第四十四章
「どうして髪切ったの?
たしか3歳から伸ばしてなかったっけ?」
ドアの向こうにいるお兄ちゃんの高藤哲治に聞かれて、わたしこと由美は、急に喉に大きなビー玉がつかえたようになった。
なぜ髪を切ったのか。
「もう誰のためでもなく、私のために生きたい」
そう思って、耳から下で一気に切った髪の毛の感触は今でも生々しい。
だけど、どさり、と音を立てて、重たい束が頭から離れた瞬間、不安なくらいに頭が軽くなり、とてつもなく悪いことをしている気持ちになった。
お母さんとお揃いの長い直毛。1メートル以上あるロングヘアは、わたしにとってアイデンティティそのものだった。
だが、あの日、わたしはそれを切り捨てた。だって、だってそれは……。
家に帰ってきたお母さんのショックを受けた顔と悲鳴も、いまだに鮮やかに蘇ってくる。
「何を考えてるの! あんなに大事にしてきたのに! 誰に何を言われたの!? 由美、お母さんの気持ちを踏みにじるの?」
顔を真っ赤にして泣きながら半狂乱になり、大きな口を開けて叫ぶお母さんは、赤鬼のように見えた。
わたしはお母さんに両肩をつかまれてゆさゆさと激しく揺すぶられながら、頭の中は真っ白だった。
結局、両親の間では、就職活動のストレスとお父さんの借金と浮気が髪の毛を切った原因だ、とされたけど、そんな即物的な話じゃないことは、自分自身が一番よくわかっていた。
「あのね、髪を切ったのは……」
扉の向こうでわたしの返事を待っているお兄ちゃんに説明を始めようとした瞬間、お父さんとお母さんの姿が頭の中に浮かび上がった。そして、イメージのお母さんが、わたしをがんがん叱り始めた。
由美! くだらない本音なんて、言っちゃダメ!
お父さんとお母さんが恥ずかしいでしょ!
由美はいい子! いい子なのよ!
お父さんとお母さんを愛しているでしょう?
もしも一瞬でも裏切ったら、私たちは
「お前を」愛さなくなってしまうのよ!
ねえ由美、お前は本当にそれでいいの?
そんな言葉が頭の中に次から次へと湧き出してきて、わたしの口を必死になって閉ざそうとする。
わたしは両親への罪悪感に襲われ、同時に裏切った罰として与えられる果てしない孤独に絶望してしまった。
ハッ、ハッ、ハッ!
体の内側から震えが湧きだし、額からは冷たい汗がにじむ。恐怖感で呼吸さえまともにできない。なんとか酸素を取り入れようと体があがくけど、暗闇の中で、頭がぼんやりと霞み始めた。
そのとき。
コンコンと優しいノックの音が聞こえた。
「由美、ねえ、由美! 大丈夫?」
扉の向こうから、必死な様子のお兄ちゃんの声が聞こえてきて、わたしは息を吹き返した。
両手で口を押えて、ゆっくりと深呼吸をすると、脂汗がこめかみを転がり落ちる。
—死ねない!
まだ死にたくない!
お兄ちゃん、わたしを助けて!!—
体が小刻みに震えるのを感じながら、私は猛烈にそう願った。そして、扉一枚隔てた向こうで私のことを思ってくれているお兄ちゃんに、全身全霊でしがみついた。
「もう平気……」
どのくらい時間が経ったろうか。やっとの思いで、わたしがかすれた声で返事をすると、ふうっという大きなため息が扉越しに聞こえた。
「ああ、良かった! ごめんね、変なこと聞いて!」
お兄ちゃんは涙声だった。
パニックから立ち直りつつあったわたしは、
「そんなことない。でも、本音で話そうとすると怖くて言葉が出なくなる……」
とささやくように答えた。
しばらく間があって、お兄ちゃんが言った。
「今からあたしが話すことは、由美とは何の関係もないんだけど……」
ためらいながら、お兄ちゃんが続ける。
「あたしがこの家を出た最大の理由はね、太一に誘われたから、じゃないの」
「えっ……お兄ちゃん、そんな話……初めて聞いた……」
わたしが思わず声を出すと、扉の向こうのお兄ちゃんが、14年前のあの事故から目覚めたときの話をし始めた。




