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こちら子ども電話相談室  作者: 新宮義騎
23/42

三 無敵の人 ⑧

二月七日 火曜日


 ちょうど午後一番、僕は決裁板を胸の前で伏せるようにして教育長室を出た。当然ながら肝月課長がインフルエンザに罹患した情報は瞬く間に庁内に知れわたっている。

 そのせいで周りの職員がみなマスクをかけているのはいいとしても、僕に妙な視線を送るのはいかがなものか。しかも僕も真壁も同じくマスクで防護策を講じているのに、まるで病原菌でも通りすぎるかのように距離まで取ってくる。例年のようにインフルエンザは複数の型が流行し、事前に接種した予防注射が必ずしも役に立つわけではなく、肝月課長と接触する機会が多かったのも事実だが、そんな風に扱われては当然ながら気分が悪い。

 したがって僕は利用者が多い庁舎中央の階段ではなく、こちらが病気をうつされるのを防ぐ目的も兼ねて、普段は人気のない北寄りの階段を使って階下へと降りる。さすがに照明が暗く狭いこの階段を使う者は少なく、誰ともすれ違わずに済むかのように思われた。

 しかしどうしたわけか、制服姿の警察官ふたりが下から昇ってくる。昨年のようにどこかの課が会議に呼べば出席することはあるものの、あまり見ない光景ではあった。何の用かと試しに後をつけてみると、二階のフロアの端に足を止めて何やら話をはじめる。

「とつぜん失礼ですが、今ちょっとお時間よろしいでしょうか」

「すみません、あいにく上司はみな会議で席を外しているもので」

「ではこちらの文書を。事前にお電話していたものですが」

「はあ」

「内容はお読みいただけると分かりますが、簡単に申しあげると交番に毎晩、電話がかかってきておりまして、こちらも対応に苦慮しているところで、組織犯罪に巻きこまれたというか、利用されているようなお年寄りの方に心当たりはないかと……」

 組織犯罪とはいわゆる反社会的結社の活動を指し、おまけに標的がお年寄りとくればいかにも高齢化に悩まされる治安の悪い地方都市らしい事件だ。おおかた解決困難なため捜査協力をしに来たのだろう。お地蔵さまの件では交番の当直こそパトロールに出てくれているとはいえ、本署の人間はいっさい動かさないという非協力ぶりを発揮しているくせに何を虫のよい頼み事をしにきたのかと思う。

 だいいち捜査内容を市庁舎の廊下で声に出すべきではない。にも関わらず不用心にもぺらぺらと喋るのは、二人組の警察官のうち採用されて間もない新米と思しき若い方だった。いっぽうそれを僕の目から見てさえ典型的なお役所仕事で対応したのは、入庁八年目の北川とかいう話し好きで有名な男である。

「こちらは福祉総務課ですので、個別の案件までは」

「いえ、事前に門脇さまへお話ししたところでは、各課に照会をかけていただけると」

「門脇は休みですので、渡しておきます」

 その北川は頼もしくもこれ以上、秘匿すべき情報を市民に聞かれないよう言葉を遮り、またそれとなく注意を与えつつ、ややぞんざいながらも警官ふたりを軽くあしらって半ば追いはらうように帰してしまった。おそらくは積み重ねた経験からくる要領のよさを僕が感心して見ていると、なお余裕があるらしく声までかけてくる。

「やあ、相談室の広瀬くんだね」

 お互い面識はないというのに、今しがたとはまるで違う妙に親しげな口調である。相手の立場で態度を大きく変えるタイプと見た。とはいえ同じ市職員だけあって敵意は抱かれておらず、むしろ相談室所属という珍しさから僕に好奇心を寄せてくれているようだった。幸いにも辺りに人の姿は少ないのを確認し、カウンター越しに返事をする。

「はい」

「いま大変みたいだね。噂には聞いてるよ」

「ええ、犯人がなかなか捕まらず……」

 僕たちの苦労に気をかけてくれるのは、誰であれありがたい。痩せて小柄、大人しめな風貌も相まって愛嬌も感じられる。正直、手がかりも得られず嫌気が差していたと軽い愚痴をこぼしかけるも、どうやら違うらしい。

