第14話:最初の実習と、安全地帯のマイベッド
タイトル少し変更しました
閉鎖空間における空気の循環不全は、生命維持にとって致命的な欠陥となる。
前世の法医学者としての知識によれば、換気設備のない地下空間において最も警戒すべきは、二酸化炭素の滞留や、有機物の腐敗によって生じる硫化水素、あるいは地殻から染み出すラドンといった有毒ガスの存在だ。特に、数百年もの間、人間の立ち入りが制限されていたような古代の遺構であれば、空気の層が比重によって分離し、足元に目に見えない死のプールが形成されている可能性が極めて高い。十歳の、それも極めて貧弱な令嬢の呼吸器系など、そんな有毒ガスを一吸いしただけで肺水腫を起こして即死するだろう。
しかし、この学園の地下最深部――『初代死霊術師の聖域』から続く地下迷宮の入り口には、そんな私の科学的な懸念を鼻で笑うかのような、理不尽な魔術的措置が施されていた。
「ひゃっほーい! ダンジョン実習だなんて、血が騒ぎますわね、お嬢様!」
「ココア、お願いだからもう少し静かに、臨機応変に水平を保って移動して頂戴……。私の三半規管がさっきから限界を訴えているわ」
私は、ココアの強靭な両腕によって、折りたたみ式シルクベッドごと、まるで神輿のように担ぎ上げられた状態で暗い通路を進んでいた。
教室の床に設置されていた巨大な鉄のハッチ。それがクロード教官の「適当に遊んできて」という投げやりな一言と共に開かれた瞬間、私たちは垂直の螺旋階段を下り、この広大な地下迷宮の第一階層へと足を踏み入れることになったのだ。
周囲を見渡せば、壁面にはかすかな青光を放つ魔導石が等間隔で埋め込まれており、松明の煙による一酸化炭素中毒の心配はなさそうだった。それどころか、どこからか肌寒いほどの冷風が吹き抜けており、魔術的な換気システムが健在であることを示している。だが、その風に乗って運ばれてくる匂いは、お世辞にも快適とは言えなかった。カビ、湿った土、 影から漂う魔物が放つ独特の、野生動物の排泄物と腐肉が混ざり合って発酵したような、生物学的に不快な悪臭。前世の解剖室で嗅ぎ慣れた、あの「生命の活動が停止した後の匂い」が、この暗闇の奥から確実に漂ってきている。
「ふん、地下迷宮などという陰気な場所、僕の【絶対言霊使い】の能力があれば、ただの散歩道に過ぎないさ!」
私たちの少し前を、これ見よがしに胸を張って歩いているのは、高位貴族の御曹司であるレオンハルトだった。彼は真っ赤なマントを翻し、女子生徒たちの視線を意識してか、やたらと格好をつけた足取りで進んでいる。その後ろには、彼の従者である老年の執事――燕尾服を完璧に着こなした男が、いつでも主人のドジをカバーできるように、油断のない足取りでぴったりと追随していた。
「おい、そこなネクロマンサーの令嬢! 怖気づいてベッドから出られないなら、僕の後ろについてくるといい! グランツ家の名にかけて、僕が貴女をエスコートしてあげよう!」
「いえ、結構よ。私はここで寝ている方が百倍安全だから、どうぞお先に行って頂戴」
「なっ……! せ、せっかくの僕の慈悲を拒否するとは……! 後で泣きついても知らないからな!」
レオンハルトは顔を真っ赤にしてフンと鼻を鳴らし、再び前方を睨み据えた。中身がアラフォーの元監察医である私からすれば、彼の「女子にモテたい、格好つけたい」という十歳児特有の空回りムーブは、見ていて微笑ましいというよりは、ただただエネルギーの無駄遣いにしか見えなかった。疲れるだけの労働(探索)は彼らのような血気盛んな男子陣に任せて、私は安全な後方で不労所得(実習の単位)だけを貪るのが正解だ。
