陸奥の向背定まる2
足利将軍家は、陸奥には正式に守護大名は配していなかった。
元々、国人衆の勢いが強い為、守護よりも国人衆を統括することを目的とする奥州・羽州探題として斯波氏を派遣し、北畠顕家の残党である浪岡氏や鎌倉府の抑えとした。
また、元々いる国人衆を京都扶持衆とし取り込みを図った。
しかし、斯波氏の支配と京都扶持衆という二重支配は陸奥の支配を複雑にしていった。
斯波氏は、大崎氏、最上氏、黒川氏、天童氏という支族を輩出し、京都扶持衆には、伊達氏、蘆名氏、南部氏、安東氏、桃井氏、相馬氏などがおり、また鎌倉以来の御家人の家系として葛西氏が残っていた。
更に、鎌倉府が設置した、陸奥篠川公方、稲村公方もおり、義教が将軍に就任した当時は陸奥は混沌として、義教も陸奥平定までは中々、頭が回らない状況であった。
都が何も介入しないことにより、探題達や京都扶持衆は、お互いに対立や武力衝突を繰り返してばかりいた。
都での義教が政変を起こした頃、陸奥は、以下の有力者が勢力を固めていた。
陸奥国 奥州探題 大崎陸奥守教兼
出羽国 羽州探題 最上右京太夫義春
伊達郡 伊達大膳大夫持宗
会津 蘆名修理大夫盛久
十三湊 安東陸奥守盛季
三戸 南部遠江守義政
磐城 相馬治部少輔高胤
石巻・登米郡 葛西左京大夫朝信
この8名、独立心が強く、お互いに対立する関係ではあったが、都の義教の動きに危機感を感じてはいたため、陸奥の行く末について語ることには賛同した。
しかし、どこで集まるかから揉めに揉めた。
そこで大崎氏の発案で既に勢いも主人も無くなった、篠川公方跡地に皆が集まることになった。
かつて、篠川公方に叛旗を翻した、伊達大膳大夫は最初、抵抗したが、都の情勢を考え、渋々従い、ようやく陸奥での話し合いの場が持たれることになった。




