第五十一章
部屋の中にいる妹の高藤由美が泣きじゃくる声を聞きながら、あたしこと哲治は温かい気持ちになっていた。
「気が済むまで、泣くといいよ」
とびらの向こうにいる由美にあたしは優しい声で話しかけた。
「ずっと付き合うから」
1時間も経った頃、ようやく由美が泣き止んだ。
「ありがとう……。もう平気」
かすれた声で話す由美に、あたしは言った。
「あたしがここを逃げ出したあとも、由美はずっとずっとあの人たちのわがままに振り回されてきたんだね。本当にお疲れ様」
ぐすんと鼻をすする音が聞こえて、次に勢いよく鼻をかむ音が聞こえてきた。
「そうだよ。わたし、超頑張ったんだから!」
むくれたような由美の声に、あたしは思わず笑ってしまった。
「アハハ! 由美が小学生に戻ったみたいだ!」
ふと、小学生の頃の由美の姿が思い浮かぶ。
無邪気で、負けず嫌いで、いつも大きな声で自分の気持ちを言っていた。
「なによ、それ!? 変なの!」
由美も笑いながら言う。二人で笑い合ううちに、なんだかおかしくなってきて、しばらく笑いが止まらなかった。
そして、ふっと静かになった。
「あのね、お兄ちゃん」
「うん?」
「わたしね、ずっとずっと『卵』の中にいるような気持ちだったの」
「卵……?」
「そう。最初はとっても居心地が良かったんだけど、大人になるにつれて、どんどん殻の中が狭くなってきてね。
苦しいから外に出たいんだけど、殻の中はどんどん狭くなって、あっという間に身動きができなくなって、殻から抜け出すことができなくなっちゃうの」
「ああ、わかるなあ!」
あたしは扉に寄りかかって、両腕を頭の後ろに組んで同意する。
「家出する前、あたしも同じような気持ちだったよ。このまま死ぬんじゃないかってくらいに辛くってさあ」
「やっぱりそうだったんだ……。
あのさ、家出して後悔しなかった?」
「ぜーんぜん!」
あたしは元気よく答えた。
「そりゃ、自力で稼いで生活するのは苦労も多かったよ。まだ16歳だったしね。
でもね、あの二人の冷たい視線が無くなっただけで、天国にいるような気持ちになっちゃった!
狭いアパートの部屋の床を転げ回って、思いっきり伸びしてさ、『ぐはあ! 自由になったあ! これで好きなだけゴロゴロできる!』ってね!」
途端にケラケラと由美が笑い出した。どうしたんだろう?と思っていると由美が教えてくれた。
「フフフ! この部屋の中で、わたし、お兄ちゃんと同じこと考えてた!」
「ウソお!?」
「ホント! そっくりすぎてビックリ!」
そんなことを由美に言われて、あたしはふと気がついた。
「あたしたちってさ、やっぱり血のつながったきょうだいなんだね!」
「え? どういうこと?」
あたしはにやりと笑って由美に説明する。
「あたしは家の『外』へ逃げ出したけど、由美は家の『中』に逃げ出したのよ。
逃げ出す方向が違っているだけで、きょうだいでやってることは同じだったってこと!」
ゲラゲラ二人で笑いあうと、あたしは真面目な気持ちになって由美に話しかけた。
「ねえ由美、家の『外』に逃げ出さない?」
「え? 家の『外』?」
由美の声が不安で揺れる。あたしはここしかない!と思って、道々考えてきたことを由美に伝えた。
「そう、両親に支配されたこの場所から脱出するの。だって、このまま家の『中』に家出し続けるのも、限界があるもの」
「うん、それはそう。わたし、この部屋に閉じこもったままきっと死ぬんだろうって、諦めていたもん……」
「そんなのダメだよ!」
思わず大きな声であたしは叫んだ。
「由美はまだ26歳なんだよ! 果てしない未来が由美の前に広がっているの! 人生を諦めるのはあまりにも早すぎるよ! お兄ちゃんは絶対絶対、由美をこのまま死なせたりしないからね!!」
途端に由美が泣きじゃくり始める。
「お兄ちゃん……わたし、怖い。あの二人がわたしを逃がすなんて、とても思えない。就職だっておばさんのコネなのに……」
「大丈夫! あたしとおばあちゃん、それに太一と直樹と唐沢が由美の味方になる。あの両親には決して邪魔させない!」
あたしは「出・て・こい!」と願うような気持ちで、扉を3回、優しくノックした。
「お願いだよ、由美。一緒に家の『外』に行こう?
あたしも家出した当初は何もわからなくて不安だらけだったけど、勇気を出して一歩踏み出したから、今のあたしになれた。以前からは考えられないくらい、幸せになったんだよ」
扉の向こう側は見えないけど、由美が迷っているのが手に取るようにわかる。あたしは扉に両手をついて、祈るような気持ちで由美に語りかけた。
「あたしはね、この家から逃げ出せば、由美も自分らしく幸せに生きられると信じてる。
あたしが知った家の『外』の世界は、由美にもきっと微笑んでくれる」
由美からの返事はない。あたしは深呼吸をして、またゆっくりと、でもはっきりした口調で由美に語り掛けた。
「昔のあたしは、世界が敵だらけに見えていた。誰もがあたしを利用したり、見下したりしている。そんな気がして、誰も信じられなかった。お父さんとお母さんに見捨てられたら終わり。そう思い込んでいたの。でもね……」
あたしは扉の向こうにいる由美をまっすぐ見つめるような気持ちで、言葉を続けた。
「事故の後も、太一、直樹、唐沢はあたしを見捨てなかった。その友情を信じられたとき、初めて外の世界に飛び込む勇気が出た。
そして知ったの。世界には確かに冷たい人もいる。でも、味方になってくれる人もいる。お父さんとお母さんのフィルターを通して見た世界は、ただの幻だった。世界が怖いか楽しいかなんて、あたしの行動次第で変えられるんだって!」
いつしかあたしの両頬には涙が流れていた。あたしは自分ではない何者かに突き動かされるように、溢れる言葉を紡ぎ続けた。
「由美……。あたしは絶対にあなたを見捨てない。あの頃のあたしと同じ苦しみを抱えた妹を放っておくことなんて絶対にできない!
だけど、このドアを開けるかどうかは、由美、あなたしか決められない。あたしは由美の考えを尊重したいの。だから、たとえこのまま家の『中』に留まると決めたって、あたしは由美の味方になり続ける」
扉の向こうで由美が泣く声が聞こえる。答えがないことにヒリヒリするような不安と痛みを感じながら、あたしは言った。
「決めよう、由美。家の『中』にいるか、『外』に行くか。あたしは由美の答えを待っているから」




