第五十四章
ショック状態の夫婦ふたりを家に残し、高藤いちはそっと外へ出た。夕陽が沈み、空の際が黄昏色に染まる中を、いちは噛みしめるように歩を進める。
―空っぽになった由美の部屋は、とても象徴的だったわねえ。まるで、ヒナが孵ったあとの卵の殻みたいで。―
そんな殻の中で抱き合って嘆きあう、息子の隆治とその妻・恵美を思い出し、いちはふうっとため息をついた。
―あの子たち二人は、自分の子どもに依存して、まったく子離れできていないのねえ。抜け殻に娘の気配を求めて、これからもああやって嘆き合うつもりなのかしら……。―
街灯が瞬き、光を放つ。ほどなく、その明かりを目がけて、狂ったように蛾が飛び交い始めた。
―でも、こんな事態になったのは、あの子たち二人だけの責任じゃないわあ。ねえ、そう思うでしょお?―
気がつくと、いちの右斜め後ろから下駄の音が響いていた。ぶっきらぼうで偉そうな、少し投げやりな歩き方。最後にこの音を聞いたのは、もう何十年も前だったが、いちには聞き間違えようがなかった。
―あなたと私も、江戸時代から続く古い慣習や家族関係に嫌気がさして、駆け落ちしたんですもの。家から逃げ出したのは、哲治や由美だけじゃない。私たち夫婦が元祖なのよお。―
いちは遠くを見るような目で、ふっと笑った。下駄の単調な音はまだ続いている。いちは心の中で、今は亡き夫・誉にまた話しかけた。
―それなのに、私たちは隆治や弘子を家の中で支配して、縛り付けようとしたわあ。特にお父さん、あなたのやり方は強烈だったわねえ。
前時代的だと忌み嫌っていたやり方で、私たちは子どもたちを縛ろうとしたのよお。ほかに躾の仕方を知らなかったから、どうしようもなかったんだけど……。
あれで、隆治も弘子も、少しおかしくなっちゃったのかもしれない。そう思うことがあるのよお……。―
下駄の音が、イライラしたように響く。いちは肩をすくめた。
―弘子は結婚して家を出たけど、隆治は長男だから、家から逃げることもできなかった。だけど、そのせいで、今度は被害者だったあの子が、哲治と由美の加害者になってしまった……そんな気がするのよねえ。―
こんもりと葉が茂る木の中で、たくさんのスズメがちゅんちゅんとさえずっている。いちはそのそばを通り抜けた。
―哲治と由美は、苦しい家族関係から逃げることができた。でも……恵美さんも、隆治と似た者同士なのよねえ。あの子たち二人とも、私たち親との関係がうまくいかなくて、卵の中から生まれ出ることができなかった、哀れなヒナなのかもしれないわねえ……。―
途端に、下駄の音がぴたりと止まった。いちはこくりと頷く。
―そう。きっとあの子たちは、自分の心に巣くう苦しみから抜け出せず、卵の中で一生を終えていくんだわあ。
でもねえ、それも、あの二人が「選択した」人生のかたち。最終的には、自分がどうありたいかは、自分で決めるしかないのよねえ……。―
下駄の音は消えたが、いちは背中に、たしかに誉の気配を感じていた。
ふと立ち止まり、ゆっくりと両手を合わせ、天に向かって祈る。
―今年も、まもなく終わりねえ。
新しい年が、どうかこの家族全員に、ささやかな幸せをもたらしますように。
命尽きるときまで、私はこの家族を見守ってまいりますから。
どうか、どうか。何卒よろしくお願い申し上げます……。―
夕暮れの空に、ぽつりと一番星が瞬いている。
いちはその輝きを見つめ、静かに微笑んだ。
完
こんにちは。
『Egg〈神経症一族の物語〉』、ようやく書き終わりました。
書き始めたのは3年前。タイトル通り、ずっと卵の中でもがいていたような感覚でした。
この物語は、私にとって「弔い」の小説です。
モデルになっているのは、若くして亡くなった二人のいとこ兄妹。
10代で足を失い、宗教にはまり、20代で亡くなった兄と、美人で頭も良くて、でも受験の失敗をきっかけにひきこもりになってしまった妹。
あまりにも静かに、家庭の中で人生を終えてしまった二人のことが、どうしても心に引っかかっていて。
彼らがどうしてあんなふうに人生を閉じてしまったのか、ずっと考えていました。
そして気づいたのは、「逃げる勇気」がなかったんだ、ということ。
苦しくても「家族だから」「親だから」と、自分を犠牲にし続けてしまう。
でも本当は、ちゃんと「NO」と言っていいんだ、って。
物語の中で、兄妹たちがそれを手に入れていく姿を書きながら、私自身も救われていったような気がします。
『Egg』は、彼らにもう一つの人生を贈るための物語です。
卵のまま死んでしまった命が、もしも殻を破って外に出られていたら。
そんな「もしも」の物語。
それを、小説というかたちでやってみようと思ったのです。
今回、連載が終わったのをきっかけに、この第2部を加筆・再構成して、本として出すことにしました。
タイトルは『夜が吠える Egg 1978』。
表紙も大体できあがりました。
静かにこちらを見つめる少年の顔が、そのまま“この物語の芯”を象徴しているような表紙です。
初版は、2025年5月11日(日)文学フリマ東京40にて。
その後、Amazon(KDP)で紙と電子の両方を販売します。
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https://x.com/Amydr_Publish
「夜に吠える」の表紙画像も掲載しています。ぜひご覧ください。
ああ、この小説を書いてよかった。
それを誰かが読んでくれるかもしれないなんて、ほんとうに幸せなことです。
読んでくれて、ありがとう。
そしてまた、別の作品でお会いしましょう。できれば8月ごろから、と思っています。
再会を心から楽しみにしつつ。
滝和子




