第15話:ベッドの上の指揮官と、噛み合う歯車
集団災害医学において、パニックに陥った群衆の制御は最も困難な課題の一つとされる。
前世の救急救命センターや大規模な事故現場において、人間は未知の恐怖や過度なストレスに直面した瞬間、理性を失って生存本能のみで暴走を始める。結果として互いの足を引っ張り合い、生存率を著しく低下させるのが常だ。
だからこそ、現場には常に冷静沈着、かつ冷徹に人員を適材適所で駒のように配置できる『指揮官』が必要不可欠となる。
私がベッドの上から、この殺人事件の推理を披露しようとしたその時。
ズズズズズズ……ッ!!!
地下迷宮の強固な石造りの床から、内臓を揺さぶるような重低音の地鳴りが響き渡った。
隠し通路の壁にこびりついていた古い土や、天井の蜘蛛の巣がパラパラと私のシルクベッドの上へと落ちてくる。ココアが瞬時に動き、私の頭上で巨大な戦鎚を傘のように差し向けてそれを防いだ。
ギャアアアアアアアアアアアッ!!!
グオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
通路の奥、暗闇の深淵から湧き上がってきたのは、何百、何千という魔物の咆哮が重なり合った、不気味な音の濁流だった。その直後、肌を刺すような冷気と共に、濃厚な獣臭と魔力の暴風が小部屋へと吹き込んできた。
「おいおいおい! 冗談だろ!? この匂い、第一階層にいるはずのない上位魔物の群れが、一斉にこっちに向かって走ってきてやがるぞ!」
影から顔を出したルウが、耳を完全に後ろに伏せて毛を逆立てた。
ルウの泥棒としての嗅覚が、迫り来る危機の規模を正確に察知している。
「魔物の大氾濫……!? なぜ、新入生の最初の実習で、こんな規模の災害が起きるのですか……っ!」
アメリアが魔導書を強く抱きしめ、目の下の隈を限界まで見開いて戦慄している。
完全なパニック状態。
引率すべきクロード教官は地上で呑実に寝ており、結界に守られたこの小部屋の外は、瞬く間に狂った魔物の群れで埋め尽くされようとしていた。
「おい、新入りのお前ら! ここは僕が食い止める! 僕の【絶対言霊使い】の恐ろしさを知るがいい!」
最初に飛び出したのは、やはりというか、女子生徒の前で格好をつけたい盛りのレオンハルトだった。彼は小部屋の入り口に立つと、迫り来る何十匹もの狼型魔物の群れに向かって、大袈裟に手を広げて叫んだ。
「グランツの名において命ずる! 『僕の視界にいる魔物は全員、その場で即座に心臓を停止させて死ね』!!」
一瞬、レオンハルトの全身から凄まじい黄金の魔力が吹き荒れた。言霊のルールが空間に強制上書きされる。
だが、その直後、最前列にいた三匹のガルムが血を吐いて倒れたものの、後ろから続く数十匹の魔物には全く効果が及ばなかった。それどころか、レオンハルトは「がはっ……!?」と激しく吐血し、そのまま膝を折って床に倒れ伏してしまったのだ。
「ぼ、坊ちゃま! 無茶です、対象の総質量と個体数がご自身の最大魔力量を遥かに超えています! 即死の命令など、魔力の逆流を起こすに決まっております!」
後ろに控えていた老年の執事が慌てて駆け寄り、レオンハルトに回復ポーションを飲ませる。
(アホだわ。完全な計算違い(医療ミス)よ。自身の魔力供給量と、相手の生命維持抵抗力を天秤にかけずに最大火力の命令を出すなんて、素人が麻酔薬を限界量まで一気に注射するようなものだわ。自滅してどうするのよ)
私はベッドの上から、その無惨なファーストコンタクトを冷徹に観察していた。
「ちっ、頼りにならぬ御曹司め! ここは我が妖刀『村雨』の錆びにしてくれる!」
次に動いたのはシデンだった。彼は藍色の着物を翻し、漆黒の刀を抜くと同時にガルムの群れの中へと単身で突撃していった。
「東方剣理、一ノ型――『五月雨斬り』!!」
鋭い斬撃が虚空を裂き、二匹、三匹のガルムの肉を切り裂いていく。シデンの剣技は確かに入学初日の十歳児としては規格外だった。
しかし、敵の数が多すぎる。斬っても斬っても影から新しい魔物が湧き出し、シデンは一瞬で全方位を敵に囲まれてしまった。
「くっ……! 流石にこの数、刀の怨霊を励起させても、面の防衛には限界があるか……!」
