四 これあかんやつや ①
二月九日 金曜日
恋愛ばかりをテーマにした同一の女性シンガーソングライターによる楽曲のみが延々と流れる店内で、僕はひとりテーブルの隅に佇んでいた。同期は人数が多いうえに仲がよいため、こうした場への出席率も高い。この日も三十人弱が飲み会に参加していた。
「今度の夏、またバーベキューに行こうよ」
「悪いね、今度はサッカーの試合があるんだ」
「そう言えば最近、おまえ野球部に顔ださないな」
「ここんとこ、ちょっと忙しくてさ……」
右隣の何人かは、プライベートで趣味の合う仲間同士で楽しそうに固まっている。だいたいがラフな格好だ。僕がひそかに目当てにしていた亀井芳美ちゃんもこの中にいるのだが、話題は運動部の練習や試合、その他の私的な集まりなどいずれもアウトドアばかり。徹底したインドア派である僕の出番はなく、かといって向かいの集団でもまったく興味のない車の話で盛りあがっている。
「このあいだ、レクサス買ったんだ」
「はじめて車買ったの? うちのアウディは四年目だけど」
「俺のセルシオはもう十年経つから買い替え時かなあ」
他も地元の同じ高校出身の同級生同士などで群がっており、僕が間に割って入る余地はない。したがって飲み会がはじまって三十分は経ったというのに、手元のハイボールは一杯目が残ったまま。近くの冷めた料理にときどき手をつけるぐらいで食事も進まない。おまけに服装からしてネクタイをきっちり締めた、よそとは異なる空気を発散している連中のせいでますます箸が進まなくなった。
「こんどさあ、俺、補佐から特別に仕事たのまれちゃって」
「上から目をかけられてていいなあ。こっちは二、三年目が多いからそいつらの指導だよ」
「うちは逆だね。先輩たちが情けないから、お守りさせられてるんだ」
どうやら形式的に愚痴を装いつつ、実際は仕事の自慢をしあっているらしい。もう採用されてこの年数になると、中には係長になっている者がいる。もしくは所属先で信頼を得、二、三年のうちに昇進が見込まれる者も多い。こうしたエリート候補はパワハラを受けて休みをとった僕にしてみればほとんど別世界の人間であり、雑談に交じろうという気さえ起こらないのだが、逆の立場からすれば馬鹿にするのにちょうどいいようで、そのうちの一人である財政課の丸山がへらへらと話を振ってくる。
「広瀬、子ども電話相談室って何やってんの?」
内容など分かっているくせにわざとらしい。周りの奴らもやめろよとか、近寄らない方がいいぞなどと囃したててきた。それを聞いた僕は思いきり愛想わるく答えてやる。
「子どもたちからの質問に答えてるんだよ」
「それだけ? 真壁と二人で? 凄え、楽隠居だな」
丸山は顔にさらに露わな嘲笑を浮かべたばかりか、正確な意味を把握しているかどうかは知れないまでも、楽隠居などという言葉さえ口にしだした。僕との会話を聞いている連中も、やはり互いに目を見合わせては声を殺して笑う。辺りにはもう、子ども電話相談室になど配属されたらおしまいといった空気が流れていた。予想はしていたものの、精神的にはかなり堪える。現実には心身を著しく消耗する厳しい生活を強いられているだけ余計に腹が立つ。僕は一応のところ平静を装ってつけ足した。
「いつもはそれと教育部の色んな課の手伝い」
「なら二人くらい必要かもな。ちなみに真壁はどうして帰っちまったんだ?」
「僕と交代で、例のお地蔵さまの件にかかりきりになってる。昨日も巡回だったから」
「そうか、子ども電話相談室っていえばそれがあったな。悪い悪い」
あまりにもあからさまに、悪いなどとは微塵も思っていない態度をとる。おまけに本当にお地蔵さまの件など頭になかった様子だ。たしかに、順調に市役所人生を送っている者からすればどうでもいい話ではある。解決の可否が企業の誘致という政治家連中の意向に関わる厄介な問題である以上、誰だって関わりたくはない。運よく無関係の部署に所属し、見て見ぬ振りをすれば我が身の安全は確保できる。もしくは自分の業務とは関わりない時点で、誰がそれに従事していても興味がないのか。そのせいか職員のほとんどが事件を知っているにも関わらず、誰も積極的には僕たちに触れてこない。もしかすると相談室と教育部の一部の人間を除いて、どうでもよくなっているのかも知れなかった。
だが僕はひとこと言ってやりたかった。結果がどうなるにせよ、こんな仕事でも誰かがやらねばならない。お前たちは運がいいだけなのだと。とはいえここで喚きちらしたところで問題が解決するわけでもなく、ただ僕の評判が落ちるのみだ。適当に話を流しはじめると、いじりがいがないと丸山は判断したのかエリート候補同士の自慢合戦に戻り、再び僕に声をかけてくる者はいなくなった、かのように思えた。
