第21話:演習場の不審な影と、二度目の検死
人間が運動を終えた後、あるいは激しい戦闘を経験した後に感じる疲労には、大きく分けて二つの種類が存在する。
一つは、筋肉内のグリコーゲンが枯渇し、乳酸などの代謝産物が蓄積することによって生じる「肉体的疲労」。そしてもう一つは、脳内の神経伝達物質の不均衡や、過剰な感覚入力によって自律神経が焼き切れる「神経的疲労」である。
現在の私の状態は、間違いなく後者――それも、前世で三日連続の徹夜解剖を終えた直後のような、脳のシナプスがジリジリと音を立てて焦げ付くような「末期の神経的疲労」だった。
「……はぁ。ココア、お願いだからその日傘をもう少し低く差し出して頂戴。上空の魔導結界から漏れ出る紫外線が、私の可憐な皮膚のメラニン細胞を過剰刺激しているわ」
私はシルクベッドの上でクッションに顎を乗せたまま、怠惰の極みのような声を絞り出した。
「了解いたしました、お嬢様! この『古骨の陽傘』の角度を微調整いたしますわね!」
ココアが片手で私の重いベッドを担ぎながら、もう片方の手で掲げているのは、漆黒の布地をあしらった一本の美しくも不気味な日傘だった。
傘の骨組みに使われているのは、普通の金属や竹ではない。私が死霊魔力をほんのわずかに応用し、地中に埋もれていた小動物の古骨を再構築して錬成した「骨の傘骨」である。
……誤解しないでほしいのだが、私は別に格好つけてこんな不気味な日傘を使っているわけではない。
私という存在は、前世の社畜監察医としての記憶と、今世の「TS死霊術師」としての膨大な死霊魔力を兼ね備えている。本気を出せば、それこそ周囲の魔法や熱量を根こそぎ吸い尽くして不発化させる『絶対死域』や、相手の肉体のATP(生体エネルギー)をゼロにして一瞬で硬直させる『屍後硬直』、あるいは地中から巨大な竜の骨格を掘り起こす『古骨の巨腕』といった、国家を一つ滅ぼせるレベルの圧倒的な死霊術を行使すること自体は可能だ。
だが――そんな大技、絶対に使うわけがないじゃない。
一度でもそんな過剰な魔力を行使すれば、私の未熟な10歳の肉体は激しいカロリー消費と魔力酔いに襲われ、一週間は起き上がれないほどの猛烈な倦怠感に襲われる。ただですら「働きたくない」「一秒でも長く寝ていたい」私にとって、そんな疲れる能力は「生涯封印したい黒歴史の切り札」でしかないのだ。
だからこそ、日常使いの死霊術など、この日傘の骨を微調整する程度の、極小・省エネな利用法にとどめるのが私の鉄則だった。
「レイラ殿。この先でござる。演習林の最奥、第一区分の本陣跡地の手前……」
㠿藍色の着物を翻し、シデンが警戒露わに草むらを押しのけた。彼の腰の妖刀『村雨』が、不穏な気配を察知してシャリシャリと不気味な刃鳴りを立てている。
「あ、あの、レイラさん……っ。なんだかこの先の空調……空気の匂いが、すごく変なんです。僕の薬草知識のデータベースにない、不快な化学臭がして……」
㠿包帯だらけのルカが、自身の鼻を両手で覆いながら、怯えたように私のベッドの脇へと縮こまった。後ろでは巨躯のガウェインが、熊のぬいぐるみを胸に強く抱きしめ、真っ青な顔でガタガタと震えている。
「ふむ……。空気中に漂う高濃度の有機溶剤系の臭気、およびタンパク質の焦げたような腐敗臭ね。……アメリア、周囲の境界線に人影はあるかしら?」
「はい、お姉様。私の『禁書庫の鍵』による広域索敵を行いましたが、地上クラスの生徒たちは先ほどの敗北により、全員が救護所へと運ばれておりますわ。現在、このエリアに存在するのは……私たち『第零区分』の生徒のみです」
㠿アメリアが私のベッドの左側にぴったりと腰掛け、蒼白な肌に浮かぶ目の下の隈をピクリと動かしながら報告した。
「なら、いいわ。ココア、ベッドをあの樹齢数百年の巨木の根元へつけなさい。……嫌な予感がするわね。私の平穏な安眠が、また妙な事件によって脅かされようとしているわ」
㠿ココアがズシンと重い足取りでベッドを降ろした場所――そこは、第一区分の豪華な本陣幕が張られていた広場のすぐ手前だった。