刀を大振りに振り回すたびに、シデンの呼吸が目に見えて荒くなっていく。スタミナの消費速度が、敵の減少速度を遥かに上回っていた。
(これもダメね。外科手術で言えば、止血もせずに闇雲にメスを振り回している状態だわ。筋肉の疲労による乳酸の蓄積速度を考えていない。あんな大振りを続けていれば、あと一分で腕の腱が悲鳴を上げて動けなくなるわね)
「ひ、ひぃっ!? シデン君が危ない! 僕が、僕が攻撃魔法で助けなきゃ……! 『火炎よ、敵を焼き尽くせ(ファイア・ボルト)』!!」
小部屋の奥から、包帯だらけのルカが震える手で攻撃魔法を放った。
赤々と燃える炎の弾が、シデンを囲んでいたガルムの背中に直撃する。
――が、起きたのは爆発ではなかった。
緑色の聖なる光がガルムの体を優しく包み込み、先ほどシデンが付けたはずの切り傷が、瞬く間に完全に塞がってしまったのだ。それどころか、魔物は過剰な生命力を得て、一回り巨大化して咆哮を上げた。
「あ、あれ……!? ごめんなさい、僕の攻撃魔法、相手を大回復させちゃうんだった……っ!」
「馬鹿野郎! 敵を強化してどうする貴様!!」
シデンが悲鳴を上げながら、巨大化したガルムの爪を間一髪で避ける。
(なるほど。ルカの【反転の薬師】のバグはそういう仕様ね。本人の脳が『攻撃しよう』と認識して放った魔法は、そのベクトルが反転して『完璧な治癒と強化』として対象に作用する。前世の免疫学でいうところの、過剰なアレルギー反応の逆転現象だわ)
「ふえぇぇぇんっ!! もう駄目だぁ! みんな死んじゃうよぉぉ!」
入り口の大混乱を見て、部屋の隅にいたガウェインが、熊のぬいぐるみを抱きしめながら過換気症候群を起こしていた。彼の皮膚がドクドクと赤黒く変色し始め、瞳が獣のように裂け始める。
彼の内に眠る『竜の血』が、死への恐怖のストレスによって、敵味方の区別を失う「狂戦士の暴走」を引き起こそうとしていた。
「……ハァ。どいつもこいつも、自分の持っているアンプル(能力)の成分表すら読めない無能ばかりね。効率が悪すぎて、見ていてこちらの血圧が上がるわ」
私は大きな溜息をつき、ベッドのクローゼットからお気に入りのクッションを引き寄せ、その上に肘を乗せて顎を突いた。
わずか数十秒の『数戦』。彼らの大失敗という名の貴重な「臨床データ」は、私の監察医としての脳細胞によって、すでに完璧に解析されていた。
彼らの能力はどれも強力すぎるがゆえに、単体では致命的な副作用を持つ。ならば、その副作用を互いの能力の『作用と反作用』で相殺し、一本の綺麗なメスのように機能させればいいだけだ。
「全員、動きを止めなさい。私の耳元でそれ以上、見苦しい悲鳴を上げないで頂戴」
私の冷徹で、一切の感情を排した声が小部屋の中に響き渡った。
不思議なことに、その声を聞いた瞬間、パニックになりかけていたクラスメイトたちの身体が、本能的な恐怖によってピきりと硬直した。地獄の解剖室の主である私の死の魔力が、彼らの暴走する精神を冷やしたのだ。
「レオンハルト、起きなさい。執事、彼に即座に魔力ポーションを補給して。……レオンハルト、お前の能力の弱点は『命令が大きすぎて魔力の消費が追いつかないこと』よ。なら、命令の範囲と内容を極限まで狭めなさい」
「な、何だと……? 範囲を狭める……?」
「そうよ。即死なんて高コストな命令は使わないの。部屋の入り口の、幅二メートルの一画だけに空間を限定しなさい。そして、そこを通過する魔物に向かって『僕の前を進む者は、一歩ごとにその四肢の筋繊維が完全に硬直する』と宣言するのよ。麻痺のルールを押し付けるだけなら、お前のその貧弱な魔力量でも、数分間はあの通路を完璧な『侵入不可領域』に変えられるわ」
「四肢の、筋繊維の硬直……!? なるほど、即死させる必要はない、ただ動きを止めればいいのか……っ!」
レオンハルトの目が輝いた。彼は即座にポーションを飲み干し、指定された狭い入り口の床を指差した。
「シデン、お前は前線から下がりなさい。敵に囲まれて大振りを続けるなんて、ただの自殺志願者のすることよ。お前の妖刀は、相手の血液を吸うことで威力を増す性質があるわね? なら、肉を断つ必要はないわ。レオンハルトの言霊で動きが止まった魔物の『頸動脈』だけを、一撃離脱で正確に皮一枚、切り裂きなさい。失血死を誘発させるだけで、魔物は勝手に倒れるわ。無駄な体力を使うのをやめなさい」
