前がどこからその密造薬のレシピを手に入れたのか。そして、誰の指示でこの演習林で魔物を使った人体実験を行っていたのか……。すべて洗いざらい吐き出しなさい。さもなければ……お前がその魔物に試した試作薬の余剰分を、お前の首筋に直接全量投与して、心臓の過剰脈動でどうなるか人体実験のデータを取らせてもらうわよ?」
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 喋る! 喋ります、喋りますから助けてくれぇぇぇっ!」
私の冷酷すぎる脅迫に、ジュリアンは完全に精神を崩壊させ、地面に平伏して泣き叫んだ。
「お、教えられたんだ! 学園の裏取引ルートで……『大賢者様』の研究室の助手だと名乗る男から、大量の金貨と引き換えにこの薬のデータ収集を頼まれたんだ! 私はただ、指示通りに魔物に薬を打って反応を記録していただけなんだぁぁぁっ!」
「……大賢者、だと?」
その言葉が出た瞬間、私の右側に漂う屍蝋化怨霊が、ギギギ……と不気味な怨嗟の音を激しく鳴らした。
「……大賢者……、大賢者……。やっぱりあいつだ……僕の遺産を奪い、首を絞めたあの大賢者め……殺して……うらめしや……」
(ハァ……。やっぱりあの絞殺体の言っていた『大賢者』が、この学園の裏でヤバい薬の実験まで手を広げていたわけね……)
私は呆れたように頭を振った。
まだ入学したばかりの1年生なのに、どうしてこうも国家の最高権力者の暗部(不祥事)ばかりにぶち当たるのだろうか。前世でも、政治家や警察上層部が絡む面倒な事故物件の解剖ばかり押し付けられていたのを思い出す。デジャヴもいいところだ。
だが、今の私にとって、大賢者の闇などどうでもよかった。
「クロード教官。犯人の供述も取れたことですし、このジュリアン先輩を連行して、学園の自警団に引き渡して頂戴。これで『演習林の不審死事件』は解決ね」
「へいへい、了解。いやー、レイラちゃん一人で事件解決しちゃったよ。俺、本当に教官として何もしなくていいから楽で助かるわぁ」
クロードはジュリアンの襟首を掴み上げ、泣き叫ぶ彼をズルズルと引きずりながら去っていった。
「さて……」
私はシルクベッドの上で大きく背伸びをし、眩しい木漏れ日を見上げた。
「これで演習林の邪魔者も消えたし、第一区分の主力も全滅させたわ。……アメリア、対抗戦の状況は?」
「はいっ、お姉様! 我が第零区分が、第一区分の全生徒を撃破し、本陣旗を奪取いたしました! 第一回合同中間試験……我が第零区分の『完全勝利』でございますわ!」
アメリアが歓喜の声を上げ、劇薬クラスメイトたちが一斉に「うおぉぉぉっ!」と勝ち鬨を上げた。
「そして、個人総合スコア第1位は……圧倒的な撃破数と戦術指揮を記録された、レイラお姉様ですわ!」
「……勝ったわね」
私のアメジストの瞳が、ついに歓喜の光で満たされた。
個人1位の報酬――『幻の最高級マンドラゴラ安眠枕』。
周囲のあらゆる怨念やノイズを100%シャットアウトする、私の命の綱である至高の安眠具が、ついに私の手に入るのだ!
「ココア、今すぐ表彰式へ向かいなさい! 私の安眠枕を回収して、今夜から完璧な不労所得ニート睡眠を執行するわよ!」
「了解いたしました、お嬢様! 最高級枕の回収へ向かって、爆走いたしますわー!」
ココアがテンション最高潮でマイベッドを担ぎ上げ、表彰式の会場へと力強く走り出した。
しかし――この時の私は、まだ知らなかったのだ。
悲願の安眠枕を手に入れた直後、休日の学園都市の路地裏で、さらなる不気味な未練霊(泥人形)と遭遇し、大賢者の裏組織が密売する『吸血魔薬事件』の本格的な深淵へと、ベッドごと突っ込んでいくことになるということを……。




