四 これあかんやつや ③
二月二十日 月曜日
見おぼえのある光景が目の前に広がっている。はじめはそこがどこだか分からなかった。周りにいるのが誰かもすぐには思いだせない。しかし時間が経つにつれ、徐々に記憶が蘇ってきた。
「おい広瀬、この決裁間違えてるぞ!」
「なんど同じこと言わせるんだ馬鹿」
「何で俺がおめえのために怒られなきゃならねえんだよ」
「この資料、明日までに終わらしとけよ。俺は帰るからよ」
「もう一度同じミスしてみろや。ただじゃおかねえからな!」
だらしなく肥った身体、色黒の肌、粘着質な光を放つ眼。寂れた事務室で僕を事実上の療養休暇に追いこんだ元上司が、時おり下品な笑いを交えながら怒鳴り声を発して迫ってくる。よその係はもちろん課長も補佐もみな知らぬふりで仕事を続ける中、その元上司の罵倒が頂点に達し、ついには頭上に拳が振りあげられたところで眠りから覚めた。
辺りを眺めまわすと、そこは自室だった。最近はもう目にしなくなったはずの、前配属先でパワハラを受ける夢を久々に見ていた。驚きのあまりいつの間にか布団から上体を起こしている自分に気づき、ここは職場ではないと言いきかせつつ、こうして平日の昼に自室のベッドで身体を横たえるに至った経緯を思いだした。
三日前、市役所を早退して病院に滑りこむなり、鼻に綿棒を突っこまれて即座にインフルエンザの診断を下された。あとは薬を処方されて帰宅し、以後ひたすら泥のように眠っていた。今にして思えばあの日、階段を昇るたびに汗をかいたのは単に熱が上がっていたためだったのだろう。肝月課長が椅子を勧めてくれたのも、どことなく身を遠ざけていたのも最初からおかしな顔色をしていたからに違いない。頭に浮かんだ疑問を伝えようとするあまり、身体の異常に気づかなかったようだ。ただ発病が急だった割には回復が早く、今朝には熱は下がり体調も上向きつつある。運よく冷蔵庫には食糧の蓄えがあり、それらを食いつぶすだけで済み、ほとんど外に出る必要がなかったのも幸いした。
もっともこれまで就寝中は意識が暗転するばかりだったのに、下手に体力が戻ったせいで不快な夢を見るハメになった。もういちど眠ろうとしても、身体が睡眠を受けつけない。何もしないでいると、どうしても嫌な過去の記憶が思いだされてしまう。ひたすら罵声を浴びせかける上司、何を言っても動かない職員組合、相談する友人などどこにもいないボロ市庁舎。かといって窓を開けてみても、眼下に広がるのは市議会議員の立看板とポスターだけが妙に目立つ田舎くさい住宅街。誰も使わない時代おくれの電話ボックスが道端に捨てられたように佇み、その傍に町内会の防犯カメラがホコリを被ったまま放置されている姿も虚しい。一人だけ目に入る主婦らしき女性も、スマートフォンを片手に俯くお決まりのポーズでぽつんと歩道を歩くのみ。
病気明けというのは時に退屈なものだ。インフルエンザのためあと三日の出勤停止が言いわたされているとなれば尚更だった。こんなにも時間があり余るのはいつ以来だろう。いつまでも眠りそこなって鬱々としているよりは、趣味で気を紛らわせた方がいいだろうとコタツに入りノートパソコンを立ちあげる。実に一か月ぶりのブログ更新だ。それも前回は画像をアップしただけだから、閲覧者の反応を見るのは本当に久しぶりだった。だが、そこに書かれていたのは散々な感想だった。
「何でこんなの擁護してんの?」
「ファルコンさんゴミ作品の紹介お疲れ」
「米異アニメ」
「ウ元辟玉な作画山朋壊」
ちなみに米異というのは、漢字の糞をわざと部首ごとに分解したインターネット上特有の表記だ。ウ元辟玉や山朋も同様に完璧や崩といった漢字を指す。不審に思って調べてみると、期待していた『朝起きたら俺がいきなりモテはじめたのはおかしい』は僕が職務に追われる間に大変な有様となっていた。総監督は制作会社との軋轢により降板し、脚本は迷走し、作画は崩壊したという。試しにネット上で違法にアップロードされている動画を見てみると、たしかに目も当てられない出来だった。だがそれは僕がブログに上げた後で放送された回の話である。仮に残念な作品を取りあげた管理人のセンスを酷評するにしても適切であるとは言いがたく、お世辞にも嬉しい書きこみではない。
