第16話:不眠症の令嬢と、極上の精神安定剤
人間にとって、睡眠とは単なる休息の手段ではない。それは脳細胞の老廃物を脳脊髄液の循環によって洗い流し、日中に得た膨大な情報を海馬から大脳皮質へと整理・定着させ、自律神経のバランスを恒常性に基づいて正常化するための、生物学的に絶対不可欠な「自己メンテナンス時間」である。
前世の現代日本において、過酷なシフトワークや過度な精神的ストレス、あるいは終わりの見えない深夜までのブラック労働によって深刻な睡眠障害を患い、最終的に肉体を破綻させて私の解剖台へと送られてきた遺体を、私は法医学者として嫌というほど目にしてきた。過労死という名の論理的な帰結は、往々にして、この慢性的な睡眠不足という静かなる細胞の崩壊から始まるのだ。
だからこそ、今の私は声を大にして、この世界の理不尽な教育環境と国家権力の過保護っぷりに抗議したい。
「……疲れたわ。もう指一本すら動かす気が起きない。ココア、あとは全面的に任せたから。私はこのまま、魂の故郷へと引きこもらせてもらうわよ」
「お任せください、お嬢様!このままお嬢様を特製の折りたたみ式ベッドごと、特待生専用寮までマッハの速度で安全にお運びいたしますわ!我がドワーフの搬送技術、とくとご覧あれです!」
最初の迷宮実習という名の、実質的な生存デスゲームを終えた私は、再びココアの強靭な両腕によってベッドごと担ぎ上げられた状態で、地下迷宮の薄暗い螺旋階段を上っていた。
あの後、結局実習時間の終了までセーフティエリアの小部屋に引きこもり続けた私たちは、時間通りに様子を見にきた学園の職員によって、地上へと引き揚げられた。当然、一歩も動かずに上位魔物の群れを無傷で完封した我が『第零区分』の規格外の戦果は、学園上層部に凄まじい衝撃を与えたらしい。
地上の陽の当たる校舎でエリート面をしていた他のレア職の生徒たちが、私たちが持ち帰った濃厚な獣臭を放つ魔石の山を見て、言葉を失って恐怖に震えていたのが実に見ものだった。教頭らしき法衣の男などは、あまりの衝撃に泡を吹いて卒倒しかけていたほどだ。
他のクラスメイトたちも、私の指揮によって無傷で勝利を収めた高揚感からか、地上に戻った後も私をまるで本物の総大将か聖女であるかのような、畏敬の念が混ざった複雑な視線で見つめていた。その大変化した周囲の評価から逃れるように、私は早々に寮への退避を決め込んだのだ。
案内された特待生専用の寮は、白亜の学園都市の一角に佇む、まるでお城のような豪華な洋館だった。しかし、前世のアラフォー男の魂を持つ私の、冷徹な監察医としての観察眼にかかれば、その建築物の本質は一瞬で見透かせる。
建物の周囲の石壁には、外部からの侵入を防ぐためという名目で、通常の3倍は分厚い強力な魔術障壁の結界が何重にも張り巡らされていた。窓ガラスには防魔結晶が嵌め込まれ、敷地内への出入りは厳重な魔導認証によって管理されている。要するに、これは豪華な皮を被った『劇薬保管庫』であり、国家にとって危険極まりない異端の能力者たちを一箇所に押し込めて管理するための、最高級の隔離施設に他ならない。
「ここが今日からのお嬢様の個室ですね!素晴らしい広さですわ!」
ココアが足で豪快にドアを開けた先には、実家の自室よりもさらに広い、贅沢な天蓋付きベッドと大理石の暖炉が備え付けられた一等室が広がっていた。
ココアは手慣れた動作で、担いできた私の折りたたみ式シルクベッドを部屋の中央へとセッティングする。
「ふぅ……。やっぱり、自分のベッドが一番落ち着くわね」
私は可憐なドレスを緩めることもせず、そのまま使い慣れたシーツへと倒れ込み、アメジストの瞳を閉じた。十歳の未熟な肉体で強烈な魔力を放ち、さらに前世の脳細胞をフル回転させて即席の指揮を執ったのだ。精神的な疲労感は完全に限界に達していた。
「ヒャハハハ!ご主人様、今回の戦利品は上出来だぜ。ほら、これが山分け分の魔石だ」
私の影からぬるりと発現した漆黒の精霊ルウが、口にくわえていた青く輝く魔石を、テーブルの上にカチャカチャと器用に並べ始めた。その数、実に二十個以上。市場に流せば、それだけで地方の貴族が数ヶ月は遊んで暮らせるほどの金貨になる一級品だ。