㠿そこに横たわっていたのは、息絶えた一頭の巨大な『黒脊狼』の死体だった。
体長三メートルを超える強力なB級魔獣。本来であれば、第一区分のエリート生徒たちが何人もがかりで討伐するはずだった演習林の「ヌシ」とも言える存在である。
㠿だが、その死に様は、あまりにも不自然で、かつ凄惨だった。
「……酷い。外傷が、ほとんど見当たらない……っ。剣で斬られた跡も、魔法で焼かれた痕跡もないのに、どうして……?」
㠿ルカがおずおずと覗き込み、悲痛な声を上げる。
㠿確かに、巨獣の体表には目立った傷口が存在しなかった。しかし、その全身の毛並みは不自然に逆立ち、目、鼻、口、そして耳の孔という孔から、黒く凝固した血液が目立つほど漏れ出していた。皮膚の表面は、まるで内側から電子レンジで加熱されたかのように水疱が泡立ち、赤黒く腫れ上がっている。
「……シデン、その刀の柄で、この魔獣の胸部に触れてみなさい」
「はっ!」
㠿シデンが言われた通り、妖刀の柄頭で魔獣の肋骨あたりを軽く突いた。
ぐにゃり、と不気味な手応えと共に、魔獣の胸部がまるで腐った熟し柿のように深く沈み込んだ。
「ぬ……っ!? 骨が……肋骨の構造が完全に対小砕(粉砕)しておる!? 外部からの打撃痕がないにもかかわらず、内側から骨が溶けているかのような不気味な感触……!」
「打撃による骨折ではないわね。胸腔内の圧力異常上昇……要するに、心臓の爆発的な過剰拍動(超脈動)による、内臓破裂と肋骨の内側からの自壊よ」
㠿私は溜息をつきながら、シルクベッドの縁からゆっくりと可憐な生足を降ろした。
素足のまま地面に立つ気はないので、ココアが即座に私の足元へ専用のシルクスリッパを差し出す。私は日傘をココアに預けると、袖口からいつもの『検死用シルク手袋』を取り出し、細く白い指先にはめた。
「レイラちゃん、本当に行くの〜? 俺、暗殺者だから死体は見慣れてるけどさ、その死体、なんか嫌な予感がするんだよねぇ」
㠿木の上でリンゴをかじっていた担任のクロードが、死んだ魚のような目を少しだけ細めて声をかけてきた。その口調は呑気だったが、彼の身体の軸は、いつでも私を守れる位置へと密かに移動している。
「不気味だからこそ、今ここで解剖(検死)するのよ、クロード教官。……野放しにしておいて、私の『安眠枕』の受領式が延期にでもなったら、私は学園都市の魔導回路を物理的に切断してやるわ」
㠿私は冷徹な瞳のまま、魔獣の死体の前へひざづいた。
前世の監察医としての習性が、脳内の怠惰な自分を上書きしていく。原因不明の不審死、未知の毒物、臨床データの存在しない死体――それらを目の前にした時、私の頭脳は社畜時代の冷徹なプロフェッショナルへと強制的に切り替わるのだ。
「ルウ、影を広げなさい。直射日光を遮断して、組織の劣化を防ぐのよ」
『へいへい、お安い御用だぜ、ご主人様!』
㠿ルウが私の影から飛び出し、黒い霧となって魔獣の死体の上空を覆った。
「アメリア、この魔獣の生死判定の時間的ログを抽出して」
「了解いたしましたわ、お姉様。……死後経過時間は、約十五分から二十分。ちょうど、私たちが谷で第一区分を全滅させていた時間帯と完全に合致いたします」
「よし。……それじゃあ、始めるわね。死霊術の基礎応用――【五感共有】」
㠿私は手袋をはめた右手を、魔獣の赤く腫れ上がった眉間の皮膚へとそっと重ね合わせた。
㠿――瞬間。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
『――ガアァァァァァッ!!?』
㠿脳内に直接叩き込まれる、耳を裂くような断末魔の絶叫。
私の全神経が、一瞬にしてこの『黒脊狼』が死の直前の数秒間に味わった【五感の地獄】へと強制同期された。
㠿(くっ……! 相変わらず、ろくでもない刺激ね……!)
㠿舌の上に広がるのは、ヘドロと強酸を混ぜ合わせたような、耐え難い「苦味」と「化学薬品の刺激臭」。
喉の奥が焼き切れるような灼熱感。そして何より、全身の血管という血管が、内側から高圧ポンプで過剰に膨らまされ、今にも破裂しそうな「凄まじい内圧の激痛」――!
