第17話:初めての座学と、居眠り防止の処方箋
睡眠負債という言葉がある。
前世の法医学の世界において、これは極めて身近で、かつ恐ろしい肉体のバグ(機能不全)のサインだった。
人間が24時間以上連続して覚醒状態を維持した時、脳のパフォーマンスは法的な酒気帯び運転と同等まで低下する。脳内で生じる老廃物(アミロイドβなど)が蓄積し、前頭葉の血流量が減少。思考力は鈍り、感情のコントロールが効かなくなり、免疫力は目に見えて低下していく。前世の解剖台の上で、連日の徹夜の果てに急性心不全や脳出血を起こして物言わぬ肉塊となった元同胞たちを、私は数え切れないほど検死してきたのだ。
だからこそ、今の私は声を大にして、この理不尽な環境を呪いたい。
「……お姉様。おはようございます。今日も貴女の死の魔力は、私の脳幹を心地よく麻痺させてくれますわ」
私のシルクベッドの左側で、自分の枕を抱きしめたアメリアが、恍惚とした表情で熱烈な視線を送ってくる。彼女の目の下の隈は、極上の安眠を数時間だけ貪れたおかげで、昨日よりほんの少しだけ薄くなっていた。
「……大賢者……、大賢者……。僕の遺産を奪い、首を絞めて壁に埋めた……あの大賢者を殺して……うらめしや……」
一方、私のベッドの右側では、昨日の地下迷宮から完全に我が家として居座り始めた屍蝋化死体の怨霊が、ドロドロとした黒い怨嗟の霧を撒き散らしながら、一分に一度の正確なメトロノームのリズムで暗殺の呪詛を囁き続けていた。
右から国家転覆レベルの怨嗟、左から重すぎる純愛の寝息。
その最悪の不協和音に挟まれた結果、私の昨夜の純粋な睡眠時間は、生物学的な生存限界を下回る「ゼロ分」だった。
「お嬢様!朝食の最高級カツレツサンドですわ!これを食べて、初めての学園の授業へと突撃いたしましょう!」
寝不足で視界がチカチカと明滅する私の前に、ココアが満面の笑みで肉厚のサンドイッチを差し出してきた。
「……無理よ、ココア。今の私に固体物質を咀嚼して胃壁で消化吸収するだけの内臓代謝能力は残っていないわ。とりあえず、高濃度のブドウ糖溶液とカフェインを静脈注射して頂戴。じゃないと私の心臓が数時間以内に微小微動(細動)を起こして止まるわ」
「お嬢様、また朝から専門的すぎる寝言を仰って!さあ、お着替えをして教室へ出発ですわ!」
ガシャコン、と小気味いい金属音が響く。
ココアは私の抗議を一切無視し、手慣れた動作で私をシルクベッドごと担ぎ上げると、そのまま特待生専用寮の廊下へと平然と歩き出した。霊感ゼロ、かつ筋力カンストのドワーフメイドにとって、枕元の怨霊の叫びも、私の体重を含めたベッドの重量も、綿毛ほどの存在感しかないらしい。
『ヒャハハハ!ご主人様、顔が完全に死相を通り越してゾンビになってるぜ!これじゃどっちがネクロマンサーだか分からねえな!』
私の影からひょっこりと顔を出した黒猫のルウが、私の悲惨な表情を見てお腹を抱えて笑っている。
「うるさいわよ、ルウ。次にその生意気な口を開けたら、お前の影の肉体を物理的に解剖して、精霊の生体構造を論文にして発表してあげるから」
そんな最悪の体調のまま、私はベッドごと担がれた状態で、特待生クラス『第零区分』の専用教室へと搬送された。
教室に入ると、すでに他の劇薬クラスメイトたちはそれぞれの席についていた。突如としてベッドごと現れた私を見ても、もはや誰も驚かない。それどころか、昨日迷宮で完璧なハメ技による無傷の勝利を経験した彼らは、私を見るなり、一様に救世主を仰ぎ見るかのような熱いリスペクトの視線を送ってきた。
「フッ、おはよう、レイラ。今日も相変わらず、その折りたたみベッドとの一体感が素晴らしいな。僕の【絶対言霊使い】の美学にも通じるものがあるよ」
金髪ロールを誇らしげに揺らしながら、レオンハルトがマントを翻して挨拶してくる。その後ろでは、老年の執事があいさつ代わりに完璧な一礼を私に捧げていた。
「……レオンハルト、静かにして頂戴。お前の声の周波数は、今の私の頭痛のトリガー(引き金)になるわ」
「なっ、僕の高貴な声を頭痛の種呼ばわりするとは……!」
「お、おはようございます、レイラさん……っ。あの、昨日は本当にありがとうございました。僕、自分がアタッカーになれるなんて、夢にも思わなくて……」
包帯だらけの細身の少年ルカが、自身の白い指先を弄びながら、頬を赤らめておずおずと声をかけてきた。
「いいのよ、ルカ。お前はただ、私の指示通りに処方箋(魔法)を撃ち込んだだけだから。今日も大人しくしていなさい」