「グッジョブよ、ルウ。これで実家の両親がまた怪しい肥料の詐欺に引っかかっても、いくらでも補填がきくわね……」
私は寝返りを打ち、今度こそ至高の安眠の眠りへと就こうとした。
実家の財政も黒字化し、クラスメイトたちという優秀な肉の壁も手に入れた。これからの学園生活は、彼らを前線に放り込んで自分はベッドの上から指示を出すだけの、完璧な不労所得ライフが完成するはずだった。
――しかし、その私のささやかな幸福は、ベッドの左右から放たれる『異様な気配』によって、完全に粉砕されることになる。
「……うらめしや……。大賢者……、大賢者……っ……。僕を殺し……遺産を奪った……あの男を……殺して……」
ベッドの右側。
そこには、先ほど地下迷宮の壁の向こうから発掘された、数十年前に殺害されたという哀れな特待生の怨霊が、相変わらずドロドロとした黒いオーラを纏って佇んでいた。
事件の真の黒幕である『大賢者』が地上の校舎で最高権力者としてのうのうと生きている以上、この霊の無念が晴れるはずもない。彼は言葉にならない怨嗟の声を、私の脳内へ直接、呪詛のように囁き続けている。
「うるさいわね……。お前、私の安眠を妨害して楽しいわけ?事件を解決しないと、私は一生枕元で『大賢者』って単語を呪いの子守唄代わりに聞かされる羽目になるわけね。国家権力のトップを社会的に抹殺しないと成仏しないなんて、最高にブラックな案件だわ」
私が内心で盛大に毒づいていると、この怨霊は私の死の魔力を吸って、むしろ地下にいた時よりも少しだけ実体化して元気になっている。成仏するどころか、完全に私のベッドの右側をマイホームとして定着させる気満々だった。
私が頭を抱えていると、部屋のドアがノックもなしに静かに開いた。今度はベッドの左側から、物理的に強烈な気配を感じる。
「……あ、あの、お姉様。夜分遅くに失礼いたします……」
「……何かしら、アメリア。ここ、私のプライベートルームのはずなのだけれど。不法侵入でココアに殴り飛ばされたいの?」
私が薄目を開けると、そこにはなぜか、自分の枕とシルクの毛布を両手で大事そうに抱きしめたアメリアが立っていた。
彼女の美しい顔にある大きな目の下には、昼間よりもさらに色濃く、痛々しいほどの漆黒の隈が刻まれている。その瞳の奥には、狂信的とも言える怪しい光がギラギラと宿っていた。
「申し訳ありません、お姉様。ですが、どうしても耐えられなくて……。自分の部屋に戻った瞬間、また、この学園の古い建物や本たちが、数百年分の怨嗟やドロドロとした記憶を私の脳内に直接流し込んできたのです。頭が割れそうに痛くて、一秒も眠れなくて、発狂しそうで……」
アメリアはガタガタと細い身体を小刻みに震わせ、今にも泣き出しそうな顔で私のベッドの縁に手をかけた。
「でも、お姉様のこのお部屋に入った瞬間、あの地下迷宮の時と同じように、脳内のノイズがピタッと止まりました。お姉様の放つ『死の魔力』……すべてを無に帰す絶対的な静寂だけが、私の狂いそうな脳を救ってくれるのです。お願いです、お姉様……今夜だけでいいので、私をこのベッドの端に置いてください……っ!」
私はアメリアの顔を、監察医としての冷徹な目でじっと観察した。
瞳孔の微細な散大。皮膚の水分量の低下。精度を要求される法医学の現場なら、即座に重度の疲労と判定するレベルだ。
何より、過度な情報処理によって脳が完全なオーバーヒート状態に陥っている明確な臨床的徴候が見られる。
彼女の授かった【禁書庫の鍵】というユニーク職業は、触れた空間や物の過去の記憶を強制的に脳内へダウンロードしてしまうという、精神的なバグ能力だ。
前世の精神医学や脳科学の観点から言えば、脳の『感覚遮断フィルター』が完全に損壊し、あらゆる霊的・歴史的な雑音がダイレクトに大脳皮質を刺激している状態。このまま深刻な睡眠不足が続けば、彼女はあと数週間で精神を病み、最悪の場合は脳幹の機能不全による心不全で自滅するだろう。
(ロジックは理解できたわ。私の放つ死の魔力は、生命の活動を停止させ、霊的な波動をすべて『静寂』へと引きずり込む特性がある。それが、彼女のバグった受信アンテナのノイズを完全に遮断する、極上の精神安定剤として機能しているわけね)
