第二十九章
高藤恵美は娘の由美がこつこつ貯めてきた100万円の入った封筒を、コーヒーの香りが漂うドトールの小さな机の上で、夫の隆治に手渡した。
「はい、これ」
隆治はうやうやしく封筒を手に取った。
「本当に申し訳ない! これですべて終わらせられるよ!」
ふうっと大きなため息をついて恵美が言った。
「この前も話したけど、このお金は由美が貯金したものなのよ。戻ったら、ちゃんとお礼をしてくださいね。あの子ったら、借用書まで用意するくらいに今回の件は怒っていたんですから」
「わかってる、わかってるよ……。本当にお前たちには迷惑をかけてばっかりで……」
隆治はこらえきれず涙をこぼした。ハンカチを渡そうとする恵美の手を押しとどめ、涙を腕でごしごしとこすって、テーブルに額を押し付ける勢いで深く頭を下げる。
「恵美、お前には苦労ばかりかけて、本当に申し訳なかった。今回の件でよくわかったんだ。僕には今までもそしてこれからもお前しかいない! 心を入れ替えて家族のために働くから、どうか許してほしい!」
「……わかりました。でも二度と浮気はしないでください」
きっぱりとした口調で恵美が言った瞬間、隆治は椅子から身を乗り出した。
「しない! しないから……! 本当に誓う! こんなことは二度と……」
隆治の声が震えている。恵美は軽く目を細めて続けた。
「次は離婚しますから」
「離婚だなんて、そんなこと考えないでくれ! 俺がバカだっただけなんだ! 本当に反省しているんだ、信じてくれ!」
頭を下げっぱなしの隆治を見て、恵美はようやく安心した。この数カ月は、どこの馬の骨とも知れない、ぽっと出の女に夫を奪われそうで毎日気が気でなかったからだ。
結婚してから28年。隆治がいない生活なんて、考えるだけで胸が苦しくなる。愛する夫がいない家で食事を作ることほど虚しいことはない。そのうえ、夫が若い肉体に欲情し、自分への性的な関心が薄らいでいるという事実が、恵美の女性としてのプライドをずたずたにした。
だから、若さに溢れた女が恵美のもとにやってきて、妊娠したから離婚しろと迫ってきたときも、怒りの矛先は夫の愛情を奪った泥棒ネコだけに向かい、夫を憎むことはどうしてもできなかった。憎しみよりも、彼がそばにいる安心感が勝ってしまう。私はきっと、隆治なしでは生きられないのだろう。
そんなある日、恵美はついにある考えにたどり着く。それは、
隆治が私の元を去るのは、女としての魅力が減ったからに違いない
という思いだった。
50歳になった恵美のウエスト周りには分厚い脂肪がたまっていて、あれほど忌み嫌っていたおばさん体形になっていることを、改めて恵美は自覚した。
痩せさえすれば、また隆治に振り向いてもらえる!
そう思った恵美は、これまで以上に熱心にダイエットの方法を模索し始め、3日間リンゴばかり食べたり、着ながら痩せられるコルセットを買ったりと、悪戦苦闘していたのである。
そして、今までよりウエストが5センチ細いスカートが履けるようになった頃、隆治は浮気相手と別れる決断をした。これは恵美にとってみれば、自分が美しくあることが、結婚生活を続けるうえで必要不可欠なことだ、と証明されたようなものだ。
だからこそ、恵美は鷹揚な気持ちで隆治の謝罪を受け入れることができたのである。
「うちにはいつ戻るの?」
恵美が尋ねると、隆治は封筒を背広の内ポケットにしまいながら、
「年内には帰るよ。また連絡する」
と言って席を立った。
恵美も一緒に席を立ち、おなかに力を入れて、ウエストを細く保った。
「じゃあ、年越しはできるのね。よかった」
店から出て向かい合ったとき、隆治が恵美の体を見てちょっと驚いた顔をした。
「お前……ちょっと痩せたか?」
恵美はふっと笑って冗談交じりに答える。
「ええ、あなたのせいで苦労しましたから」
「そうか……」
言いながら隆治が頭をかいた。
「気苦労をかけて言うことじゃないが、きれいになったと思うぞ」
「じゃあな」
恥ずかしそうに手を振って立ち去る隆治の後ろ姿を見ながら、恵美は天にも昇る心地になった。
もう大丈夫。これで我が家はきっと元通りになって、何もかもうまくいくわ!
師走の街にジングルベルが鳴り響く。クリスマスの心弾む喧騒をBGMにしながら、恵美は自宅への道を鼻歌混じりに歩いて行った。