しかし例外がいた。ゴボウのように地黒で不健康に細く、僕とは比較にならないほどオタク然とした言動を憚らないくせに、なぜか社交性だけはそれなりに高い市民課の三石が非常に気持ちの悪い一言を投げかけてきたのだ。
「フヒヒヒ、広瀬くんと真壁くんて、普段ナニやってるの?」
「仕事に決まってるだろ」
僕は迷いなく即座に突っぱねた。噂によれば趣味に給料の全てを投じているようで、服も皺だらけで見すぼらしく、家賃を節約すべくボロアパートに住んでいるという。一部の人間からはよく見ればかわいいなどと評されているらしいが、こいつに絡まれるくらいなら一人でいる方がましだと思えるくらい近寄りたくない相手だ。
そして改めてこんなところに来なければよかったと思う。久々の同期との飲み会は、もう少し楽しめるのではないかと期待していた。前の部署から相談室に異動し、精神的に多少のゆとりが出たせいで余計な期待を抱いてしまったのかも知れない。前日に巡回が入っていたにせよ、はじめから欠席と決めていた真壁の賢明さに感心した。この場にいるだけで嫌でも惨めさが増す。さらにもっとみっともないのは、それでいてさっさと帰る踏ん切りもつかない僕自身のある種の煮えきらなさだった。
さらに間もなくして、その判断が見事なほど誤りだったと嫌でも思いしらされるハメになる。飲み会が始まって大分たったころ、これまで特に関わりあいもなかった下水道課の塩谷がやや遠くから声をかけてきたのだ。
「ああ、そういや広瀬、こないだのとこ、良かったか?」
良かったか、なんて言われても何のことか分からない。
「何が?」
「シラを切るなよ。SMクラブ行ったんだろ」
自分の顔から血の気が引いていくのがはっきり分かった。足を運んだのは事実だが、捜査目的で入店しただけだ。そもそもあそこはSMクラブではない。SMサロンだ。
「行ってないよ」
ことによると不用意に名乗った本名を、物覚えのよい客が誰かに漏らしたのではないかとの疑念が頭を過ぎるも、どうもそうではないらしい。
「嘘つくなよ。俺、店から出てくとこ見たんだぜ。そのメガネ、その顔、ぜったいお前だ」
「勝手に決めつけられても行ってないんだからしょうがない。だいたい見たのは僕ひとりだったのか?」
「おやおや? 他の誰かと行ったってことか?」
危うく口を滑らせそうになる。たしかにあのときは通行人がそれなりに多かった。一緒にいた真壁は人ごみに隠れ、僕だけが姿を見られたとしても不思議ではない。とはいえ本人不在の欠席裁判のような形で、道づれ同然に足を引っ張るのは気が引けた。
「そういうわけじゃない。他人の空似だ。とにかく行ってないものは行ってない」
僕は真壁の存在は伏せておくことにした。同期の目撃から逃れたからといって、真壁に悪意はないのだ。現在の難局に立ちむかうにあたり、今やたった一人となった仲間を売るような真似はできない。
「ホントか?」
そこでひとまず話が終わりかけたはずだった。ところが行った、行かないのやりとりが亀井ちゃんの耳に入ってしまったようで、茶化しながらもどこか引いたような表情をこちらに向けてくる。
「ねえ、広瀬くんってそういう趣味だったの?」
程よくアルコールが回っているのか、顔に少し赤みが差しているのがなお愛い。手入れの行きとどいたロングヘア、抜群のスタイル、白い美肌をはじめとした同期第一の美貌は健在で、公私ともにぱっとしない僕にもさほど分け隔てない態度で接してくれる。それだけに誤解を招きたくないのだが、塩谷がここぞとばかりに話を蒸しかえす。
「そうなんだよ。広瀬は行っていないなんて嘘ついてるけど」
くわえて一度は引っこんだ三石が、亀井ちゃんとはまったく正反対の見たくもない容姿を晒しつつ舞いもどってきた。
「ウヒヒ。広瀬くん、そんなことやってたんだね。ちなみにどっち? S? M?」
もうこうなると火消しをするのにも一筋縄ではいかない。誰もがSMという言葉を知っていながら、そうした性癖をもつ人物には滅多にお目にかかれないせいか、一同が次々と僕に好奇の眼差しと質問を浴びせかけてくる。
「SMクラブって面白い?」
「あるのは知ってたけど行ってる人は初めて見るわ」
「人は見かけによらないんだな。広瀬がそういうとこに通ってたなんて……」
「まあ、人の趣味はそれぞれだからね。教育部にいたって、勤務時間外は自由だからな」
すでに当事者そっちのけで勝手に噂を広めている。皆があまりにおかしがるので、僕は女王さまの名誉を守ろうとそれは別に恥じる趣味ではないと釈明しようか迷いつつ、言えば言うだけ泥沼にはまるだけだと思い、この場はひたすら否定に徹することに決めた。