せっかくの趣味に手をつけたというのに不快感を覚えた僕は、仕方なくよそのアニメブログに目を通すことにした。掲載内容はどこも大して変わらない。今期はどの作品の作画がよいとか、声優は誰の演技が合っているかとか、この週はサービスシーンがあったとかなかったとか、本当にどれも似たり寄ったりだった。だいいち、作品自体が類似品で溢れている。『生徒会長は超大富豪でお姉さまかつ完全無欠の救世主』『事故死で天国に行った途端に魔王に滅ぼされそうになった』『念願の妹を手に入れたと思ったら下僕にされたなんて』など、例を挙げればキリがない。大部分がライトノベルの映像化であり、そうでなくてもどこかで見おぼえのあるような設定なのだ。揃いも揃って馬鹿の一つ覚えのようにタイトルだけはやたらと長い。かくいう僕もマンネリズムを楽しんではいたものの、深夜の巡回が始まってから日を追うごとに鬱陶しく感じるようになっていた。
そのうえ、ホームページを開くと必ずといっていいほど目障りな広告が出る。それもほとんどが課金を要求するブラウザゲームであり、イラストのパターンやカットもだいたい決まっている。レパートリーが少なすぎて、どれとどれが違うのか区別すらつかないほどだ。ブログ巡りをいちど中断して服でも買おうかと大手の通販サイトを幾つか覗いても、帽子も服も、やはり靴でさえどれも似たような商品ばかり。これらを眺めていると、インターネット上にも個性などないことに気づく。僕の住む街からはとっくにそれがなくなっているように、多くの場所から個性は失われてしまった。もしかすると世界のどこにも個性など存在しなくなったのかも知れない。何を目にしてもつまらなく感じる。
ネットサーフィンに嫌気が差した僕はパソコンの画面を閉じ、座布団の上に寝そべりつつ相談室での日々を思いおこしていた。考えてみれば、あの地下のタコ部屋での仕事もそう悪くはなかった。それは単に業務量が少なかったからではなく、責任を大して負わなかったからでもなく、残業時間が短くほぼ定時で帰れたからでもない。
もちろん業務そのものも楽しくはなかった。どのような評価を下され相談室に配属されたかは理解しつつ、市民の他愛もない問い合わせに答えるたびに、これは紛れもないお荷物職員の仕事だと感じたからだ。いや、例の事件にかかりきりの状態とはいえ、本来は最優先にすべき小さな子どもからの「うちのイヌをしかったら、すねちゃいました。どうすればいいですか」という問い合わせにすらまともに答えられず、そのお荷物職員の仕事さえ全うできていない。あの質問にどう返せばよいか今も朧気な形すら思いうかばず、むかし飼っていた犬のことを思いうかべては懐かしさに涙が滲むのみ。
にも関わらず今まで耐えられたのは、以前に配属されていた道路整備課とは違って、曲がりなりにも話相手がいたからだ。インフルエンザで倒れる前も時間にさほどの余裕はなく、紆余曲折もあったとはいえSMサロンやメイド喫茶での捜査はそれなりに楽しかった。ところが終わってみるとどうだ。先月よりも巡回の頻度は高くなり、真壁と部屋に居あわせる機会はおのずと減った。地下の一階、市役所とは思えない静けさの中、たまに足音だけが響く物置兼用のタコ部屋に隔離されるという孤独な環境は昨年末までと変わらないのに、一人でいるときの惨めさはひどいものだったではないか。それらの辛さを十か月あまりも紛らわせてくれたのは他でもない、あんな表情の起伏が少ない、性愛感情の未発達な、それでいて躁鬱の浮き沈みが激しい真壁だったのである。