「……! 頸動脈を、皮一枚……! 骨を断つ剣ではなく、死に至る線をなぞる刃か! 御意、白銀の主よ、その剣理、確かに理解した!」
シデンが興奮に身体を震わせ、レオンハルトの背後へと下がり、極小の抜刀の構えを取った。
「ルカ、お前はシデンの斜め後ろに立ちなさい。お前は自分の能力を呪いと言ったけれど、法医学的に見れば、それは最強の『毒薬』よ。お前が『攻撃しよう』とすると相手が回復する。なら、その逆をやりなさい。お前が持っている、最上位の『広域治癒呪文』を、レオンハルトの言霊で足止めされた魔物の群れに向かって、全力で叩き込むのよ」
「え……!? 魔物に、回復魔法を……?」
「そうよ。お前が『癒やそう、救おう』と思って放つ聖なるエネルギーは、お前の能力のバグによって、魔物にとっては細胞を急激に熱壊死させる最高の『劇薬(有毒物質)』へと反転するわ。ルカ、お前は今日から、このクラスの最高火力の範囲魔法アタッカー(毒殺魔)よ」
「僕が……、アタッカー……! 人を救うための光で、魔物を倒せる……っ!」
ルカの顔から絶望が消え、包帯の隙間から強烈な魔力の光が溢れ出た。
「ガウェイン、お前はそのまま後ろで目を瞑って熊のぬいぐるみを抱きしめていなさい。前線を見なければ血を見ることもないわ。万が一、防衛線が突破されそうになったら、ココアがお前の頭を小突いて強制的に竜血を起動させるから、その時は肉の壁になりなさい」
「ふえぇっ!? 頭を小突かれるの、すっごく痛そうですぅ! 頑張って後ろで目を瞑ってます!」
ガウェインが必死に部屋の隅で丸くなる。ココアがその横で、いつでも彼を殴れるように戦鎚を肩に担いでニヤリと笑った。
「イリス、お前の生み出す魔獣を、レオンハルトの言霊エリアのさらに外側に配置して、敵の進軍ルートを一本の直線に誘導しなさい。クロエ、お前は影の中から、イリスの囮に釣られた群れのリーダーの『延髄』だけを確実に一突きして戻ってきなさい。終わったら寝ていいわよ」
「……ん。一突き、了解。……終わったら、レイラのベッドの横で寝る」
影の一番隅にいたクロエの影が、液体のように床を滑って暗闇へと消えていく。
「最後にアメリア。お前の【禁書庫の鍵】で、迫り来る魔物の骨格構造と弱点部位のデータを、私の脳内に直接ダウンロードしなさい。ノイズは私のナイトキャップで遮断してあげるから、必要な情報だけを選別して」
「はい、喜んでお姉様……っ! 貴女の脳の、一番深い場所へ、私の知識を捧げますわ!」
アメリアが私のベッドの横にピタリと寄り添い、魔導書を展開した。
劇薬たちの能力が、私の監察医としての論理的な人員配置――失敗データからの逆算によって、一つの巨大な『防衛歯車』へと完全に組み上がっていく。
「――来るぞ! 空間限定、発動! 『僕の前を進む魔物よ、その四肢の自由を失い、泥の如く這い回れ!』」
レオンハルトの絶対言霊が炸裂した。
通路の幅二メートルの一画に侵入したガルムの群れが、目に見えないルールの壁に衝突したかのように、ガクガクと膝を折って次々と床に倒れ伏していく。
先ほどのような魔力の逆流は一切ない。完璧な省エネ運用の成功だ。
「東方剣理――『一文字』!」
そこへシデンの妖刀が閃く。
無駄な大振りは一切ない。レイラの指示通り、動きを止められた魔物たちの首筋の頸動脈だけを、針を通すような正確さで一文字に切り裂いていく。
噴き出す鮮血を妖刀が効率よく吸い込み、シデンの刃が禍々しい赤色へと進化していくが、本人のスタミナは一ミリも削られていない。
「い、いきます……! 神の慈悲よ、大いなる癒やしの光よ、集いし命を救いたまえ――『エリア・ハイ・ヒール』!!」
ルカが優しき祈りを込めて放った、本来なら味方を全回復させるはずの最上位の聖なる光。
それが言霊のエリア全体を包み込んだ瞬間、動きを止められていた魔物たちの肉体が、まるで強酸を浴びたかのようにジュウジュウと黒い煙を上げて融解していった。
細胞の超高速度の拒絶反応による、論理的な熱壊死だ。
「ギャアアアアアッ!?」