視界が赤く染まる。
魔獣の目線の先には、白い研究服を着た「顔の潰れた人影」が立っていた。
その人影の手には、怪しい紫色の液体が満たされた【金属製の自動注射器】が握られている。
『グガァッ……! ガハッ……!』
人影が注射器を魔獣の首筋に突き刺した瞬間、体内を駆け巡る狂暴な不快感。
魔力回路が異常励起し、心筋細胞が毎分数百回という生物学的限界を超えた速度で収縮を始める。心臓が耐えきれずに破裂し、肺胞が血液で満たされ、脳の血管が一斉に弾け飛ぶ――!
静寂。
死の冷たさが、感覚を塗りつぶしていく。
「……ふぅ……っ!」
㠿私は手を離し、肩で激しく息を吐いた。
冷や汗が私の白銀の前髪を濡らし、額を伝って滴り落ちる。アメリアが「お姉様っ!?」と悲鳴を上げて私を抱きかかえ、ココアが即座に特製の高濃度ブドウ糖水を口元へと差し出してきた。
「大丈夫よ……。感覚のフィードバックが、少し重かっただけだから……」
㠿私はブドウ糖水を一口飲み、荒い息を整えながら、冷徹なアメジストの瞳で魔獣の首筋を指差した。
「ルカ、ここを見なさい」
「え……? あ、針穴……!? すごく小さな、金属の針で刺されたような痕があります……!」
「そうよ。この魔獣は、第一区分の生徒に倒されたわけでも、自然死したわけでもないわ。何者かによって、直接体内に『違法密造薬』を注入されて殺殺されたのよ」
㠿私の言葉に、周囲の劇薬たちが一斉に息をのんだ。
「前世の毒物学および薬理学の知見からプロファイリングするわね。注入された薬剤の主成分は、学園都市の禁書で厳重に管理されているはずの『魔力強制励起ハーブ』の精製高濃度エキス。それに、合成された強酸性の有機溶剤と、未認証の魔獣の体液が配合されているわ」
㠿私は手袋を外し、不快そうに顔を歪めた。
「目的は明確よ。魔獣の体内の魔力回路を強制的にオーバークロックさせ、一時的に凶暴な兵器として暴走させるための『急性魔薬』の臨床実験(人体実験)ね。……だが、配合の容量を間違えたせいで、魔物の心臓が脈動に耐えきれずに破裂して即死した……いわゆる、過剰投与による急性心臓麻痺よ」
「な……なんですって……!? 学園の演習林の中で、そんな危険な魔薬の実験が行われていたなんて……っ!」
㠿アメリアが憤慨し、魔導書を強く握りしめる。
「フッ、なるほどね。地上クラスの奴らが本陣を捨ててあっけなく逃げ出したのも、この魔薬の暴走に巻き込まれるのを恐れたからか……。胸糞悪い企みだな」
㠿レオンハルトが眉をひそめ、腕を組んだ。
「レイラ殿。犯人の足取りは……?」
「……残っているわよ。犯人は、薬の失敗を確認した後、急いでこの場を離れようとして、足元に『重要な証拠』を落としていったわ」
㠿私は視線を地面のぬかるみへと向けた。
そこには、割れた小さな『薬瓶の硝子片』と、特有の刺繍が施された『第一区分・薬術学科上級生』の制服のボタンが、泥に塗れて落ちていた。
「アメリア、このボタンの刺繍のパターンと、さっきの『禁書庫データ』を照合しなさい。……一歩も動かずに、この薬を持ち込んだ犯人のスクールIDを特定してあげるわ」
「はいっ、お姉様! 私のデータベースにかかれば、一秒で割り出してみせますわ……っ!」
㠿アメリアの目が怪しく光り、魔導書のページが高速で捲られ始めた。
㠿私はそっとココアの担ぐベッドの上へと戻り、ふかふかの毛布に再び身を包んだ。
右側の怨霊が「大賢者……、大賢者……」と不気味に囁き、影のルウが「へっ、お宝の匂いじゃなくて、アブナイ薬の臭いがプンプンするぜ!」とニヤリと笑う。
㠿『マンドラゴラ安眠枕』を手に入れ、平穏なニート生活を確定させるための第一回合同中間試験。
その裏で動いていた学園の不穏な薬物密売組織の影は、私という元監察医の「検死眼」によって、その尻尾を完全に掴まれようとしていた。
「ココア、犯人を特定したら、クロード教官に押し付けてサクッと逮捕させなさい。私は……今度こそ、本当の仮眠に入るわよ……」
㠿私の、絶対に働きたくない平穏な学園ニート生活。
安眠を邪魔する不快な事件の全貌解明と、地上クラスを完全に踏み潰す中間試験の決着へ向けて、事態は更なる波乱の展開へと動き出していた。




