第11話:救国の聖女、過労死ロードへ出立す
医療の進歩とは、本来、無数の屍を積み上げた先に成り立つ地道な階段である。
前世の現代日本において、不治とされた病が特効薬の発見や外科手術の術式向上によって克服されていく様を、私は何度も目にしてきた。だが、それらは全て解剖学、生理学、薬理学といった緻密な科学の結晶であった。
だからこそ、目の前で起きている『超自然的な現象』に対して、私の監察医としての理性が「そんな馬鹿なことがあってたまるか」と激しい拒絶反応を起こしていた。
「見てごらん、レイラ。こんなに長い距離を歩いても、もう息が切れないんだ」
初夏の柔らかな木漏れ日が降り注ぐアルザス家の庭園。
私の最愛の兄であるエリクが、かつての青白い顔色が嘘のように、健康的な赤みを帯びた頬を綻ばせて笑っていた。
三ヶ月前、私が十歳の洗礼の儀で『死霊術師』という国宝級の神話職を引き当てたあの日。王直属の特使が提示した最大の報酬――それが、王家お抱えの高位神官たちによる、国家最高峰の優先治癒魔法『ロイヤル・ヒール』の恒久的投与だった。
週に一度、王都から派遣される大司教クラスの聖職者が、エリクのためにその奇跡を振るう。
私はベッドの上からその様子を検死官の如き鋭い眼光で観察していたのだが、魔法が発動した瞬間の光景は、前世の医学知識を完全に嘲笑うものだった。
エリクの胸元に聖なる光が染み込んでいくと同時に、彼の細い首筋でドクドクと不規則に脈打っていた頸静脈の怒張が、みるみるうちに収まっていったのだ。
前世の臨床経験から推測するに、彼の病は先天的な心臓の弁膜症、あるいは心筋の肥大による重度の慢性心不全だった。本来なら人工弁置換術を施すか、ドナーを待つしかない絶望的な領域である。
それが、魔法の光に包まれるだけで、壊れて肥大化した心筋細胞がミリ単位で再構成され、機能不全を起こしていた腱索が正常な弾力を取り戻していく。チアノーゼを起こして紫色に淀んでいた爪先には、瞬く間に酸素を行き渡らせた鮮血が巡り、毛細血管の隅々までが息を吹き返した。
(……細胞の壊死を不可逆的に反転させるなんて、どんなナノマシンだよ。本当にこの世界の医療倫理はどうなってるんだ)
私は心の中で激しいツッコミを入れつつも、ほっと胸を撫で下ろしていた。
これでいい。私が過労死確定のブラック学園――王立学園へと身を売り、快適な引きこもりニート生活を人質に差し出した甲斐があったというものだ。
「良かったわ、エリク兄様。でも、あまり無理をしては駄目よ? 病み上がりなのですから、本当ならあと半年はベッドの上で絶対安静にしているべきだわ」
「ふふ、ありがとう、レイラ。でも、お前が僕のために、あんなに涙を流してまで王都の学園へ行く決意をしてくれたんだ。僕がいつまでも寝込んでいたら、男が廃るからね」
エリクは私の小さな手を優しく包み込み、心底愛おしそうに目を細めた。
違う。あの涙は、兄様のための自己犠牲の美徳なんかじゃない。将来の労働が確定したことへの、純度百パーセントの「絶望の涙」だ。
だが、この聖人君子のような兄には、私の邪悪な本音など一ミリも届いていないらしかった。周囲の大勘違いのおかげで、私の『慈悲深き聖女』としてのブランド価値は、実家の中でも天を突く勢いで固定されてしまっている。
「レイラ! 準備ができたよ! 王都へ向かう最高の馬車が到着したんだ!」
庭の向こうから、これまた底抜けに明るい声を上げて、父・ギルバートと母・エレノアが走ってきた。
彼らの後ろには、我が家の正門前に鎮座する、常軌を逸したシロモノが見える。
それは、王家がアルザス家に無償で貸与したという、最高級の特級魔導馬車だった。