「そうじゃないよ。知らないの?」

 北川は心底呆れた風な顔をしている。何を言いたいのかさっぱり分からない僕は、訊きかえしてみた。

「お地蔵さまの話じゃないんですか?」

「ぜんぜん別。横澤室長だ」

「たしかに室長は入院中ですが」

 そう言えば、怪我の回復が順調なら二月中には退院できるはず。お見舞いに行った際、室長の口からそう聞いたのを思い出したとき北川がぷっと息を吹きだして笑いだした。

「だからその横澤室長が入院中にやらかしたんだよ。見舞いに来た彼女をそのまま病室のベッドに連れこんで、それが原因で怪我が悪くなって退院がまた一か月延びるって話」

 信じられない。あのとき室長は勤務時間外のもらい事故とはいえ不注意を詫び、早期の職場復帰を誓ったではないか。だいたい肝月課長なり教育部内の人間から聞かされるならまだしも、よもや部外者からこの情報がもたらされようとは。しかしこれで分かった。昨日、白河係長の態度がおかしかったのも、つい先ほど教育部の皆がちらちらとこちらを見ていたのも、みな室長の失態を知っていたからだ。

「ちなみにいつですか?」

「先週の土曜」

「でも、何でそれを?」

「うちの課長が前の職場で横澤室長と一緒でね。お見舞いに行ったとき、その彼女とお楽しみの最中だったそうだよ」

「個室じゃなかったはずですが」

「カーテンで仕切れば姿は隠せる。声が漏れるのなんてお構いなしだったんだろうね」

「見舞い客があんまり長居したら、不審がられるような」

「それをカムフラージュするためにその彼女さん、わざわざナースコスプレまでしてたらしい。病院でちょっとした騒ぎになったって聞いた。でもホントにひどいなあ。誰も教えてあげないなんて」

 北川はこっちの気も知れないでゲラゲラと笑っている。もしかすると海綿体骨折の症状や、発症に至った詳細な経緯まで耳にしているかも知れない。人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ。それにしてもこっちが心身をすり減らしながら深夜の巡回に出ている間に、彼女とナースコスチューム・プレイとは! 僕が憤怒の形相を浮かべるや否や、北川は笑うのを急に止めて機嫌を取りにくる。

「悪かった。怒るなよ」

「大丈夫です。怒ってません」

 威嚇が成功したからといって、それで気の済むはずがない。僕の全身から噴きあがる怒りは周囲へ容易に伝播するらしく、廊下を歩くあいだも何人かがぎょっとしてこちらに目を向けてくる。自分でもひとまず顔の緊張が解けたと自覚できたのは、階段を何段も降りて地下一階に辿りついた頃だった。


「女に逃げたな」

 相談室に戻り、北川からの話を知らせると真壁は吐きすてた。僕ほどには怒りを露わにしていないにせよ、明らかに不機嫌な様子で溜め息をつくのがマスク越しにも分かる。

「もう、お地蔵さまの件は頭にないだろう」

 同感だった。事件が未解決に終われば室長も懲罰人事を喰らうハメになるが、彼女が二十歳でスタイル抜群とくれば出世や仕事などどうでもよくなるのも無理はない。今までさんざん室長に頼ってきた僕たちが、さらに面倒を見るよう要求するのは甘えすぎのようにも思える。この段になって恨むのは少なくとも筋違いなうえ、いくら怒ったところでどうしようもないとある種の諦めもついた。むしろ課内の皆が、僕たちの置かれた状況を慮り黙っていてくれたであろうことに感謝したい。

「これからは室長ぬきで考える」

「そうだね。僕たちでどうにかしなくちゃ」

 肝月課長がインフルエンザに倒れたのも、幾らかは心労が関わっているだろう。したがってこれ以上の無理を強いるのは酷というもの。真壁も意見は同じようで、首を縦に振る。

「では広瀬くん、スケジュールは決まったんだね。確認といこうか」

「ああ、このとおり」

 僕は持ちかえった決裁を机に置いた。決裁権者である教育長の欄まで押印がなされており、生涯学習課長の箇所のみ空欄で上部に「後閲」と書かれている。他に有効と思しき捜査方法が見つからない現状では、僕たち二人にできるのはこれまでとほぼ同じ深夜の巡回のみだった。予定日は真壁が二月九日(木)、十二日(日)、十五日(水)、十七日(金)、二十五日(土)、二十六日(日)、僕が十三日(月)、十四日(火)、十八日(土)、十九日(日)、二十一日(火)、二十四日(金)となっている。