「はい……っ!僕、一生レイラさんの指示に従います!」
「レイラ殿。今日もその底の知れぬ霊気、実に感服いたす。我が妖刀『村雨』も、貴殿の影に潜む黒猫の気配に、朝から激しく共鳴しておりますぞ」
中段の席で、藍色の着物を粋に着こなしたシデンが、腰の刀を愛おしそうに撫でながら武士らしい鋭い視線を向けてくる。
「シデン、私に向かってその不吉な鉄の塊を抜いたら、お前の前頭葉の神経回路を物理的に切断して、一生自発的に動けない身体にしてあげるから、そのつもりでいなさい」
「な、なんと……!一歩も動かずに我が脳の神経を狙うとは……やはり、恐るべき御方よ……!」
どうしてこのクラスの連中は、私の冷徹な脅迫や愚痴を、すべて「深遠なる強者の余裕」として好意的に解釈してしまうのだろうか。前世の新人研修生よりも圧倒的に扱いづらい。
ガタ、と教卓の椅子が乱暴に引かれ、だらしなく教官服を着崩した担任のクロードが、大きな欠伸をしながら教卓に両足を乗せた。
「はいはい、全員席につけー。つっても、一人ベッドから一歩も出ない奴がいるけど、まあいいや。んじゃ、今日から記念すべき最初の座学、『基礎魔力回路論』を始めるよ。テキストの32ページを開いて」
クロード教官はそう言うと、めんどくさそうに黒板にチョークで魔法陣の基本構造を書き殴り始めた。その授業内容は、驚くほど退屈で、かつ単調なものだった。元・伝説の暗殺者という肩書きの割に、教官としてのやる気は完全にマイナスを突破している。
(……好都合だわ。このだるい講義の隙に、私は完璧な仮眠を取らせてもらう。レオンハルトやルカという優秀な肉の壁に囲まれたこの席なら、教官の視線も遮れるわ)
私はそっとマジックアイテム『宵闇のナイトキャップ』を耳まで深く被り直し、ふかふかの毛布を鼻先まで引き上げた。
だが、私が意識を微睡みの底へと沈めようとしたその瞬間、私の安眠を阻害する「最初のバグ」が発生した。
「……大賢者……、大賢者……。あの男は、僕が発見した古代のアーティファクトを奪うために、この第零区分の教室の床下で、僕の首を麻縄で絞めて……がはっ、苦しい、苦しい……殺して……」
右側に佇む屍蝋化怨霊の呪詛が、私の脳内にダイレクトに響き渡る。ナイトキャップの防音効果も、死霊術のソースそのものであるこの怨霊の至近距離からの思念伝達には、完全に貫通されてしまっていた。
(うるさいわね!お前の未練話は昨日もう十分に聞いたわよ!大賢者が悪党なのは分かったから、せめて講義中の50分間だけでも音量をミュートにしなさい!)
さらに、左側からは、アメリアが私のベッドのシーツの端をそっと握りしめ、ハァハァと熱い吐息を漏らしながら、授業そっちのけで私の寝顔を凝視していた。
「ああ……お姉様の寝息、可愛い……。その白銀の髪が一筋、頬にかかっているご様子すら、禁書庫のどの至高の挿絵よりも美しいですわ……。このまま私の脳内データベースに永久保存いたします……」
(アメリア、お前も視線が熱すぎて私の皮膚の温度センサーが過剰反応しているのよ。お願いだから前を向いて授業を聞きなさい)
右からの怨念、左からの重すぎる愛。
その精神的サンドイッチ状態に悶絶していると、今度は教室の前方から、不穏な生体魔力の暴走の兆候が漂ってきた。
「……あ、あの、先生。テキストのこの魔力上書きの数式なんですけど、僕がやると、どうしても魔力の流れが逆方向に流れてしまって……」
最前列の席で、ルカが教科書を開きながら困惑した声を上げていた。
教卓のクロードは、自分のノートに落書きをしながら、適当に手を振る。
「あー?ルカ、お前は能力が反転職だからな。普通の魔力回路の動かし方をしたら、そりゃあ逆流するだろ。適当に感覚で相殺しとけ」
「そ、そんな感覚って言われても……。うわっ!?教科書が、教科書が変な光を……っ!」
ルカの包帯の隙間から、制御を失ったエメラルドグリーンの魔力がドクドクと溢れ出し、彼が触れていた植物性の高級羊皮紙で作られた教科書へと流れ込んでいった。
ルカの【反転の薬師】のバグ能力が、座学の魔力回路操作というストレスによって、最悪の形で発動してしまったのだ。彼が「教科書を静かに開こう、魔力を抑えよう」と意識すればするほど、そのベクトルが完全反転し、教科書の素材である「魔法植物の死細胞」に対して、爆発的な『超生命活性化』のエネルギーとして作用し始めた。
メキメキメキメキッ!!!
