第三十五章
十二月二十八日。娘の高藤由美が自分の部屋に閉じこもって、一週間になった。仕事納めをした夫の隆治と妻の恵美は、キッチンで昼食を食べ終わり、お茶をすすりながら一服していた。
「今日はバレエをしないわね」
と、天井を見ながら恵美が呟いた。ここ一週間、キッチンの真上の部屋にいる由美は、気が向くとバレエをしているようで、軽やかなステップの音が天井から時折響いてきたのだ。だが、今日は朝から一度もそんな音さえ聞こえてこなかった。
「何をやっているんだろうな。いい加減、出てきてもよさそうなもんじゃないか。よし、もう一度話してくるか!」
しびれを切らして立ち上がる隆治を、恵美が止めた。
「やめてよ! 昨日、あなたが怒鳴ってから何の音もしなくなっちゃったのよ。これ以上刺激しないで!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ!」
苛立ちを抑えきれず、隆治が声を荒げる。
「このままじゃダメだ! ドアを壊してでも由美を連れ出さないと、取り返しがつかなくなる!」
「そんなのわかってるわよ!」
恵美が叫び返し、声が震えた。
「だけどっ! いくら声をかけても、あの子は私たちの話を聞こうとしないじゃない! これで無理やりドアをこじ開けて、自殺でもされたら……私、もうどうしたらいいかあ!」
恵美が肩を震わせて泣きじゃくり始めた。隆治は苛立ちをこらえきれず、拳を固めると壁に叩きつけた。鈍い音が響き、石膏ボードの壁に拳がすっぽり入るほどの穴が開いた。その様子を見て、恵美の泣き声がさらに大きくなった。
今、二人の心にあるのは、一寸先も見通せない漆黒の闇だ。
目の前にある手さえ見えない真っ暗闇の中で、実際に閉じこもっているのは娘の由美であった。だが、自分がコントロールできない理不尽な状況に心理的にからめとられているのは、この夫婦の方である。
部屋の中の由美の沈黙は、隆治と恵美を責め立てているかのようだった。それは彼らにとって、声なき「拒絶」の叫びに他ならない。
隆治と恵美は、親として自分が正しいと信じていた。しかし、その最大の根拠である手塩にかけた娘から、徹底的にNOを突き付けられてしまい、どうすればいいかわからなくなっていた。
なだめてもダメ、同情を引こうとしてもダメ、怒ってもダメ。娘を説得する術を失った夫婦は、暗闇におびえる小さな子供のようになってしまったのである。
そのとき、突然チャイムが鳴った。緊迫した空気を裂くような音に、二人とも一瞬息を呑む。泣きじゃくる恵美の代わりに、隆治が立ち上がり、玄関の扉を開けると――。
目の前に松本に住んでいる母のいちが立っていた。
「お、おふくろ? なんでここに……」
「由美は部屋から出てきたのかい?」
隆治の実母のいちがいつものおっとりとした口調で尋ねると、隆治は首を横に振った。
「いや、まだなんだ。僕たちの話はまったく聞いてくれなくて……」
キッチンで号泣している妻の恵美の声が玄関まで聞こえてくる。いちが気の毒そうにそちらを見やり、隆治に言った。
「今日はねえ、由美にどうしても会わせたい人たちがいるのよ」
隆治が怪訝そうな顔をする。
「会わせたい人って、由美の友達?」
ゆっくりと首を横に振っていちが言った。
「いいえ。隆治も知っているわよお」
いちは門の外に立っている人たちに向かって優しく声をかけた。
「あなたたち、こちらにいらっしゃいなあ」