 ただ、以前との違いは二つあった。ひとつは巡回中に使用するカメラを増やす点だ。これは僕と真壁の二人だけの秘密のため、予定表や決裁には記載していない。

「そうそう、今週末にはマイクロカメラが僕のとこに届く。公用車に固定する両面テープも一緒に注文しといたよ。今度の日曜日は真壁が当番だから、当日の夕方までにこの部屋に置いておくよ。取扱説明書も読んでおいて」

「手間をかけさせて済まない」

「まさか届け先をここにはできないからね。しょうがないよ」

 そしてもうひとつ違うのは、僕たちに同行する当番職員の割り当てに出先機関である教育センターと図書館が加わった点だ。こちらは予定表に記してある。真壁は決裁にまでひととおり目を通すとぼそりと呟いた。

「図書館が入ってるんだな」

「何を今さら。昼夜逆転がきついって本庁の課から文句が出て、こうなったんじゃないか」

「いや、図書館には恵比寿がいる。もし出てきたら面倒だ」

 真壁が危惧しているのは、姓だけはどこぞの福の神だが生態は邪神としか言いようのない、教育部のみならず火床市役所全体を見まわしても札つきの問題職員として音に聞こえた恵比寿正彦のことだった。僕たちと似たり寄ったりのヒラの閑職をぶらつく気楽な身分に飽きたらず、五十歳目前にして市が主催する様々な行事に出没し、若い女の子を盗撮するばかりか自身のブログに写真や動画を掲載している正真正銘の痴れ者である。そのくせ危機回避能力だけは高く、正義感に燃える有志の追求はもちろんのこと、警察の目までことごとく逃れている強運の持ち主でもあった。先月おこなわれた成人式にも出没したと聞く。室長がぼやいていた盗撮魔というのはこの恵比寿に他ならない。出先機関には、ときに先ほどの北川など赤子同然の危険人物が隔離されているのだ。

「大丈夫だと思う。白河係長からも図書館長と立川部長に言ってくれるって」

「ならばありがたい。しかし本当に配慮してくれるんだろうか」

「恵比寿が問題を起こそうもんなら、たちまち週刊誌のネタになる。公務員の不祥事なんて飯のタネだから、すぐ飛びついてくるよ。管理職はみんな警戒してるみたいだし、特に立川部長は抜かりないでしょ。大事になればいっそうまずい立場にいるんだから」

「そうだな。保身のために俺たちを懲罰人事で脅すくらいだから、恵比寿に注意する程度のことはやってくれるだろう。ただ、ああいうのがいると上も大変そうだな。いっそ公務とは関係ないところで逮捕でもされてくれれば、いちいち気を揉まなくても済むんだが」

「真壁、そりゃちょっとひどいんじゃないの? まったくのプライベートで騒ぎを起こしても、上司は知らんぷりできないんだよ」

「そうは言っても、一緒に行動する可能性があるだけの俺たちですら警戒せざるを得ないんだぜ。上の方も、さっさとクビにしたいと考えているはずさ」

 それにしてもこうして打ち合わせをしているのに、具体的な案を出すどころか話の筋道を脇に逸らし、妙に後ろ向きな姿勢をとるのは真壁にしては珍しい。他の雑用はともかく、お地蔵さまの件に関してだけは真剣だったはずだ。能面づらを保っていても内心では室長のやらかしにモチベーションをなくしたのか、もしくは捜査の疲れが残っているのか。実際、定期的にある程度は文書整理をしている僕とは違い、真壁の机には問い合わせの手紙が何通か散らばっている。のみならず、そのうちの一通を僕に見せてきた。

「ところでこの質問、よければ君の方で答えてくれないか?」

「溜まってる問い合わせは事件の後で片付けろって、立川部長からお達しが出てるはずだよ。問い合わせも半々で答える約束だったろ?」

「ただ、後で答えるにしてもこれは俺には難しい。それにこの手紙、半端なサイズで放っておくとなくしそうでね。代わりに一通、君のところにあるのを引きうけるから頼む」

 手に取って眺めてみれば、「うちのイヌをしかったら、すねちゃいました。どうすればいいですか」と書かれている。字面からして、質問の主はまだ幼稚園児くらいだろう。

「ペットは飼ったことがないんだ。もっとも君も同じなら俺がもういちど考える」

「いや、前に犬を飼ってたから僕の方で答えるよ」

 かなり昔のこととはいえ、経験があるのは確かだった。僕はそのまま手紙を引き出しのファイルにしまう。単純な丸投げではなく、互いに処理する案件を交換するのであれば貸し借りはイーブンだ。それに下手に真壁に預けて、なくしてしまっては申し訳がない。