純白の車体には金色の美しい彫刻が施され、窓ガラスには魔力を遮断する高級な防魔結晶が嵌め込まれている。車輪には、地面からの振動を完全に無効化する最高位の『浮遊属性』の魔導具が組み込まれており、もはや馬車というよりは移動式の高級スイートルームだった。
「……ほう。国の過保護っぷりも、ここまで来ると大したものね」
私はアメジストの瞳を小さく見開いた。
これまでの二年間、私とルウが裏でコツコツと稼いだお宝発掘の隠し財産に加え、国からの莫大な支度金が実家の金庫に転がり込んだ。さらに、あの詐欺師ザックから巻き上げた金貨や、彼が「二年寝かせた種にだけ効く高額肥料」として売ろうとしていた怪しい物品の処理も含め、アルザス家の財政は完全に黒字へと転換している。
没落貴族から、一躍「救国の英雄を輩出した名門」へ。両親は呑気に喜んでいるが、これだけのVIP待遇をされるということは、学園に入学した後にそれ相応の『見返り(重労働)』を要求されるという、国からの無言のプレッシャーに他ならない。
「レイラお嬢様! お荷物の積み込み、全て完了いたしました!」
ズドォォォォンッ!!
私のすぐ後ろで、地面が大きく揺れた。
振り返ると、そこには私の背丈の倍はあろうかという巨大なトランクケースを、軽々と両手で持ち上げたココアが立っていた。
王立学園は基本的に全寮制だが、特待生には「従者一人までの同伴」が許可されている。当然、私の専属メイドであり、最強の物理兵器であるココアがついてくることになった。
「ココア、相変わらずの怪力ね。馬車の車軸が折れないか心配だわ」
「ご安心ください、お嬢様! この馬車は王家御用達の頑丈な作りです! たとえ私がお嬢様をベッドごと抱えて飛び乗っても、傷一つ付きません!」
「絶対にベッドごと運ぶなと言っているでしょうが」
私は頬を引き攣らせながら、ココアの手によってひょいと馬車のステップへと持ち上げられた。
もう、引き返すことはできない。洗礼の儀からわずか三ヶ月。十歳の子供たちが一斉に入学する王立学園の門をくぐるための、地獄の旅路が始まったのだ。
* * *
ゴトゴトと、心地よい微振動だけが伝わってくる馬車の内部。
車内は驚くほど広く、贅沢な革張りのソファが並んでいた。私はそのソファの上に横たわり、クッションを抱え込んで完全に『引きこもりモード』に移行していた。
「あぁ……快適。このサスペンションの性能だけは、前世の高級外車以上だわ。このまま王都に着くまで、私は一歩も動かないから」
『ヒャハハハ! さすがは我がご主人様、旅の始まりから全力でサボる気満々だな!』
私の影から、漆黒の毛並みを持つ精霊・ルウが這い出てきた。
彼はソファの背もたれの上に飛び乗ると、黄金色の瞳を細めて私を見下ろした。
「当然でしょう。学園に入れば、嫌でも『死霊術師』としての能力を試される。授業だの実習だので、私の貴重な睡眠時間が削られるのは確実なのよ。今のうちに寝溜めをしておかなくてどうするの」
「お嬢様、お寝みになる前に、おやつはいかがですか? アルザス家特製の、イチゴのタルトをお持ちいたしました!」
ココアが、馬車が動いていることなど全く感じさせない完璧なバランス感覚で、お茶とケーキのトレイをテーブルに置いた。
私はソファに寝そべったまま、フォークを伸ばしてタルトを口に運ぶ。甘酸っぱい果汁と、バターの濃厚な風味が口いっぱいに広がった。美味い。実家が豊かになったおかげで、おやつのクオリティまで劇的に上がっている。
「ねえ、ルウ。王立学園の『特待生クラス』について、何か新しい情報は掴めた?」
私はタルトをモグモグと咀嚼しながら、ルウに念話で問いかけた。