「……お姉様。レオンハルトのような俗物の言葉など、気になさる必要はありませんわ」
私のベッドのすぐ横を、まるで取り憑いた生霊のような執念深い足取りで歩いているのは、アメリアだった。彼女は自身のトレードマークである大きな目の下の隈を少しだけ和らげ、熱烈な、ともすれば狂信的とも言える眼差しを私に注いでいる。彼女の手には、自身の能力である『禁書庫の鍵』を発動するための古い魔導書がしっかりと握られていた。
「お姉様のあの気高き死の魔力……。あの静寂の素晴らしさに比べれば、地上の有象無象の言葉など、ただの耳障りな雑音に過ぎません。……ああ、早くお姉様と同じベッドに入って、あの完璧な安眠をもう一度貪りたい……っ」
「アメリア、気持ちはありがたいけれど、私のパーソナルスペースはもう少し広く取ってくれると助かるわ。あと、ベッドに入ってくるのは論外よ」
「まぁ……! お姉様のその冷徹な拒絶の言葉すら、私の脳髄を心地よく刺激します……!」
だめだわ、この子。完全に私のことを『都合のいい睡眠導入剤』か何かに分類している上に、本気で惚れ込んでいるオーラが隠せていない。前世でもこういうストーカー気質の強い患者や遺族の対応は一番神経を使ったのだけれど……。私が頭を抱えていると、私の影からスゥッとルウが顔を出した。
『ヒャハハハ! ご主人様、モテモテじゃねえか! だがよ、男子のサムライ坊主の方も、あんたの戦闘力に別の意味で惚れ込んでるみたいだぜ?』
ルウの視線の先には、腰の刀に手をかけたまま、無言で周囲の暗闇を警戒している東方の留学生、シデンがいた。彼は先ほど教室で私の魔力に圧倒されて以来、私を「底の知れない妖怪の主」として完全に格好のターゲット――いや、超えるべき至高の存在として認識したらしい。私の一挙手一投足に、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い視線を送ってきている。
「ふにゃあ……。ダンジョンの中って、お外より魔力の匂いが濃いぃ……。これなら、可愛い魔物さんがいっぱい生まれるの」
緑髪の少女、イリスがぼーっとした表情で自身の腕を擦ると、彼女の白い腕の皮膚の下から、小さな触手のような影がポコポコと泡立つように出現していた。彼女の従者の少女は、無表情のまま、その触手が一歩外へ出ようとするたびに、専用のハサミのような魔導具でパチンと切り落として回収している。実に対照的でカオスな主従だ。
「ひぃっ!? な、何か奥の暗闇で光ったよ……! 魔物!? 魔物がいるの!?」
「ガ、ガウェイン、落ち着け……。僕の後ろに隠れて……。僕が攻撃魔法を使えば、反転して君を守る防壁になるから……多分……」
身長二メートルの巨躯を持つガウェインが、包帯だらけの細身の少年、ルカの背中に文字通り隠れようとしてガタガタと震えていた。本来ならクラスの盾役になるべき狂戦士が、回復専門(ただしベクトル反転)の薬師に守られているという、あまりにも歪な構図。そして一番後ろからは、もはや気配すら完全に消し去ったクロエが、歩くことすら面倒という風に、自身の影を生き物のように伸ばしてその上に寝そべり、滑るように移動していた。