 だいたい、それ以前に手を付けるのが実際かなり後になるのを思うだけで心苦しいのだ。

手紙の日付は二月五日とあった。よりによってこんな時にお年寄りではなく本当に小さい子どもから質問が来ようとは。何しろ表面上は市内在住児童の前田敦乃ちゃんの問い合わせに答えるという大義名分で、しかし実質的には板垣議員の要求に応じ、お地蔵さまにイタズラを仕掛ける犯人を最優先に突きとめなければならないのである。まさに子どもの希望は後に回し、大人の、とりわけお年寄りや議員の要求を優先させる地方行政の現実が表出した状態と言えよう。間接的にせよこうした勝手な大人の事情に巻きこんでしまっていること、またそうせざるを得ない不甲斐なさを僕は重ねがさね大変申し訳なく思う。

 下手に考えこむと落ちこむばかりだ。真壁ではないがここらへんで気分転換も必要だろうと思い、何とはなしにまったく別の話を振ってみる。

「ところで真壁、そろそろ研修があるの覚えてる?」

「ああ、研修があったか」

 真壁はすっかり忘れていたらしく卓上カレンターを持ちあげては覗きこみ、また元の位置に戻してはだらしなく椅子に背を傾けて天井を仰いだ。僕が何も言わなかったら、研修会場ではなくいつもどおり相談室に出勤していたに違いない。業務に支障が出ないようにとの配慮から、前日の夜からほとんど徹夜つづきの真壁だけが研修に出席することになっていた。代わりに相談室の留守番役を割りあてられた結果、研修は翌年に持ちこしとなった僕からすれば羨ましい話である。何と言っても貴重な睡眠時間が得られるのだから。

「やっぱり忘れてたんだな。行かなかったら、その後の飲み会にも出られないじゃないか」

 地下に隔離されている身分といえど、僕たちにも同期はいる。研修で顔を合わせる機会があれば、定時後に飲みの席を設けて集まるのは自然な流れだ。しかし真壁はあっさりと首を横に振る。

「飲み会? 出ないね。おそらく余力もないだろうし」

「でも、同期と会えるのも久しぶりだよ。研修なんか寝てりゃいいだろ」

「研修で寝てるのに、終わってからの飲み会に出るなんておかしな真似はできない。そもそも巡回がなくても出ようとも思わない。まさか広瀬くんは行くのか?」

 真壁のまさかという言葉の方に違和感がある。僕の答えは決まっていた。

「研修を欠席する代わりに出させてもらうよ」

「何のために?」

「亀井ちゃんがいるから」

 研修そのものは参加できないにも関わらず、飲み会だけに行く目的はそれしかなかった。同期のアイドル、亀井芳美がほぼ確実に出席するためである。しかし真壁はやはり性愛感情の発達に問題を抱えているようで、素っ気なく短い返事をするばかり。

「ああ、そう」

 あの亀井ちゃんに無関心とは俄には信じがたい。一般人とは美的感覚が乖離している疑いすらある。机を挟んで対面にあるいつもの無表情が、ポーカーフェイスだとすれば相当な曲者だ。しかもその様子を訝しむ僕などお構いなしに、痛いところを突いてくる。

「君も懲りないな。先週のえなちゃんだったか、あれで痛い目を見たのをもう忘れたのか? それとも単に移り気なだけか。たぶん徒労に終わると思うが」

 まったくの図星だ。こっちはもうえなちゃんに夢を見られなくなったからこそ亀井ちゃんに期待しているのに、こうも水を差してくるとはコミュニケーション能力と人格に相当の欠陥を抱えているゆえだろう。そんな真壁を相手にするのは今日は止めにして、僕はカレンダーを覗きこんだ。質問通告締切まであと二十九日。僕は一向に事件が解決しないのにふと苛立ち、自分でもそれと意識しないうちに呟いていた。

「うるさいな」

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