第二十八章
朝、高藤由美であるわたしは、お母さんと連れ立って郵便局へ向かった。
――お金をおろすために。
「はい、これ」
100万円が入った封筒をお母さんに渡す。
そのたった1センチほどの厚みに、小学生の頃からコツコツと貯めたお小遣いと、大学でのバイト代が凝縮されていると思うと、わたしにはずっしりと重く感じられた。
でも、お母さんは何の感慨もないように軽々と封筒を手に取り、ハンドバッグにしまった。
「ありがとうございます、助かりました」
言い終えると、お母さんは迷いもなくさっさと歩き去ってしまった。
わたしは深いため息をつきながら、通帳を開く。
「残り18万円か……」
給料が出ない最初の1か月の生活費は、定期券を買うお金と毎日の食事代くらい。家に月5万円お金を入れるとして、10万円あればいいだろう。残りのお金とあと3か月のアルバイト代で、サークルの同期で行く卒業旅行や飲み会代、就職するときの服や小物も新調しよう。
たしかにお母さんの言う通り、切り詰めればぎりぎり何とかなる状態ではある。でも、お母さんに一方的に決められて、お金を巻き上げられたのは、やはりショックだった。
今までわたしは親から大事にされていると信じていたし、お父さんの会社がおかしくなるまでは、お母さんだってもっと思いやりのある人だった。どうしてこんなことになってしまったんだろう……。
家に帰ると、わたしは自分の部屋のベッドに腰を下ろし、枕元にいつも置いてあるお気に入りのぬいぐるみ「ルーちゃん」を抱きしめた。
壁にもたれながら部屋を見渡す。南向きの大きな窓から、冬の日差しがたっぷり差し込んでいる。窓辺には、大学合格のお祝いに買ってもらった青いCDラジカセが置かれていた。スリムで横長なフォルムがおしゃれなラジカセで、いつもJ―WAVEを流しっぱなしだ。特に日曜日の午後にある『TOKIO HOT100(トキオ・ホット・ワンハンドレッド)』はナビゲーターのクリス・ペプラーの声がかっこよく、海外のアーティストの曲がたくさん紹介されるのでお気に入りになっている。
わたしはそっと右の頬を触った。ギャラにキスされた感触がまだ残っている。夏のドライブ中に西島秀樹ことギャラからJ―WAVEを教えてもらってから、半年近く経っているのに、ギャラがまだわたしのことを好きだったなんて、あの日は本当に驚いた。でも、その数日後にギャラと葵ちゃんが付き合うことになったという話が回ってきたときは、もっともっとびっくりした。
「人の気持ちなんて、わからないものだなあ……」
ベッドにごろんと寝転がりながら、反対側の壁を眺める。そこには、大学の講義に関係する経済関係の専門書やバレエ音楽によく使われるクラシックCDのアルバムがぎっしり詰まった大きな本棚と学習机がある。隣には全身が見える大きな姿見と七段ある木製タンスが一つ。
小学生の頃から、わたしは大きな鏡を前に、バレエのポーズを何度も何度も練習していた。今もじゅうたんはその部分だけうっすらとへこんでいて、目をつぶっていても、同じ場所で正確に踊る自信がある。
馴染み深いはずのこの部屋なのに、わたしの心は落ち着かなかった。お母さんがわたしの部屋を勝手に物色していることが、昨日の件ではっきりしたからだ。成人している娘の部屋を漁って通帳を探しあてるなんて、わたしのプライバシーはこの家のどこにもないと言われているようなものだ。
ひょっとして、引き出しの奥に大切にしまっている生まれて初めてもらったラブレターも、ファイルにそっと忍ばせている高校生のとき片想いをしていた男の子の写真も、全部お母さんがこっそり覗き見ているんじゃないだろうか。そう思うと、恥ずかしくて頭を掻きむしりたくなる。
そして今回の件が、ちくりちくりとわたしの胸を刺してくる。借用書を書くなんて、やはり親子の間では間違っていることなのだろうか。お母さんをあんなに戸惑い怒らせてまで、やるようなことだったんだろうか。お母さんにあんなに冷たい態度を取られたのは生まれてはじめてで、とにかくショックだった。100万円を受け取ってすたすたと歩き去るお母さんの背中を見てからというもの、わたしの心の中では罪悪感が噴き出してきて止まらない。
わたしはルーちゃんをぎゅっと抱きしめて目をつぶり、懺悔の言葉を唱え始めた。
「親に反抗して困らせる親不孝なわたしでごめんなさい。
うつ病になって四浪までしてお父さんが望む大学に入れず、挙句にコネで就職しようとする無能なわたしでごめんなさい。
好きでもない人と手をつないでしまうような破廉恥で考えなしなわたしでごめんなさい。
お兄ちゃんが苦しんでいるのに、両親の言いなりになってお兄ちゃんを無視した、罪深いわたしでごめんなさい」
いつしか涙が両目から溢れてくる。わたしはボロボロと泣きながら、告白を続けた。
「他人と話すのが怖くてたまらない弱虫なわたしで、ごめんなさい……。
お金に汚くて、ケチケチしているわたしで、ごめんなさい……。
こんな救いようのない、何の価値もないわたしが、まだここで生きていて……ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
声を上げて激しく泣いた。おばあちゃんの前で思いっきり泣いてしまって以来、わたしの涙腺はもろくなったのかもしれない。
「泣いたっていいんだよ」
というおばあちゃんの優しい眼差しを思い出し、わたしは気の済むまで泣き続けた。
泣きたいだけ泣いてしまうと、罪悪感が薄らぐ。鼻をかみながら、わたしはやや冷静になって考えた。
借用書を書いてもらえたとはいえ、お父さんが家に戻ってきたらどうなるんだろう。
家族のためにと言いながら、両親はわたしをおままごとの人形のように扱いたいだけ。親に気を遣ういい子のわたしだけが大好きなお父さん。そして、ささやかな反抗すら許さず赤鬼のような顔で怒るお母さん。2対1になったら、わたしは絶対に不利になる。プライバシーもないだろうし、いい子でいなければ、自分たちの子供として愛してさえくれない人たちなのだ。
わたしはベッドに転がっているルーちゃんを見て、まるで自分が両親のぬいぐるみになってしまったかのようなぞっとする感覚を覚えた。
そんなのイヤ!
絶対に無理!!
勢いよくベッドを飛び出し、わたしは庭へ向かった。シュヴァルツ2世が嬉しそうにしっぽを振りながら駆け寄ってくる。ドッグフードを皿に入れてから、物置の扉を開ける。物置の中に手を突っ込み、トンカチと、手当たり次第に板を引っ張り出す。冷たい空気の中で、わたしはその板を次々と庭に放り出していった。