全員、まともな連携なんて期待できない劇薬揃いね。クロード教官が『死なない程度に適当に』と言ったのも、このメンツを見れば納得だわ。国が隔離したくなるわけよ。私はクッションに深く頭を沈め、このダンジョン探索における「最も効率的なサボり方」を思考し始めた。実習の評価基準が「迷宮の適応力」であるならば、一歩も動かずに、怪我もせず、最も安全な場所を確保し続けることこそが、最も優れた適応と言える。
「ココア、ストップ。あの場所へ移動して」
私が指差したのは、通路の脇に作られた、かつて探索者たちの休憩所として使われていたと思われる、石造りの小さな小部屋だった。入り口には、古代の魔術文字が刻まれた石柱が立っており、魔物が侵入できないような微弱な結界の波動が残っている。
「了解いたしました、お嬢様! 突撃ですわね!」
「突撃じゃないわ、退避よ。……よし、ココア、ここにベッドを設置して。私はここで、実習時間が終了するまでの残り数時間、完璧な仮眠を取ることにするわ」
「流石はお嬢様、ダンジョンの中でもそのニート精神、一切のブレがありませんね! 私もここでお嬢様の寝顔をお守りいたします!」
ココアは部屋の入り口に、新調された巨大な戦鎚をズドンと突き立て、仁王立ちの構えを取った。霊感ゼロの彼女にとっては、この不気味な地下迷宮も「ただの少し薄暗い部屋」でしかないらしい。その圧倒的な恐怖心の欠如が、今は何よりも頼もしかった。
ベッドの上に寝転がり、私はマジックアイテム『宵闇のナイトキャップ』を深く被り直した。これで周囲の未練霊たちの怨嗟の声や、ダンジョンの底から湧き上がる不穏な精神的ノイズは完全にシャットアウトできる。蒼流水の髪飾りの自動防汚効果のおかげで、カビ臭い空気の汚れが肌に付着することもない。完璧な防衛陣地だ。
「ふぁあ……。それじゃあおやすみなさい。みんな、適当に魔物を間引きしておいて頂戴ね」
私がアメジストの瞳を閉じ、意識を睡眠の底へと沈めようとした、まさにその時だった。
『……おい、お嬢ちゃん。起きな。寝てる場合じゃねえぞ』
足元で丸くなっていたルウが、突然、背中の毛を逆立てて、小部屋の奥の壁に向かって低く唸り声を上げた。
「……何よ、ルウ。私の至高の娯楽を邪魔しないで」
『違う。この部屋の奥……壁の裏側からだ。俺の鼻が、とんでもなく濃厚な【人間の油の匂い】を嗅ぎつけやがった』
ルウの言葉に、私の前世の監察医としての細胞が、弾かれたように覚醒した。人間の油。それは、死体が腐敗し、脂肪組織が分解されて周囲の土壌や衣服に染み込んだ際に発せられる、独特の粘り気を持った、そして消えることのない特異な死体油脂の匂いだ。
私はベッドから半身を起こし、ナイトキャップを外した。静まり返った小部屋の奥の壁。そこには、一見するとただの古い石積みに見えるが、よく見れば、人間が意図的に何かを隠すために、後から乱暴に埋め直したような不自然な隙間が存在していた。
そして、その隙間から、一般の人間には見えないはずの、ドロドロとした黒い液体のようなオーラを纏った『未練霊』の頭部が、壁を突き抜けてゆっくりとこちらを覗き込んできたのだ。その霊の顔は、苦痛と、そして凄まじい『裏切り』への怨嗟によって、見る影もなく歪んでいた。
(……待って。ここは国が管理している学園の、それも新入生が最初に実習で使う、安全なはずの第一階層よね? なんでそんな場所に、完全に隠蔽された『人間の死体』の気配があるのよ……!?)