「違う、僕は行ってない。塩谷くんが似てる人を見間違えただけだ。本当だ。何なら腕でも背中でも見てくれ。そういうとこへ行った痕なんか一つもないから」
ひとまずタイミングを見はからって説得力のある証拠の提示を申し出ると、周囲の噂はようやく鎮まる。というより、腕まくりだけならともかく背中まで服をめくられるのを面倒がっただけだろう。ついぞ疑惑は完全には消えず、向けられる視線には相変わらず色眼鏡がついたままで、何より亀井ちゃんの誤解を解けなかったのが痛かった。
もっとも、僕がそこまで残念がる必要はなかったのかも知れない。よく見るといつしか亀井ちゃんの傍には都市計画課の八代がおり、誰の目にも明らかにカップルと分かる雰囲気を周囲に発散していた。兄弟だか親戚の主催する小劇団で道具まわりの裏方を手がけており、僕とは反対に公私ともきわめて充実した生活を送っていると聞く。
「ねえねえ八代くん、今度の土日、どこ行こうか」
「来週は市内でいいかな?」
「ええーっ、私は出かけたいのに」
「ちょっと土曜日は劇団の雑用があるから」
「そんなに大変なの?」
「大した手間じゃないけど、貸衣装屋とか、かつら店とか回らなきゃいけなくて」
「そんなの、平日に済ませればいいじゃない」
「分かった。うまく定時で帰った後に行って用事すませてくるよ」
「ありがとう。それじゃ場所はどこにしようか……」
八代はチビ、デブ、ハゲの三重苦を背負っているにも関わらず同期随一の美人と付きあえているのだから当然として、前の彼氏と別れたばかりという事情があるとしても、むしろ亀井ちゃんの方が甘えているのは理解しがたい。おそらく無償にせよ副業もちで忙しい八代と亀井ちゃんがどう接近したか知りたくもないが、二人のこうまで人目を憚らぬいちゃつきぶりを見せつけられては、先週のショックが消えやらぬ僕は何かしらのアクションを起こす気力などすっかり失せてしまう。そしてそこへ追いうちをかける者がいた。国保税課の川中子だ。ビールを片手に近づいてくる。
「残念だったねえ、亀井ちゃんはもう売り切れだよ」
「言われなくても分かってるよ」
つとめて平静を装ったつもりだが、周りがどう捉えたかは分からない。多分に不完全だったと思われる。特に人の傷口に塩を塗りこむのが趣味らしい川中子には逆効果だったようで、普段さして親しくもないのにやたら絡んでくる。
「その割には残念そうな感じだけどね。しかし教育部といえばおめでたい話があるのに、広瀬くんはどうしたんだい? ちょうどいい。見ろよ」
そうして指をさして差ししめしてきたのは、やや遠くで披露されているモノマネだった。先ほど余計な茶々を入れた丸山は市長役を務めつつ女口調でシナをつくり、教育長を演じる総務課の関は朗々としていながら時おり照れ笑いを浮かべるなど工夫を凝らしている。
「いつ頃から意識しはじめたかって訊かれましてもねえ……。そりゃあ、お会いしたときからですよ」
「奇遇ですね。実は私も市長とまったく同じで」
「本当ですか? 最初はまったく相手にしてくださらなかったじゃないですか」
「それは公職に就いておりますから、どうしても躊躇してしまいまして」
「遠慮なさらなければ良かったのに。おかげで一年以上も無駄にしてしまいましたよ」
およそ三か月前、とある部長が市長と教育長の馴れそめを訊ねた際の受け答えだ。この微笑ましい熟年カップルの交際は周囲におおむね好意的に受けとめられており、今しがた再現されたやりとりは噂となって部内の各課長から補佐以下の職員へ、次いで庁内全体に知れわたるところとなった。
したがってこの情報は改めて知らされるものではなく、余興も幾らか冷やかしの部分があるにせよ、この場にいる多くの者は二人を祝福する気持ちの方が強いのだろう。モノマネがひと段落するとみな一斉に拍手を送る。声や仕草を似せようとしても所詮は素人であり、別に目新しい芸ではないにも関わらず受けているのは、この飲み会という場も関係していた。世の常として、酒が入ると笑いの沸点は下がる。むろん僕の目にはまったく楽しげには映らず、温くなった手元のグラスに口をつける間も気分は沈む一方だった。
「あれにあやかって、お前も頑張れよ」
黙っていると、川中子はいじりがいがないのに飽きたようでその一言を残し別の席へ移っていく。はっきりと言葉にしないまでも、お歳を召されてなお充実した私生活を送る市長や教育長を引きあいに出し、情けなく不甲斐ない僕を馬鹿にしているのは明らかだった。その後は周囲に話しかけてくる者は本当に誰もいなくなり、僕は飲み会がお開きとなるまでただひたすら一人で残りの時間を潰しつづけた。