医学的なメカニズムは解明できた。
医師として、目の前の患者が睡眠障害で死にかけているのを放置するのは少々寝覚めが良いものではない。……が、それ以上に、私の神聖なニート空間に、出会ったばかりの女子生徒が潜り込んでくるのは、引きこもりとしてのアイデンティティに関わる大問題だ。
「アメリア、私のベッドに入るのは不許可よ。パーソナルスペースの侵害だわ」
「そんな……!では、私はこの冷たい大理石の床の上で、お姉様の靴でも舐めながら夜を明かせと……!?ああ、それも歪んだ愛情の形としては堪りませんわ……っ!」
「お前のその無駄に高い貴族の身分と美貌を、そんな変態的な方向に使わないで頂戴。ココア、そこの大きなソファをベッドの真横に持ってきなさい」
「イエス・マイ・ロード!医療用搬送ベッドの如き配置ですね!」
ココアが部屋の隅にあった豪華なベルベットのソファを片手でひょいと持ち上げ、私のベッドのすぐ左側に隙間なく設置した。
「アメリア、そこに横たわりなさい。私のベッドから一メートル以内であれば、私の死の魔力の『静寂領域』があなたを完全にカバーできるわ。私のマジックアイテムであるナイトキャップの効果も少しは分けてあげるから、さっさと目を瞑って脳を冷やしなさい」
「お、お姉様……! 私のような日陰者に、これほどまでに慈悲深い処方箋をくださるなんて……。ああ、やっぱり貴女は、私を暗闇の地獄から救い出してくれる、真の白馬のお姉様ですわ……!」
アメリアは感激のあまり涙を流しながら、指示されたソファへと滑り込み、毛布を頭まで被った。
その瞬間、彼女の身体から、それまで張り詰めていた異常なまでの精神的緊張が、まるで魔法が解けたかのように霧散していくのが分かった。脳を酷使していた自律神経の暴走が、私の死の魔力によって強制的にシャットダウンされ、副交感神経が優位へと一瞬で切り替わったのだ。
「あ……すごい……。静か、です……。何も、聞こえない……」
アメリアの大きな瞳が、急速に微睡みへと吸い込まれていく。
ほんの数十秒の前まで不眠症で発狂しかけていた少女は、私のベッドの横という究極の安全地帯を手に入れたことで、驚くほどの速度で深い安眠の底へと沈んでいった。その寝顔は、十歳の少女に相応しい、極めて無垢で可憐なものだった。
「ふぁあ……。終わったかしら。それじゃあ、約束通り私は寝るわよ。ココア、部屋の明かりを消して頂戴」
「おやすみなさいませ、お嬢様。私はドアの前で、物理的な不審者をハンマーで消し飛ばす仕事に戻りますね」
ココアが部屋の明かりを消し、静かに退室していく。
部屋の中は、完全な暗闇と、そしてアメリアの穏やかで幸福そうな寝息だけが残された。
――完璧な静寂。これこそが、私が前世の過酷なブラック労働の果てに夢見続けた、至高の睡眠環境のはずだった。
「……大賢者……。あの男を、殺して……。僕の、遺産を……奪った……大賢者を……うらめしや……」
ドロドロドロドロ……。
ベッドの右側。
真っ黒なオーラを纏った屍蝋化死体の怨霊が、相変わらず私の枕元で、恨めしそうな顔で『大賢者』への呪詛を正確なリズムで呟き続けていた。
アメリアには私の死の魔力が鎮静剤として効いたが、この霊はそもそも死霊術のソースそのものであるため、私の魔力に触れれば触れるほど、逆に元気になって存在感を増しているのだ。
「だめだわ……。左側は完璧な安眠を手に入れて寝息が少し重い女子。右側は社会的に抹殺しなければ成仏しない、筋金入りの国家転覆要求怨霊。私のベッドの上が、完全にカオスな中立地帯になってるじゃないの……」
怨霊の囁きノイズのせいで、私の脳は再び、大賢者という地上の最高権力者をお前どうやって解剖すべきかという、最悪にクリエイティブな過労死ロードの作戦を練り始めざるを得なかった。
私の、絶対に働きたくない学園ニート生活。
その最初の夜は、左側からの重すぎる愛の寝息と、右側からの国家転覆レベルの暗殺要求の不協和音に挟まれながら、一分も眠れないという最悪の不眠症デスマーチの幕開けとなったのである。