その真壁は、今ごろどうしているだろうか。昨日、課長に電話を入れた際には「仕事は忘れて身体を休めなさい」と言われ、出勤日を確認しただけで終わった。いちど真壁の携帯か相談室に連絡しようかとも思ったが、仕事の邪魔をしまいとしてやめた。それでも気にはなる。新聞をはじめインターネット上のニュースサイトでも地方欄に取りあげられていないのを見ると、おそらく事件は解決していないのであろう。また検索サイトで幾つかのキーワードを入力して検索しても、一度目のイタズラ以外はどこのメディアも触れていないところからして関心の低さも窺える。世間一般の目からすれば奇妙奇天烈な珍事件でしかないのだから当然だ。しかしその裏で利権がらみの不純な動機から、市職員が真剣な捜査に当たっていようなど多くの人は知る由もない。
果たして僕たちの苦労は報われるだろうか。僕が休んだ代わりに、真壁が無理を強いられていないかどうかも心配だった。もしかすると久々にあんな夢を見たのも、心身を休めているつもりで事件のことが頭から離れないからかも知れなかった。ふと寝そべるとカレンダーが視界に入り、事件解決の期限が迫っていることが嫌でも思い出させられる。質問通告締切まであと十六日。
二月二十三日 木曜日
「課長はいま打ち合わせ中だから、まずは書類でも整理しといて。ここに戻るのは九時過ぎだから、その頃に顔を出すといい。お話があると思う。あと真壁には礼を言っておくんだよ。休みの間、土日の巡回を代わりに出てくれたんだ」
白河係長は忙しそうに早口でそう言うと、何か用事でもあるのか教育総務の方に行ってしまう。時計の針が差す時刻はまだ八時十五分。まだ職員はあまり揃っておらず、特に管理職の数は少ない。僕はマスクをかけたまま仕方なく出勤簿を押し、相談室へと向かい階段を降りていった。
週の後半だというのに、朝の地下一階は冷たい。鍵を開けて相談室に入っても誰もおらず、いかにも寂しくがらんとしている。案の定、僕の席には回覧板が積みかさねられており、真壁の机にも書類が無造作にばらまかれていた。僕は黙って両方の席の整理整頓に当たりつつ、今しがた白河係長からかけられた言葉を頭に思いうかべる。
肝月課長からの話とは何か。それから危惧していたとおり、僕のせいで無理をさせてしまった真壁は大丈夫か。出勤するまでまだ時間はあるだろうと思っていた矢先、その真壁が相談室に姿を現した。いつもどおり無表情なせいで調子の良し悪しをはっきりとは判別できないが、くたびれた様子が見てとれる。
「迷惑かけた。済まない」
不可抗力とはいえ、どういった形にせよ休んでいる間は仕事を任せきりにしてしまったのである。いっぽう真壁はまったく恩に着せる風でもなく、僕の体調を気遣ってくれる。
「気にしなくていい。それよりもう治ったのか?」
「おかげさまで。真壁こそ大丈夫?」
「まあ、何とか乗りきっている」
しかし声に力がない。荷物を置き、腰を下ろす動きは鈍く、極端に寒いわけでもないのに目と頬の間が震えている。
「ところで広瀬くん、ここに来る前に課長から話を聞いたか?」
「いや、課長はいなかった」
真壁も何らかの情報を掴んでいるらしい。先ほどから白河係長の一言が気になっていた僕にとっては都合がよかった。
「何かあったの?」
「大事件だ。後で課長から話もあるだろうが俺から話そう。聞いて驚かないでくれ。完全に予想外のアクシデントが起きた」
ニュースでも白河係長とのやりとりでも犯人逮捕の報がない以上、事件が未解決であることは分かっていた。それでいて真壁がこんなにもったいぶって前置きするとは、いったいどんな出来事だというのか。僕は椅子に腰かける。それから真壁が喉の奥から漏れでるような深い溜め息をつき、語った話は次のようなものだった。
「よく聞いてくれよ……」
本項にて述べられているエンタテイメントの評価は、作中の登場人物による見解であり、特定のエンタテイメントを誹謗・中傷する意図は作者にはありません。ご了承ください。