ルウは、この三ヶ月の間、王都の裏社会のツテや、持ち前の隠密能力を使って、学園の内部事情をいくつか探ってくれていたのだ。
『ああ。それがよ、お嬢ちゃん。あんたが入るクラスは、ただの「エリート集団」ってわけじゃなさそうだぜ』
ルウの耳が、ピクリと不穏に動いた。
『通常、レアな職業を授かった貴族のガキどもは、地上にある陽の当たるエリート教室に集められる。だが、あんたたち今回の「特待生」の8人は、扱いが全く違う。学園の地下深くにある、初代ネクロマンサーが昔使ってたっていう【伝説の聖域】に、クラスごと隔離されるらしいんだ』
「……初代の聖域? 何それ、カビ臭そう」
『国からすりゃあ「最高の栄誉と、神聖な場所の譲渡」のつもりらしいがな。集まってるメンツも、世界の理をバグらせるような、暴走の危険性が高すぎる異端の能力持ちばかりだそうだ』
ルウの言葉に、私はフォークを止めた。
なるほど。国としては、建国以来二人目の死霊術師である私を、最大限にもてはやし、丁重に扱っているポーズを取りたいわけだ。だからこそ、初代の遺産という「最高の名誉」を部屋として与える。
しかしその実態は、他の危険なレア職たちと一緒に、一歩間違えれば大惨事を引き起こす『劇薬』として、地下の頑丈なシェルターに押し込めて管理・観察するための方便。
(おのれ、国家権力め。どこまでも私を労働力として囲い込むための外堀を埋めてきやがる。だが、地下の教室だろうが何だろうが関係ないわ。私はそこで、ただの置物として一生を終えてやる)
私の脳内で、新たな「学園サボり計画」が構築されていく。
危険なクラスメイトたちが勝手に暴れて、授業が自習にでもなれば最高だ。私はその間に、初代の聖域とやらにふかふかのベッドを持ち込んで、一日中寝ていればいい。
「お嬢様、お顔がとっても邪悪になっておりますよ! まるで、また新しいお宝の隠し場所を見つけた時のようです!」
「……気のせいよ、ココア。私はただ、王都の素晴らしい教育環境に、胸を躍らせているだけだわ」
私は可憐な美少女の微笑みを作り、紅茶を上品に啜った。
* * *
数日間の快適な馬車旅を経て、ついに馬車は王国の中央――王都の巨大な外壁へと到達した。
窓の外を見上げれば、天を突くような白亜の城と、広大な敷地を持つ『王立学園』の全景が広がっている。
学園の正門をくぐり、馬車が特待生専用の降車場へと滑り込んだその時だった。
『……おい、お嬢ちゃん。ちょっと待ちな』
それまで呑気に毛づくろいをしていたルウが、突然、背中の毛を逆立てて、窓の外を睨みつけた。
彼の黄金色の瞳が、かつてないほど鋭く収縮している。
「どうしたの、ルウ?」
『匂う。……泥棒としての俺の鼻が、とんでもなく嫌な匂いを察知しやがった。この学園の空気の底……特に、あんたたちが向かう地下の方向からだ』
ルウは、窓ガラスに前足を押し付け、低く唸り声を上げた。
『ただの魔物の匂いじゃねえ。……あれは、何十年も、あるいは何百年も発酵し続けたような、ドロドロに淀んだ【古い血と、人間の怨嗟の匂い】だ』
その瞬間、私の頭の中に、キィィィンと耳鳴りのような不快な音が響いた。
蒼流水の髪飾りが、微かに青い光を放って警告を発する。
まだ死体に触れてもいないというのに、私の『死の魔力』が、学園の地下から溢れ出る圧倒的な霊的エネルギーの波動を感知し、拒絶反応を起こしていた。
(……おいおい、冗談でしょう。これから私のプライベートルームにする予定の場所に、そんな物騒なものが眠っているっていうの?)
私の平穏な学園生活のスタートライン。
その足元には、国の最高名誉という華やかな皮を被った、底なしの『深淵』が、鎌首をもたげて私を待ち構えていた。




