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陸奥の向背定まる1
九州が隼人の地であるなら、陸奥は蝦夷の地であった。
蝦夷は、大和に何度も反乱を繰り返した歴史がある。平安の御代にこの地を支配したのは奥州藤原氏である。奥州藤原氏は、十三湊を拠点とする独自の外交ルートを手にし、平泉の地に都には無い文化を花開いた。
その奥州藤原氏も、奥州を欲してやまない源氏の棟梁、源頼朝より滅ぼされた。
しかし、十三湊を拠点とする水軍は安東水軍として、鎌倉幕府の庇護の下、活動を続けていた。
鎌倉幕府の滅亡のキッカケは、この安東氏の内紛と蝦夷の蜂起が最初であったと言われている。
南北朝の頃、鎮守府将軍として赴いた北畠顕家は、この地を短期間で統治し、最強の軍勢を率いて足利尊氏に対抗した。
最後は、執事 高師直に敗れたが、この地を治めたものは最強の軍勢を持つことを証明したのは顕家であった。
その為、足利将軍家は、鎌倉府の抑え、また顕家の残党に対抗する為、陸奥の向背にはかなり気を使う必要があった。