「ひゃああっ!?教科書から、教科書から木が生えてきたよぉ!?」
ルカが悲鳴を上げて椅子ごとひっくり返る。
彼の机の上にあった教科書が、細胞分裂の速度の限界を超えて急激に巨大化し、無数の太い蔦や鋭い棘を持つ、まるで人食い植物のような異形の怪樹へと変貌し始めたのだ。植物の細胞壁が急速に水分を吸収し、浸透圧の異常上昇によって、教室の石床をバリバリと破壊しながら触手を伸ばしていく。
「おっと、そりゃあ珍現象だ。ルカ、お前本当に面白いバグ持ってんなぁ。まあ、俺は暗殺の専門家だから、植物の育て方は分からん。誰か適当に火でもつけて燃やしといてー」
担任のクロードは、生徒の危機だというのに、教卓から一歩も動かずに人ごとのように欠欠伸をしている。完全に公務員の怠慢だ。
「危ない、ルカ君!僕の後ろに隠れて!『僕の前に立ち塞がる哀れな植物よ、その緑の肉体をすべて灰へと変えて燃え尽きろ』!!」
レオンハルトが格好良く前に躍り出て、絶対言霊の魔力を放った。
しかし、急激に増殖する怪樹の圧倒的なバイオマス(総質量)に対し、レオンハルトの十歳児の魔力では、命令のコストが高すぎて押し潰されてしまう。
怪樹の蔦がレオンハルトの足首に絡みつき、「うわああっ!?マントが、僕の高級マントが絡まるぅぅ!」と、彼はまたしても盛大にたたらを踏んで逆さ吊りにされてしまった。後ろの執事が音もなく動き、短剣で蔦を切り払おうとするが、植物の再生速度が速すぎて刃が追いつかない。
「やれやれ、仕方のない御曹司だ。我が妖刀のサビにしてくれる!」
シデンが刀を抜き、蔦を細切れにしようと踏み込むが、怪樹の棘からプシューッと不気味な黄色の胞子ガスが噴射された。
「ぬおっ!?これは……麻痺性の毒胞子か!流石の村雨の死気でも、この生気あふれる植物の毒霧を完全に相殺することはできぬ……っ!」
シデンが衣服の袖で口元を押さえ、苦悶の表情で後退する。
教室は一瞬にして、ルカの暴走植物による阿鼻叫喚のパニック空間へと変貌した。緑の触手が、教室の天井を這い回り、今にも生徒たちを飲み込もうと牙を剥いている。
「ふえぇぇぇんっ!!巨大な草が、草が僕を食べにくるよぉぉ!」
後ろの席では、二メートルの巨躯を持つガウェインが、熊のぬいぐるみを頭に乗せて机の下で大号泣していた。彼の皮膚が恐怖のストレスで再び赤黒く変色し始め、竜血の暴走のカウントダウンが始まろうとしている。
(……ハァ。うるさい。本当に、うるさいわね……。せっかくの私の貴重な仮眠時間が、これで完全にゼロになったわ。これ以上、私の脳細胞にストレスをかけないで頂戴)
私はベッドの上から完全に上体を起こし、アメジストの瞳から、絶対的な零度の冷気を教室全体へと放射した。
寝不足による不機嫌が限界を突破した元監察医の脳細胞が、その暴走する怪樹の生化学的な構造を一瞬でプロファイリング(診察)する。
「アメリア、その魔導書から『高濃度塩化ナトリウム溶液』、あるいは『浸透圧変化による細胞壁破壊の術式』の基本データを私の脳に流し込みなさい。3秒で」
「はいっ、お姉様!喜んで!」
アメリアが魔導書をめくると、私の脳内に、植物細胞の水分バランスに関する魔法データがダイレクトに転送された。前世の法医学において、死体の組織片を固定する際、あるいは細胞の脱水を起こさせる際の化学的アプローチと、その論理は完全に一致している。
「ルカ、お前は何を泣きながら逃げ回っているのよ。自分のアンプルの成分表をもう忘れたの?」
私の冷徹な声が、逃げ惑うルカの鼓膜を貫いた。
「え……?レ、レイラさん……っ?」
「お前は『抑えよう、止めよう』とするから、反転して過剰な生命活性化が起きて怪樹が増殖しているのよ。なら、脳の認識を完全に逆転させなさい。その植物に向かって、お前が持っている最も強力な【細胞枯死・脱水化の呪文】を、慈悲の心を持って全力で撃ち込みなさい」