私の、入学初日から始まった完璧な引きこもり計画。それは、迷宮の壁の向こうに眠る、数十年前の学園の『闇』の発見によって、再び強制的なサスペンスの濁流へと引きずり込まれようとしていた。
「ココア、そこにある不自然な石壁を、私の睡眠環境向上のために物理的に『排除』しなさい」
「お安い御用ですわ、お嬢様! 我が一撃にて、リフォームして差し上げます!」
ココアが巨大な戦鎚を軽く振り上げ、石壁に向かって容赦なく叩きつけた。轟音と共に石材が粉砕され、壁の向こう側に隠されていた、幅一メートルほどの狭い隠し通路が姿を現す。
そこから溢れ出してきたのは、ルウの鼻が捉えた通りの、凄まじい濃度の腐敗臭と、乾燥した死気の混ざり合った悪臭だった。他のクラスメイトたちも、その音と異臭に気づき、小部屋の入り口に集まってくる。
「な、何なんだこの匂いは……!? うげぇ、鼻が曲がりそうだぞ!」
レオンハルトが鼻を完全に押さえ、顔を青くして後ずさりした。シデンは無言で刀の柄に手をかけ、アメリアは魔導書を胸に抱きしめながら、私の行動をじっと見つめている。
隠し通路の突き当たり、そこにそれは横たわっていた。
数十年という歳月を経て、湿度の高い迷宮の環境によって部分的に屍蝋化し、衣服と皮膚がドロドロに癒着した、人間の遺骸。その首には、太い麻縄が何度も巻き付けられており、骨格の形状からして、当時まだ若かった魔術師の死体であることが推測できた。
「……死後数十年。頸椎の脱臼、および舌骨の骨折が見られるわね。典型的な【索条物による頸部圧迫(絞殺)】だわ」
私はベッドから一歩も降りず、身を乗り出して死体の状況を視診した。周囲がその専門的すぎる私の呟きに戦慄する中、私は意を決して、死体の胸元に僅かに残っていた、学園の古い校章が刻まれたペンダントへと手を伸ばした。
(私の安眠を脅かす謎は、さっさと解明して成仏させる。それだけよ……!)
指先が、冷え切った金属のペンダントに触れた。
その瞬間、私の視界が、爆発的なフラッシュバックと共に漆黒の過去へと反転した。
【五感共有】
熱い。喉が、焼けるように熱い。
「がはっ……、おま、え……何を……」
視界が激しく揺れている。暗い地下迷宮の一室。自分の身体が、麻痺性の毒によって完全に自由を奪われ、冷たい石の床に転がされているのを自覚する。
目の前には、同じ学園の制服を着た、信頼していたはずの『仲間』の男が立っていた。男の顔は暗がりで見えないが、その口元だけが、歪んだ冷酷な笑みを浮かべているのがハッキリと見えた。
「すまないね。君の持っているその『古代の遺物』、僕が地上へ持ち帰って、僕の成果にさせてもらうよ。君はここで、魔物に襲われて不運にも事故死した、哀れな特待生として処理される。……この部屋は外から完璧に閉鎖するから、誰にも見つけられないさ」
首に、太い麻縄が巻き付けられる。
ギチ、ギチギチと、頸動脈が強く圧迫され、脳への酸素供給が完全に遮断されていく。
視界が急速に狭まり、赤黒い斑点がチカチカと点滅する。肺が酸素を求めて激しく痙攣し、胸をかきむしりたくなるほどの凄まじい窒息の苦しみが、私の脳髄をダイレクトに破壊していく。
(苦しい、苦しい苦しい苦しい! 裏切られた! あの男、地上の……!)
パキリ、と首の骨が鳴る音と共に、世界は完全に暗転した。
「――っ、はぁ、はぁ……」
私は激しい動悸と共に、自身の小さな胸を押さえてベッドの上へと引き戻された。アメジストの瞳が、恐怖と怒りで小刻みに震える。前世で何度も扱った『絞殺死体』の苦しみを、十歳の肉体で追体験するのは想像以上に精神的負荷が大きい。
だが、そのお陰で、隠された真実は全て私の頭の中に揃った。
「お姉様! 大丈夫ですか、お姉様……っ!」
アメリアが真っ青な顔で私の体を支えようと手を伸ばしてくる。私はそれを手で制し、乱れた呼吸を整えながら、冷徹な監察医の声を教室の面々へと響かせた。
「全員、聞きなさい。これは魔物による事故死なんかじゃないわ。……数十年前、この学園の特待生だった人物が、当時の仲間に遺産を奪われ、毒を盛られた上で絞殺された【計画的な密室殺人事件】よ」
私のその一言が、静まり返った地下迷宮の空気を、一瞬にしてヒリヒリとした本格サスペンスの緊張感へと変貌させた。ベッドの上から動かない安楽椅子探偵――レイラ・アルザスによる、学園の闇を暴く最初の検死推理劇が、今ここに幕を開けた。




