第五十三章
「ただいま……」
川上直樹が運転する車に送られて、僕こと高藤隆治と妻の恵美、そして僕のおふくろのいちが自宅に戻ってきた。
鍵を開けて中に入ると、家の中はしんとしている。
僕は不審な気持ちになって、ブツブツとこぼした。
「なんだ、あんなに大騒ぎしたっていうのに。哲治はもう帰ったのか」
恵美もきょろきょろと家の中を見回す。
「由美と話はできたのかしら? ちょっと様子を見てきますね」
突然、二階に上がった恵美が、「きゃあああ!」と悲鳴を上げた。
何が起きた? 一瞬、心臓が止まりそうになる。
僕とおふくろは顔を見合わせて、慌てて階段を駆け上がった。
「恵美、どうしたんだ?」
「あ……ああっ!」
僕が二階の廊下を見ると、娘の由美の部屋の入口を塞いでいた板が取り外され、扉が大きく開け放たれていた。
「開いてる! 由美は?」
息せきって部屋を覗き込んだとき、僕は思わずはっと息をのんだ。
部屋の中は無人だった。
打ち付けられた板に隙間なく詰め込まれていた紙や布の切れ端は、すっきりと取り払われ、板と板との隙間から差し込む濃いオレンジ色の夕陽が、部屋のあちこちを照らしている。
タンスや机の引き出しは空っぽで、不要な荷物はまとめてゴミ袋に詰められている。
「由美? 由美はどこだ?」
ベッドの下をのぞいたり、タンスの中を確認したが、大人になった由美がそんなところで隠れているわけがない。
「ああっ、ルーちゃん!」
振り返ると、部屋の中に入ってきた恵美が、ごみ袋の中から、見慣れたビーグル犬のぬいぐるみを取り上げている。ルーちゃんを胸にぎゅっと抱えたまま、恵美が悲しそうにつぶやいた。
「あんなに大事にしていたぬいぐるみを、どうして……」
僕はふとルーちゃんを由美にプレゼントした日のことを思い出した。あれはちょうど由美が幼稚園の年長さんになった年の誕生日だった。
飼い犬のシュヴァルツが大好きな由美のために、同じビーグル犬のぬいぐるみを、あちこち探し回って買ってあげたのだ。
・・・
「すっごく可愛い! お父さん、ありがとう!」
頬を紅潮させて目をキラキラ輝かせる由美に僕は言った。
「名前はどうするんだい?」
由美はぬいぐるみを両手で持って、犬の顔を真剣な目つきでじーっと眺めた。そしてハッとして、こちらに笑顔で振り向いた。
「あのね! ビーグル犬だから、『ルーちゃん』にする!」
「ハハハ! かわいい名前だなあ!」
僕は嬉しくなって由美の小さい頭を優しくなでた。
「大事にするね、お父さん!」
満面の笑顔になった由美が、僕を幸せそうに見上げた。
・・・
それ以来、由美はどこに行くにもルーちゃんを連れて歩いた。大きくなってからは、ベッドサイドにルーちゃんを置いて、何よりも大切にしていたはずだ。それなのに、どうしてルーちゃんを捨てたんだろう。胸の奥でモヤモヤとした嫌な予感が立ち上がる。
そのとき、磁力に引っ張られるように、僕の視線は勉強机の上に置かれた白いものに引き付けられた。
「手紙……?」
真っ赤になった夕陽に照らされた、何もない学習机の上で、白い封筒が一つ光っている。
僕は夢遊病にかかったように、机に向かい、震える手で封筒を取り上げた。
表には
「お父さん、お母さんへ」
と由美の字で宛先が書かれている。
僕は無我夢中で糊のついていない封筒を開き、中から白い便箋を取り出した。
パラリ。
便箋を開いた途端、僕はその場に膝をついた。
「あなた、大丈夫!?」
駆け寄った恵美が、便箋を読み、凍りついた。
「……これ、まるで……」
僕と恵美は顔を見合わせ、頭の中で12年前のある日の記憶が、音を立ててよみがえった。
「探さないでください」
哲治のときと同じ言葉。
あのとき僕たちは哲治を疎み、いなくなることを心の底で願っていた。だから探さないでほしいという手紙は、実に都合がよかった。
だが、由美は違う! 僕たちの由美は僕たちの愛情を一身に受けて育ったのだ。なのになぜ、由美は兄と「同じ」メッセージを僕たちに残して去ってしまったんだ!? わからない。理由が全くわからない……。
「どうして? どうして由美が家を出てしまったの? ねえ、どうしてえええっ」
夕陽が沈み、灰色に染まりつつある部屋の中で、恵美が僕の襟をつかんでゆさゆさと揺らしながら泣いて訴える。だけど僕にも皆目見当がつかない。 空に広がるトワイライトのようなぼんやりとした靄が頭を包み、僕は何も考えられないまま、恵美に揺らされていた。
でも、ちょっと待てよ、ひょっとしたら……。
「おふくろ?」
一緒に2階に上がってきたおふくろの姿を求めて、僕は扉の向こうの廊下を見た。
……たしかに、すぐ後ろにいたはずのおふくろ。でも、廊下には誰の気配もない。
しんとした空気が僕の頬をそっと撫でた。