「細胞を、枯らす魔法を……全力で……?」
「そうよ。お前が『この植物を跡形もなく完全に腐らせて滅ぼしてやる』と強い悪意と殺意を持って放つ枯死の魔力は、お前の職業特性によって、対象にとっては爆発的な『細胞の水分吸収停止(完全なる脱水硬化)』へと反転する。植物の細胞壁の浸透圧が一瞬でゼロになり、ただの乾燥した脆い『紙屑』へと退化するわ。さっさと処方箋を執行しなさい」
「分かりました……!僕、あの草を、絶対に枯らして滅ぼして見せます……っ!」
ルカが涙を拭い、怪樹の本体に向かって、禍々しい漆黒の枯死魔法のエネルギーを両手から放った。
彼の脳内は今、「絶対に枯らす」という強烈な攻撃の認識で満たされている。
その瞬間、ルカの手から放たれた漆黒の光が怪樹に直撃した瞬間、エメラルドグリーンの聖なる反転の波動へと大変化し、植物の全細胞へと駆け巡った。
メキメキ……、パリパリパリパリッ!!!
物理的な爆発は起きなかった。だが、先ほどまで教室を破壊せんと暴れていた巨大な怪樹の触手が、一瞬にしてその緑の色彩を失い、白く乾燥した「ただの巨大な古紙の山」へと変貌したのだ。
細胞内の水分が一瞬にして均等に固定され、植物としての生命活動が論理的に完全停止した。逆さ吊りにされていたレオンハルトが、乾燥した蔦が粉々に砕けたことで、「おっとっと!?」と不格好に床へと落ち、後ろの執事がそれを完璧な手際で受け止める。
教室に、しんとした静寂が戻ってきた。
そこにあるのは、ルカの教科書だったものが巨大化した、ただの動かない白い紙のオブジェだけだった。
「す、凄い……。僕の枯死魔法が反転して、植物の水分バランスを完璧に固定して……無力化しちゃった……」
ルカが自身の両手を見つめながら、その圧倒的な「逆転の処方箋」の効果に声を震わせている。
「フッ、流石は我が主。植物の生化学的な細胞の弱点すら瞬時に見抜き、ルカのバグを完璧な特効薬へと変えてみせるとは。これぞ、死を司る者の知恵なり」
シデンが刀を鞘に収め、感嘆の溜息を漏らしながら私に向かって深く一礼した。
他のクラスメイトたちも、再びベッドに倒れ込もうとする私を見て、呆れるのを通り越して、もはや神を仰ぎ見るかのような熱い視線を送っていた。担任のクロードすら、「へぇ、やるじゃん。俺、何もしなくて済んだわ。サンキュー、レイラ」と、教卓の上で呑気に拍手している。
「ふぁあ……。これで静かになったわね。ココア、実習の終了時間まで、私の周りに誰も近づけないように物理的な障壁を構えておいて。私は今度こそ寝るわよ……」
私はマジックアイテムのナイトキャップを深く被り、意識を睡眠の底へと沈めた。
右側の怨霊が「大賢者……、大賢者……」と相変わらず囁き、左側のアメリアが「お姉様のあの冷徹な指揮、最高ですわ……」と熱い寝息を漏らしているが、極度の疲労のおかげで、私の脳はようやく短い微睡み(レム睡眠)を確保することに成功した。
しかし、そんな私たちの『第零区分』の教室の様子を、廊下の曇りガラスの隙間から、じっと覗き込んでいる「不穏な影」が存在していた。
「……チッ。何が死霊術師だ、何が特待生クラスだ。ただのベッドから動けない欠陥品の癖に、随分と調子に乗っているじゃないか」
それは、地上の陽の当たる校舎に通う、高位貴族の天才エリートたちが集まる『第一区分』の生徒たちの影だった。彼らの手には、この学園都市の裏側で密かに噂されている、ある「不吉な中間試験の対抗戦のデータ」が握られていた。
私の、絶対に働きたくない平穏な学園ニート生活。
その最初の座学は、劇薬たちのバグを力技で治療した直後から、地上のエリートたちとの血で血を洗う学園カースト闘争の火種という、新たなる過労死ロードの火に油を注ぐ形で、次のトラブルへの秒読みを開始していたのである。




