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第五十章

 お兄ちゃんこと高藤哲司の衝撃的な話が終わり、わたしこと由美は呆然としていた。


 グスッ。

 扉の向こうでお兄ちゃんが鼻をすする音が聞こえて、わたしはようやく口を開いた。


 「ありがとう……お兄ちゃん。話してくれて」


 言いながら涙が勝手に溢れてくる。袖で涙をぬぐいながら、わたしは続けた。


 「家を出たのは、お父さんとお母さんが原因だったのね」


 「うん……」


 ちょっとかすれた声でお兄ちゃんが返事をした。


 「あたしね、物心ついたときから、こんなに両親に怒られたり煙たがられたりするのは、自分が悪いからだって信じ込んでいたの」


 トンッと扉に背中を預けて、お兄ちゃんが話を続けた。


 「でも家の話を唐沢や直樹にするようになったら、『哲治は悪くねえ!』『親の態度が一番問題だ!』って何度も何度も言われてね」


 フフフと笑い声がして、お兄ちゃんが明るい声で言った。


 「あの二人のおかげで、あたしはちっとも悪くないし、自分自身を罪悪感で苦しめ続ける必要はないんだって、心から思えるようになったんだ」


 「いいなあ、そんな友達がいて」


 わたしは思わず呟いた。四浪して大学に入ったせいで、高校までの友達とは連絡がしづらくなり、大学では年齢差が気になって心を開ける友達が作れなかった。

 もしもお兄ちゃんのように、なんでも話せる友達がわたしにもいてくれたら、何かが違っていたかもしれない。


 「だから、あたしは『逃げる』という選択肢を持てたんだよ」


 「逃げる……?」


 わたしが尋ねると、お兄ちゃんが説明してくれた。


 「そう、逃げたの。あの両親の呪縛から。

 あたしを自分より下に見て、優越感を感じたい父親から。

 そして、あたしのことを、自分を褒めさせるための道具としか思っていない母親から」


 「そうだったんだ……」


 わたしは声を絞り出した。うらやましさで胸がじりじりと痛い。

 頼れる人が両親しかいないわたしは、お兄ちゃんみたいに家から逃げ出すことはできない。お父さんとお母さんまで味方じゃなくなったら、わたしはこの広い世界で一人ぼっちだ。

 そんなの嫌。怖すぎる。


 カタカタと体が小刻みに震えだした。また息ができなくなるかもしれない。わたしは短くなる呼吸に怯えて、思わず口を両手でふさいだ。

 わたしの様子がおかしいのを感じ取ったお兄ちゃんが、扉越しに焦ったように声をかける。


 「由美、大丈夫?」


 「……うん、平気」


 なぜだろう。お兄ちゃんに心配されるだけで、震えがぴたりと止まり、呼吸が楽になる。


 「無理しなくていいよ。何か飲む物はある?」


 思いやりが溢れた言葉に、わたしの心はぽっと温かくなり、手足の指先の凍えが少し和らいだ。そしてお兄ちゃんに言われるまま、ポットからマグカップにこぽこぽとお湯を注ぎ、ゆっくりとすする。


 ふう。

 緩やかに息を吐くと、気持ちが落ち着いた。

 わたしはお兄ちゃんに話しかけた。


 「ありがとう。お兄ちゃんがいて良かった」


 「うん、そっか」


 こんな風に話している間、お兄ちゃんはただの一言も恩着せがましいことや、わたしを品定めするようなことを言わなかった。これはギャラこと西島秀樹と話していたときと同じだ。

 相手がどんな反応をするかびくびくする必要もなく、自分の評価を気にせず好きなように話せると、こんなにも心が軽くなるんだな。


 思えば両親は、彼らの希望通りの受け答えをわたしに求めた。だからわたしは難しいテスト問題を解くように、両親が喜ぶ答えを絶えず導き出さなければならなかった。間違えることはできないし、両親を立てるような話し方をしないと幻滅され否定される。

 両親とのそんな関係に、実はとても緊張していたんだということを、お兄ちゃんと話す中でしみじみと実感できた。


 そのうち、頭の中に大きなクエスチョンマークが浮かんでくる。

 お父さんとお母さんは、今までずっとわたしを大事に育ててくれたけれど、それはわたしのためではなかったのかも? ひょっとして、彼ら自身の理想を体現する、優秀で従順な子供が欲しかっただけ?


 髪を触った。ばっさり切ったショートボブの毛先をいじる。思えばお母さんと同じ髪型を止めたくなったのは、親の言いなりになっている自分にウンザリしたからだ。

 部屋に閉じこもったのだってそう。「お前はそんな子じゃないだろう?」と心配しながらわたしをコントールする両親の手から、逃げ出したくなったんだ。


 短い髪をくるくるとねじっているうちに、これまで経験したことのない力強い衝動がわたしの中を吹き抜けた。

そうだよ、もう止めよう。あの人たちのことなんか気にせず、なりたい自分になったっていいじゃない。

 わたしには今、話を聞いてくれる優しいお兄ちゃんがいる。わたしは本音でしゃべりたいんだもん!

 さっきまでとは全く違う震えが体を襲う。わたしは武者震いをしてこぶしを握り、胸いっぱい息を吸いこむと、あらんかぎりの勇気を込めて、お兄ちゃんに話しかけた。


 「ねえ、お兄ちゃん。

 お父さんとお母さんにとって、わたしは勉強ができて若くてきれいな、世間に自慢できるブランドをべったりつけた所有物。シュヴァルツみたいなペットに過ぎないの。

 それでも認めてもらえるのが嬉しくて、小さいころからずうっと頑張ってきたけど、もう限界!

 あの二人が望む理想通りの自分なんか大っ嫌い! だからお母さんとお揃いの長い髪を切ったの! 

 それでも、あの二人の支配は止まらなかった。だからわたしは自分の部屋に閉じこもって、わたし自身を取り戻そうとしたの!

 だって、わたしは……好き勝手にもて遊ばれる……あの人たちの『人形』じゃないんだから!」


 ひどいことをしてきた両親への怒りが胸の奥から込み上げる。

 だけど、それだけじゃない。

 ついに言ってやったぞ、ざまあみろ!

 抑えつけていた感情が爆発し、嗚咽が止まらなくなる。

 そして最後まで言い切った後は、ひた隠しにしていた気持ちが堰を切ったようにあふれ出し、わたしはワアワアと赤ちゃんみたいに大声で泣き始めた。


 扉の向こうで、小さく息をのむ音がする。

 それから、静かに、でもはっきりとした声でお兄ちゃんが言った。


 「……よく言ったね、由美」



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