地獄の劫火に焼かれるような断末魔を上げ、第一階層の魔物たちが、小部屋の一歩手前で塵へと変わっていく。さらに、撃ち漏らした個体や、横から回り込もうとした上位個体は、イリスの生み出した肉壁の魔獣に誘導され、影から音もなく現れたクロエの短剣によって、延髄の神経節を正確に破壊されて即死していった。
完全なる、ハメ技。
本来なら学園の精鋭たちが総出で対処すべき魔物の氾濫が、ベッドの上から一歩も動かない少女の指示によって、文字通り無傷で、システマチックに処理されていく。
「す、凄い……! 僕たちの能力が、完全に噛み合っている……!」
レオンハルトが、自身の放つ言霊の絶大な効果に目を輝かせた。
「これぞ戦場における究極の布陣。白銀の主……貴殿の戦術眼、もはや一国の軍師をも凌駕するな」
シデンが刀を収め、興奮に頬を紅潮させながら私を振り返った。
他のメンバーたちも、戦いが終わった静寂の中で、一様に高揚した表情で私を見つめていた。
彼らの目に宿っていたのは、最初に見せていたような「新入りの美少女への侮り」や「恐怖」ではない。
自分たちという劇薬の失敗を一瞬で見抜き、完璧に扱いこなして安全な勝利をもたらしてくれたこの怠惰な天才に対する、絶対的な敬意。
そして、共にこの最悪の地下迷宮を生き抜くための、対等な『悪友』としての強い信頼の光だった。
「ふぁあ……。終わったかしら。それじゃあ、約束通り私は寝るわよ。ココア、実習の終了時間が来たら起こして頂戴」
私は再びナイトキャップを被り、フカフカの毛布に潜り込んだ。
周囲の劇薬たちが、そんな私の徹底したニートムーブを見て、呆れるのを通り越して「クスクス」と不敵な笑みを漏らし始めているのが分かった。
この妙な連帯感は悪くない。彼らが前線で戦ってくれる限り、私のこれからの学園生活の安全性は大幅に向上するからだ。
『お嬢ちゃん、よくやったな。ほら、今回の小銭稼ぎの成果だぜ』
影の中から、ルウが成仏した魔物たちの残滓から、キラリと光る『青い結晶(魔石)』をいくつも口にくわえて戻ってきた。実習中のどさくさに紛れて、しっかりと金目のものを回収するあたり、流石は私の相棒だ。これで実家の家計はまた少し潤うだろう。
よし、これでようやく邪魔者のいない完璧な安眠が――。
ドロドロドロドロ……。
「……ちょっと、いい加減にして頂戴」
私が毛布をめくると、私のベッドのすぐ真横――アメリアが立っているのとは反対側のスペースに、先ほど壁の向こうから出てきた屍蝋化死体の未練霊が、相変わらずドロドロとした黒い怨嗟のオーラを纏ったまま、恨めしそうな顔で佇んでいた。
そうなのだ。魔物の群れをいくら駆除したところで、この霊の無念は何一つ晴れていない。
つまり、この怨霊は、事件が完全に解決するまで、私の枕元で「うらめしや」と夜通し安眠妨害を続ける気満々なのだ。
「……ハァ。お前、一体誰に、何のために殺されたのよ。さっさと吐き出しなさい。じゃないと私が眠れないわ」
私が観念して溜息をつくと、言葉を持たないはずの怨霊の身体が、私の死の魔力に呼応して、かすかに震えた。
そして、霊の残した細い魔力の糸が、私の枕元に置いてあったマジックアイテム『毒見鳥の銀指輪』へと繋がり、私の脳内に、その文字通りの『遺言』を直接書き込んできたのだ。
――【僕を殺し、古代の遺物を奪った男は……今も地上の校舎で『大賢者』の面を被って、この学園の最高権力者として生きている。気をつけろ、二代目の死霊術師よ。彼は君のその力を、今度こそ完全に自分のものにするつもりだ】
(……は?)
私の脳内に、冷たい冷気が走った。
密閉された過去の殺人事件。
その黒幕であり、この特特生クラスを地下へ隔離することを提案した張本人である『大賢者』の老人が、今も地上の、陽の当たるエリート校舎で健在であり、しかも私を次の標的に定めているという、最悪の事実。
私が完璧な引きこもりニート生活を手に入れるためには、この枕元の怨霊の未練を解決し(成仏させ)、かつ地上の最高権力者である大賢者を社会的に、あるいは物理的に『解剖(抹殺)』しなければならない。
私の、ベッドの上からの平穏な学園ニート生活。
その前途には、学園の最高権力者との、国家を揺るがす命懸けのサスペンス劇の開幕という、最高にブラックな過労死ロードが待ち受けていたのである。




